10……天変地異2/2
彼女は押し黙り、口に手を当てて、身を引かせた。理子の引いた様子に健太は焦ったようにうろたえた。
「せ、先生」
「……そんなこと、いけませんよ。それに今更どうして」
理子の震えた様子。ショックを受けたように口に手を当てた仕草。それらは全て笑みを隠すためだった。おかしくて、楽しくて、嬉しくて、しかたがなかった。
「お金がいるんです。生きていくにはお金が。姉さんの入院費だって、これからだって」
「入院費も、これからも私が払いますよ。だから、そんなこといわないでください。私達、長い付き合いじゃないですか」
「そ、それじゃダメなんです! 先生に負担ばっかりかけて、ヘラヘラしてるのは我慢ならないんですよ。キチンと返したい。返さないとダメなんだ! ……そんなことしてちゃ、ダメなんですよ。恩も義理もちゃんと返さないと。だから、せめて俺を買ってください。俺を好きなようにしてください。僕にはこんなことしかできないから……」
無力な自分を呪うように、一生手に届かない何かを羨むように、健太は理子の服を握りしめて、俯いた。
「体を売ることが、健太さんの唯一できることだとは、私には到底思えません。もっと他にあるんじゃないですか?」
抱きしめ、言い聞かせるように彼女は言った。扉に背を預けて、彼のうなじに鼻を寄せて、匂いを嗅いだ。舐めて、かじって、咀嚼したくなる気持ちを抑える。
「……ないんですよ」
健太が彼女の胸の中で何かくぐもった声を上げる。理子は首を傾げた。
「なんですか?」
「俺にはもう、これくらいしかできないんです」
理子の手の中から逃げると、健太は乱暴に彼女の唇を奪った。カチリと少しだけ、歯と歯が唇の中でぶつかり、音を立てる。生ぬるい健太の舌が理子の唇を割って、侵入した。
そのまま理子を家の中に押し込み、玄関先で押し倒す。彼女は抵抗もせず、悲鳴も上げず、ただことの成り行きを見守った。驚いたふりを見せつつも、理子は冷静だった。冷静に自体を楽しんでいた。健太に犯されかけている状況と彼を拒む自分というごっこ遊び。
「……恩返しをしたいんですよ、先生。血と汗を、それこそ身を削るようなことをして、僕は。だって、それが生きるってことじゃないですか。痛みを知るってことが生きるってことじゃないですか。先生、僕は生きていたいんです。死んだように生きていたくはないんです。だから、断らないでください。僕を死んだままにしないでください。僕にはできることがあって、僕にはお金を払う価値があるってことを教えてください」
悲痛に顔を歪めて、懇願する健太に、理子は観念したような顔を作る。いつでも抜けだそうと思えば抜け出せる程度の力。拒絶を恐れたか弱い者の力。きっとそれは言葉だけで、吹き飛び消えてしまうもの。
理子は手を広げて、改めて彼を抱擁した。自分はどこにもいかない。拒絶しない。そんな意味を込めて、抱く。
「分かりました。健太さんがそこまでいうのなら、たくさんたくさん健太さんを買います。でも、先生、そこまでいくと止まれません。先生……いえ、私は健太くんのこと、今でも好きなんですよ。あんなことがあった今でも君のことが。それを抑えてきました。我慢してきたんです。昔みたいに健太くんを買いたいって思ってました。でも、それはきっと健太くんを酷い気持ちにさせちゃうって思ってたから、健太くんには笑っていてほしいって思ってたから、我慢してきたんです。今からすることは、それを変えてしまうことになるんですよ。きっと、もう二度と普通のお隣さんっていう関係には戻れません。途中で止めてくれっていっても、私にはもう、できません。それでもいいんですか? その決意があるんですか?」
「…………」
何も言わず、健太は目を瞑って、もう一度、唇を合わせた。
理子の手首の時計は日の落ちる頃を知らせた。靴が乱れ、汗の篭った玄関で彼女は衣服を正して、彼を見る。健太は相変わらず、衣服の乱れたまま、膝を抱えて自閉していた。
理子は少し寄りかかって、頭を撫でる。
健太の強迫観念じみた思考は冷ややかな言葉で言ってしまえば愚かとしか表現のしようがなかった。健太の他人へ恩返ししたいという言葉は、他人との繋がりを絶ちたいという言葉の言い換えに他ならない。しかし、他人との繋がりを絶とうとして、結果的により深い関係を築いてしまっている。罪を償うためにさらに重い罪を重ねているようなものだと彼女は思う。
それは丸い円を描く循環ではなく、螺旋の構造だった。延々と地下深くへと堕ちていく螺旋。
共犯的な互いが互いの責任を負担するようなものではなく、健太は自分に全ての責任があると望んで理子に体を売った。それも大きな依存を生むだろうと理子は思う。しかし、指摘もしなければ、それを正そうとも思わなかった。一番の理由は健太に自分を依存させるため。もうひとつは単純に言ったところで健太の意思は変わらないと分かっていたから。そして、健太は金という目に見える形でしか、自己評価を行えないと分かっていたからだった。
「健太くんは、お金という目に見える形でしか自分の評価を知りません。どうしてそんな考えになったか、あえて私は聞きませんし、知ろうとは思いません。でも、そこまで自分を追い詰める必要はないんですよ。自分自身ではなかなか気づけるものではないかもしれないですけど、健太くんには評価すべきところは他にも沢山ありますから」
「先生はいつも優しいですね。俺を責めたりしない。いつも責めるのは俺の方ばっかりで」
「そうですね。でも私はマゾだから、責められるのには慣れてますし、好きだからいいんですよ」
「なんですか、それ」
淡々とした顔つきの中に少しだけ笑みが浮かぶ。健太の肩に首を乗せて、彼女は恋人気分を味わった。
「健太くんが、それで楽になるっていうなら、私はこれからもたくさん健太くんを買います。君が私のことを好きになってくれなくても、私は構いません。私はこうやって、ただ一緒にいられるだけでも幸せなんです。でも健太くんは、それで幸せなんですか? 気持ちが楽になるだけで、幸せといえるんでしょうか?」
「別に僕は幸せになろうとだなんて思ってないからいいんですよ。僕はこういう生き方が相応しいんです」
きっと彼は最低限の生き方しかしないのだろうと理子は思う。最低限の食事と、最低限の睡眠と、最低限の快楽しか求めず、まるで修行僧のように自分を律して生きる。それが罪を背負う人間の業だと本気で考えているに違いなかった。
「なら、私が渡したお金はどうするつもりなんですか? ずっと眠らせたままなんですか? もったいないですよ、それ。好きな事に使って、自分の幸せを追求してもいいんです」
「俺には妹がいます。だから妹のためにもお金は残しておかないと。それに……」
「それに?」
「友達のために使いたいんです。約束したんです、俺。彼女のために、何でもするって」
がつんと頭を殴られたような痛みに理子は目を細めた。
それって。口の中で言葉が出かかるも、呑み込む。
「それが例の友達さんですか……? 詳しくその子のこと聞いてもいいですか?」
柔らかく健太を押し倒しながら、理子は笑った。




