01……こんにちは、平和の割れる音。
なるべく短くします。
地下駐車場の資材を運ぶためのエレベーターを上がった先だった。健太は口から火のついたタバコを落とした。
「なんだこれ」
健太は驚く頭をなんとか働かせて状況を確認する。
オフィス街の中でも頭ひとつ抜けたビルの屋上。そこが丸々家になっていた。高めの天井と見上げる位置にある窓からはさんさんと陽の光が降り注いでいる。ベランダらしき向こうにはおとぎ話じみた広葉樹の森。花と芝生と宙をたゆたう蝶が目に入る。
モーター音を低く唸らせながら車椅子が彼の横を通り過ぎる。彼女はリヴィングに上がると、健太の顔を見つめた。イタズラに成功した少年のような笑顔だった。
「びっくりした? 好きなところに座っていいよ。といってもお客用のソファはひとつしかないけど」
私の椅子はこれだからと彼女は車椅子を指して笑った。
「あ、ああ……」
靴を脱ぎながら、彼は何が起こったのだろうと記憶を反芻する。
朝はいつものように図書館に向かった。そこで時間を潰していた。自販機のある場所へ向かっている途中で車椅子の少女が子供に嫌がらせをされていた。最初は見て見ぬふりをしていたが、耐えられなくなって、後ろから子供を蹴り飛ばして止めた。無言で立ち去ろうとする彼に彼女は矢継ぎ早に言った。
――あなた、いつも図書館にいるよね。学校は? 偽善者ぶって何が楽しいの? 健常者の同情? 何でいつも同じ服を着てるの?
その時、健太は子供が嫌いなんだと答えた。学校には行っていないとも。
その答えに彼女は笑った。満足そうに笑った。
――あはは。私もね、実は学校に行ってないんだ。ねえ、良かったらさ、うち来ない? 家がないんでしょ? 泊まっててもいいよ。
良く見ると彼女の右半身から向こうは“なかった”。足はなく、上腕は金属の何かに付け替えられていて、肩まで伸びた髪に隠された右の頬からはケロイド調の生々しい過去の傷が見えた。
怪しいと思いながらも、彼が彼女の言葉に従ったのは金銭的余裕がなかったからというのが大きい。もう一週間も風呂には入っていなかったし、二日も食事らしい食事をしていない。ファミレスで過ごせるほどの金はもうなかった。
バスを乗り継いで、オフィス街の一等地に向かう彼女を半ば疑いながら、たどり着いた場所がそこだった。
「一瞬、女の子かと思ったけど、違うんだね。戸賀くん、そんなに細いのに。あ、ねえ、その口のピアスとか、耳のピアス、痛くない? 髪の毛、地毛?」
「君、何者? 俺に声をかけたのは金持ちの酔狂か? ビルの屋上に住んでる奴とかは何人か見たことあるよ。でも、庭に木を植えて、森を作ってるようなぶっ飛んだ奴は初めてだ」
「そっか、そうだよね。私のこと、気になるよね」
不意に健太を違和感が襲った。なんだろうと彼は考える。何かが相容れない。
「……あれ? 俺は君に名乗ってない」
そうだ、名乗っていないと口は一人でに動く。名乗っていないにも関わらず彼女は健太を“戸賀くん”と呼んだのだ。
何故、知っているのかと疑問に答えは定まらない。定まらないが、嫌な想像は容易にその姿をチラつかせた。過去がぞわりと背筋を舐める。
脱ぎかけた靴をそのままに、彼は裸足のまま逃げようとした。ドアノブを掴んで、力いっぱい回そうとした。しかし、びくともしなかった。それが彼の焦りと恐怖と震えを増長させる。確信めいた何かに手汗がにじみ出て、滑った。
「大丈夫。少なくとも君を私は責めたりしないし、戸賀くんに悪いことをしようと思ってるわけじゃないから。私はね、むしろ逆なのよ。戸賀くんに感謝したいの。彼女たちを殺してくれたことをね」
「や、やっぱり」
知っているのだと言葉が零れた。彼女は関係者なのだと思った。
手で口を覆い、健太は嗚咽する。すくんだ足が動かない。尻餅をついたまま動けない。彼女が何か言っているが、薄い膜を張ったように声が篭り、聞こえない。強い胸の鼓動が言葉と意識を押しのける。
そんな彼の様子に埒があかないと思ったのか、彼女は言った。
「シスター、コップ一杯の水を。彼の頭に」
天井から静かに伸びる白いアームが、三本指を上手く使って蛇口からコップに水を注いだ。健太の頭の上で手首に該当する部分が躊躇なく回る。問答無用に健太は水を被った。
「…………」
「ありきたりな言い方だけど、目、覚めた?」
怯えた表情のまま健太は目を瞬かせて、車椅子の少女を見た。
菅原由紀はアシンメトリーな顔を気にする素振りもなく、身を乗り出しながら歯を見せて笑っていた。
彼女はよく喋った。相槌を求めず、意見を求めず、独り言のように言葉を続けた。最近のこと、過去のこと、趣味、天気、経済、読んだ本のこと……雑多な知識を彼女は面白おかしく語った。
理由は明らかだった。健太の緊張を解すため。
「それで、その悪魔がいったのよ。君はこの後、死ぬけど命をくれるなら助けてあげるって。すっごいイケメンだったわ。目が緑色で。ああ、でね、私はその誘いを断ったの。命がないのに助かったって、意味は無いって思ったから。当時は命がないイコール、自意識の死だと思ったからね。こうね、命を抜かれたら、糸が切れた人形みたいにパタンって倒れて死んじゃうんだって。でも、悪魔の誘いって逆説的に考えてみれば、命を失うことが自意識の死ではないってことよね。これってクオリアの問題だと思うの。私の記憶を移したロボットが私を自称したとして、私はそれを生きた私が増えたと認識できるかどうか、ということにならない? 命がある私と、命がない私だけど私のように振る舞う精巧に模倣された私は第三者から見ても同じだわ。あ、もちろん、これは悪魔のいう魂云々が本当だったらっていう前提の元に考えるなら、だけどね。ま、結局、私は生きてるから悪魔のいうことは嘘だったのかもしれないけど」
空になった紅茶のカップを天井から伸びたアームがよこせと催促した。壁際で膝を抱えながら、健太はおっかなびっくり、カップを渡す。
緊張は解けつつあったが、目的のはっきりしない彼女にはまだ油断できなかった。
「ああ、私は死ななかったけど、父と母は死んだわ。事故でね。ねえ、私が生きていて、両親が死んだという事実はさ、こう考えられないかな。両親は私の命が助かるように悪魔と契約した。最近、思うのよ。私が助かったことと、こうやって運に恵まれて、一生かかっても使い切れないお金を得られるようになったのは実は両親が悪魔と契約した結果なんじゃないかって。そう考えると自分の行い全てが予め決まっているようで嫌になるわ。運命論みたいじゃない? 呪いみたいじゃない? 何をしても未来は変わらないみたいな。あ、私の両親がどうやって事故にあったかっていうとね、運転中に父が飛び出した子供を助けようとハンドルを切ったのが原因なのよ。自転車に乗った子供たち。電柱と壁に激突した時、母は即死だった」
ゆっくりと火の勢いを上げる車内で彼女は助けを呼んだ。割れた窓から、腰を抜かしている子供たちに手を伸ばした。原因が自分だと知って恐れ慄いている少女に向かって、助けを。救いの手を求めるように。
しかし、少女たちは何もしなかった。何も。
「警察を呼んでっていったのが悪かったのかな。その子たちは逃げたの。助けを呼んだりとかせずに、逃げた。あとから聞いた通報者も案の定、普通のオジサンだったわ。今でもね、時々、その時の夢を見るわ。背を見せて走り去る女の子と父と母が燃えていくのあの地獄みたいな瞬間を」
いつも自分の泣き叫ぶ悲鳴で目が覚めるのだと彼女は笑った。
その口ぶりには悲愴も絶望も込められていなかった。まるでドラマチックな映画の内容を伝えるような、他人ごとのような、不気味な様子だった。
健太は自分の半身と両親を失ったことを笑って語れる彼女の思考が、まるで理解できなかった。
「お前は、自分の人生をそこまで変えた相手を恨んでないのか?」
普通に生きていれば、普通に幸せだったかもしれない人生。助けさえあれば、それほどではないにしろ今よりもずっと幸せだった人生。それを、他人の悪意で大きくねじ曲げられる。その相手は何もペナルティがない。そんなことを思い、彼はぞっとする。
その恐怖を隠したくて、彼は口を開いたのだった。
「私が彼女たちを恨んでないか? あはは、何いってるの? 死ぬほど恨んでるに決まってるわ。はらわた煮えくり返るっていうの? それよね」
「じゃあ――」
「――戸賀くん。私ね、こんな身体になったけど、こんなスチームパンクなロボットの腕みたいになって、足なんかなくなっちゃって、片目なんて殆ど見えなくなっちゃったけど、彼女たちを探したのよ。探した、死に物狂いで。名前も住所も知らなかったけど、顔だけは目に焼き付いていたからね。目的はもちろん復讐よ。絶対、許さないって思って探した。それでね、分かったの。場所が? 名前が? 違う、違う。彼女たちが死んでるってことが」
どくんと健太の胸が強く打った。息が浅くなる。
霧が晴れていくように、彼女の言葉の先が見えてくる。奈落の底のような、崖の切り口のような絶望色の先が。
「そう、戸賀くんが殺してくれてたのよね。正しくは戸賀くんのお姉さんだっけ? 妹さん? どっちでもいいけど、戸賀くんが……健太くんがそそのかして殺してくれたんでしょ? 十人も」
ピンと張った線が揺れるような、耳鳴りが彼を包んだ。
母の顔がフラッシュバックする。姉の顔がフラッシュバックする。妹の顔がフラッシュバックする。彼は吐いた。父の顔がフラッシュバックする。彼は吐いた。クラスの女子の顔がフラッシュバックする。吐いた。無数の顔がフラッシュバックする。吐いた。妹が血溜まりで笑っている姿がフラッシュバックする。もう一人の妹が笑っている顔が見える。弟が笑っている姿が見える。
彼は嗚咽しながら吐いた。吐いて、血を吐いて、悲鳴を上げた。