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伝説の悪魔来る

 ゆっくりと開いた扉の隙間から、そろりと健心が顔を覗かせる。


「あ、あの、すみません、遅れて……」


 申し訳なさそうに健心は言う。

 何も言わず、海里は笑顔で手招きする。ソファーは昨日と同じ場所が空いている。新入生が来たらここに座らせるのだと海里が楽しみにしていたことを璃沙は思い出す。

 光明も星河も笑顔を浮かべている。決して怒っていたわけではない。

 びくびくしていた健心もほっとしたようにソファーに座ろうとする。その瞬間に表情が一変することにも気付かずに。

 シュッと音がした。


「う、うわぁっ! な、何するんですかっ!?」


 慌てる健心に誰が答えるわけでもなく、またシュッと音がした。咄嗟に健心が目を閉じた瞬間、容赦なくシュッシュッと繰り返す。

 ようやく音がやんだところで、健心がおそるおそるといった様子で目を開ける。


「なんかテラ君から、凄く嫌な臭いがした気がして」


 海里が消臭スプレーを片手に笑みを浮かべている。璃沙から見て可愛らしいと言えるようなものではない。冷たい目の笑顔だった。


「え、お、俺、臭いですか?」


 嫌な臭いがすると言われショックを受けない人間はいないだろう。

 健心は自分の臭いを嗅ごうとしたのだろうが、すでに消臭剤の臭いとなっているはずだ。さすがに消臭剤が滴る様はやりすぎにも思える。そもそも、人にかけるものではないだろう。

 しかし、臭いと言えば確かに臭いのだ。彼女にマーキングされたと感じるのは錯覚ではないだろう。


「うん、入ってきた時、臭いと思った」

「思いっきり臭ったな。見ろ、光明なんか失神したぞ」


 星河が指さす隣には完全に伸びている見える光明の姿がある。こうなると最早生物兵器だと言っているようなものである。


「あの女、うちの可愛いテラ君にまで……!」


 消臭スプレーをギリギリと握り締める海里の口調からは明らかな怒りが見受けられる。だが、次の瞬間にはコロッと笑顔に変わる。


「あ、僕も、テラ君って呼びますけど、いいですよね?」


 そうあだ名を付けたと璃沙が報告した時から海里は呼びたくてうずうずしていた様子だった。一番誰かと仲良くしたいと思っているのは海里だ。


「それはいいんですけど……あの女って」

「名前も口にするもおぞましいあの目狐ですよ。しっかりマーキングしやがって……」

「更紗先輩ですか?」


 その名を口にしたことを健心は次の瞬間には後悔させられただろう。部室内の気温が下がったのではないかと思うほど、居辛い空間に変化する。ドンと海里がテーブルの上にスプレーを置く音がやけに大きく響いた。


「テラ。あんた、あの香水臭いビッチに何言われたの?」


 璃沙は尋問するようにじっと健心を見る。彼女の名前を口にするのは璃沙にとってもおぞましいことだ。タブーですらある。


「いえ、あのですね、さっき、更紗先輩がお越しになって……」


 健心の言葉はバンという音に遮られた。海里がテーブルを叩いたのだ。目が完全に座っている。


「結論を言ってくださいよ、テラ君」


 こうなると璃沙や星河も迂闊に触れられない。暴れ出すようなことはないが、普段大人しい彼がキレると面倒なのだ。触らぬ神に祟りなしというものである。

 実際、精神的にダメージを負ったという被害もあるくらいだ。


「なんか……付き合うことになっちゃったみたいです」


 健心は俯く。この空気で顔を上げられるほど肝は据わっていないようだ。

 窓辺でサンキャッチャーが煌めくのに、空気は淀むばかりだ。それもこれも更紗のせいだ。一気に攻めてきた。だから、忠告したというのに。


「テラのバカ」


 言葉はぽつりと口からこぼれた。裏切られたなどと言っては大げさだ。


「約束したのに」


 更紗が本気で攻めてきたら、よほど意志の強い人間でない限りあらがえないだろう。肉体的にも精神的にもダメージを受ける。

 けれど、心を許してしまえば、もう付け入られるだけだ。


「簡単に籠絡されたようだな」


 光明も意識を取り戻した。その視線は真っ直ぐと健心に向けられ、彼は益々下を向いた。理不尽だと思われているかもしれない。それでも、璃沙達は責めるしかない。慰めて甘やかすことはできない。それは彼を弱くする。


「巨乳好きだったとはな」

「巨乳なんていいのは今だけ。何事も程々がいいのよ」


 はちきれそうな胸元、抱きつかれた感触を思い出せば怖気が走る。


「てめぇは単純に僻みだろ。その程々にも満たねぇくせに」


 聞き捨てならないことを言う星河を璃沙は睨む。


「いくら璃沙先輩に全くこれっぽっちも望みがないからってあの女に走るのは間違いですよ?」


 すらすらと海里は言う。いつもはゆっくりと区切られる彼の言葉が淀みなく発せられる時は怒りの現れでもある。

 望みとは何だろうか。璃沙は考える。


「あ、当たっちゃいました?」


 いつもの口癖だが、少し違う。クスクスと笑う彼は璃沙にも少し怖いくらいだ。目を細め、微笑む様は冷たく、妙な色気すらある。


「いえ、あの、凄く強引にですね……」


 健心は弁明しようとするが、無駄なことだ。この険悪な空気はどうにもならない。そして、彼の無実の証明は突然遮られた 。



「おいおい、折角の祝いの日に仲間割れか?」


 ノックもなく、彼はひょっこり現れた。来校者バッジを付けた青年だ。イケメンと言って差し支えないだろう。

 オレンジブラウンの髪は璃沙が初めて彼と会った時よりも落ち着いている。

 背は高く、私服は今日もおしゃれだ。彼は自分の良さをわかってやっているのだろう。黒い牙のハードなネックレスが胸元で主張している。


「げっ」


 真っ先に反応したのは光明だった。


「そりゃあねぇだろ。お前が有言実行したって言うから見に来てやったんだぜ?」


 いい先輩だろ、と彼は笑う。

 嫌そうにしているのは光明だけである。


「誰のせいで、俺が苦労したと……ぐふっ」


 苦悶の表情を見せる光明はまたどこかが痛み出したのだろう。


「まあまあ、差し入れだ」


 彼は光明を気にするわけでもない。両手に持ったビニール袋を掲げ、飲み物が入っているらしい袋を星河に、お菓子が透けて見える方は璃沙に差し出してきた。


「どもっス」


 星河は使い捨てのコップと飲み物を並べていく。


「ありがとうございます」

「さすが、わかっていますね」


 海里もこれには嬉しそうに笑顔を見せる。彼もまた嬉しそうにして、それから健心に歩み寄る。健心がガタッと立ち上がった。


「で、新入りだな。俺はOBの榊圭斗(さかきけいと)。最後のオカ研部長、伝説の男ってやつだ」

「伝説の悪魔の間違いでしょうに」


 光明が即座に訂正に入った。彼はとにかく圭斗を嫌っている。オカ研再興に燃えた彼にとって最大の敵が圭斗なのだから無理もないのかもしれない。


「えっと、日高健心です」

「テラって呼ぶことにしました。寺の息子だから」


 寺の息子が入学してくる。光明がその情報を掴んだ時から、璃沙の中で健心は寺の息子でしかなかった。

 だから、テラなのである。


「寺の息子ねぇ……じゃあ、やっぱりお前、一心さんと清心の弟だろ?」

「あ、兄達を知ってるんですか?」


 健心は驚いた様子で圭斗を見る。


「そりゃあ、まあサイキックのよしみで。嫌われてるけどなぁ」

「嫌われるようなことしているからでしょう」


 光明はとにかく圭斗に突っかかる。オカ研を潰されたことを相当根に持っているらしい。あるいは手回し、その後の妨害工作の数々か。


「所属の問題だよ。ボスが嫌われてる」


 あのボスなら、無理もないと璃沙はぼんやり思い出す。ほんの数回会ったくらいだが、強烈であった。


「まあ、折角来たんだし、ちょっとばかし、あいつらに嫌がらせしておくか」


 ニヤッと何かを企んだ顔で圭斗はパチリと指を鳴らした。

 だからと言って何かが起こるわけでもない。けれど、普通の人間には見えない変化は確実に起きているはずだった。

 ポカンとして見ている健心の袖を海里が引く。

 テーブルには既にたくさんの菓子が並べてあり、星河がコップを差し出す。ソファーに座った健心が受け取れば、その肩を圭斗が叩く。


「まあ、飲め食え」

「あ、ありがとうございます」


 振り向く健心のコップに圭斗がコーラを注ぐ。

 そして、注ぎ終わると圭斗は部室の隅に置いてあったパイプ椅子を掴み、璃沙の近くに座った。

 隣から何やら物音が聞こえてきたのはその時だった。

 ガタガタという音と悲鳴、健心はビクリと肩を震わせるが、皆悠々とそれぞれの飲み物を口にしている。

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