襲いかかる毒牙
オカ研が部として認定され、二日目。
特に何かが劇的に変わるわけでもない。
いつもの四人が部室で五人目を待っている。
「遅い、ですね」
ソファーの定位置に座って海里が首を傾げる。
昨日、入ったばかりの部員がまだ来ない。
ホームルームはとっくに終わっているはずだ。せっかちと言われれば、確かにその通りかもしれないが、不安になる要素があるのだ。
「捕まったか」
重々しく光明が吐き出せば、「だろうな」と星河が頷く。一気に空気が悪くなったのは気のせいではないだろう。
璃沙も気分の悪さを感じている。いくら光明に散々文句を言われながら、浄化グッズを次々に部屋に置いても無駄なのだ。
隣に彼女達が居る限り、空気が清浄なものになることはまずありえない。
「やはり、冥加君を迎えに出すべきだったか」
ちらりと光明の視線が向けられて、璃沙は溜息を吐く。こうなるのはわかっていたことだ。
「子供じゃないんだから」
なぜ、わざわざ迎えに行ってやらなければならないのか。
「冥加君しか対抗手段がだな……」
「あんた、あたしを用心棒か何かだと思ってるかもしれないけど、あれは何度だって来る。あたし達の目の届かないところだって仕掛ける」
璃沙とて殺虫剤になりえない。餌であることを光明達もわかっているはずだった。
「泳がせて様子見るしかないじゃないの」
「大丈夫、でしょうか、彼。と言うか、僕達も」
不安げに海里は言う。だが、大丈夫だと言い切ることが璃沙にはできない。
再び四人になることだって十分に考えられる。
「あ……来たみたいですね」
真っ先に気付いたのはやはり海里だった。足音と話し声が聞こえた。
そうして、小さなノックの後、扉は開けられた。海里の手がそっとあるものに伸びたのを璃沙は見逃さなかった。
*
璃沙達が部室で待つ頃より時を遡ること数分、健心は真っ直ぐ部室に向かうつもりだった。
一言で言えば、朝から大忙しだった。あの後、どうなったのかと質問責めにされ、健心は疲れていた。
兄や姉、先輩などからオカ研の悪い噂を聞き付けた彼らは健心以上にそのことを知っているという口振りで、《闇のマドンナ》と呼ばれる璃沙のことを好き放題に言っていた。
そして、健心は璃沙のことがわからなくなった。
彼らのことは悪い人間ではないと思うのだ。だから、健心は部室に行かないということは考えなかった。たとえ、クラスメイト達から今からでも逃げろと言われようとも。
しかしながら、その来客はあまりにも予想外で、足を止めてしまった。約束を守るためには逃げなければならないと本能的にわかっていたはずなのに。
「日高健心様」
「えっ……?」
健心の目の前でにっこりと笑むのは美空更紗だった。
「わたくしのこと、お忘れになりまして?」
忘れたはずがなかった。その甘い香りを、握られた手の柔らかさを、暖かさを覚えている。
「美空先輩……?」
「覚えていただいて光栄ですわ」
ぱっと明るくなる表情に健心の心臓は跳ね上がる。
「昨日、お名前もお聞きできなかったので調べましたの。お話、したいのですけど、よろしくて?」
まだ健心の中には理性があった。璃沙との約束がある。断らなくては、逃げなくてはとは思うのに、何も言葉を紡げない。
「お時間はとらせませんわ」
この際、誰かを生贄に捧げてしまいたくもなるが、誰も近寄ってこない。昨日、警告してきた男子さえ離れている。
「いや、あの、俺……」
どうにか逃げの言葉を、約束を守るための行動に出ようとしたのに、できなかった。
それどころか、その一瞬何が起きたかさえわからなかった。
昨日、璃沙のせいで何かが振り切れた気がしたのは間違いだったとさえ感じる。今こそ本当に振り切れて、壊れてしまったのかもしれない。
「あ、あの、み、美空先輩?」
健心の声は自分でもわかるほど震えていた。
甘い香りを吸い込んで頭が痺れる気がした。けれど、感覚は鋭敏になっている。柔らかで暖かいものに包まれている。
「更紗とお呼びくださいませ、健心様」
「さ、更紗先輩……?」
ぎゅっと更紗に抱き付かれていた。手の所在をどうしたらいいかわからない。触れてはいけないような気がする。抱き締め返すことができたなら良かったのだろうか。
忘れてはいけないのはここが教室だと言うことだ。
「あ、あの、離れていただけませんか?」
本当はこのまま離れたくなどない。美少女に抱き付かれて、柔らかなものを押し当てられるということが今後どれだけあると言うのだろうか。そうそうあるはずがない。
健心も自分がモテる男ではないという自覚はある。だから、今、この時を楽しみたいと思っても罰は当たらないはずだった。
「なんて、冷たい……! 昨日の優しい健心様はどこへ行ってしまったのですか!?」
パッと更紗が離れたかと思えば、レースのついたハンカチを片手に涙を拭う仕草を見せる。
こんな時の対処方法を健心は知らない。助けを求めるようにキョロキョロと周りを見回しても目を逸らされる。
「健心様は照れ屋なのですね! あぁ、わたくし、なんてはしたないことを……!」
どんどん進める更紗に健心はついていけない。相手は先輩であって、女の子であって、強気に出ることもできない。そもそも、免疫がないのだ。
「でも、わかってくださいませ。わたくし、あなたの優しさに触れて、好きになってしまいましたの! わたくし、美空更紗と結婚を前提にお付き合いくださいませ」
勢いよく頭を下げる更紗からは甘美な香りが押し寄せるが、まだ璃沙のことがよぎる。
「あ、あのですね、気持ちはありがたいんですけど」
璃沙の言うことが信じられるかと問われればそうとも言い難いが、突き飛ばされて転んだ女子を助けただけで一目惚れされるという展開があるはずがないとも思うのだ。
もし、璃沙の言うことが本当ならば、これも策ということになるのに違いないのだから。
「まあ、健心様に喜んでいただけて、わたくし嬉しいですわ。それはお付き合いいただけるということでよろしいのですわね?」
更紗は以外にも強引だった。ずいっと顔を近付けて迫ってくる。
「い、いえ、あの、困ります。俺……」
とにかく部室に逃げなくては、と思う。そうすれば、誰かが助けてくれる。それこそ、璃沙が彼女を追い払ってくれる気がした。それなのに、更紗はまたハンカチを取り出す。
「あぁ、健心様。私のことが迷惑なのですね!」
「そ、そんなことないです!」
年上の美少女相手にそう言える甲斐性が健心にあるはずもなかった。
「では、わたくしとお付き合いできない理由が他におありになるのですか?」
「えっと……」
「すでにお付き合いされている方がいらっしゃるのですか?」
「い、いませんけど……」
「では、何の問題が?」
畳みかけられて健心は口ごもる。
嘘でも吐ければ良かったのかもしれないが、不幸なことに健心は馬鹿を見る正直者であった。
「まさか、想いを寄せていらっしゃる方がいらっしゃるのですか?」
「いないんですけどね」
「では、良いではありませんか」
断れるだけの理由が思い付かない。たとえば、璃沙に心を奪われたとでも言えば良かったのかもしれない。彼女はダメなのだ。ときめかせておいて、微塵も望みがないことを見せ付けられた。打ちのめされ、希望もない。ただ約束だけが縛り付けてくる。
「あの、俺、部活に行かないと。今日、大事なお祝いがあって……」
時間を取らせないと言ったのは彼女だ。早く行かないとどうなるかわかったものではない。璃沙を思い浮かべればぞっとする。健心はその勢いで鞄を掴んで走り出すつもりだった。
「では、一緒に参りましょう。お隣なのですから」
しっかりと腕を絡まされ、逃げることは不可能なのだと思い知らされる。
結局、そのまま歩き出すしかなかった。部室に着けば、どうにかなるに違いない。
「さあ、健心様。携帯電話をお出しになってくださいませ」
更紗が手を出してくるが、出してしまったら負けだと健心は考えていた。しかし、更紗はするりとポケットからそれを抜き取ってしまう。
「わたくし達、恋人同士になったのですから、当然でしょう?」
「えっ……そんな……」
どうぞ、と笑顔で返された時にはしっかりと登録されていた。
「健心様、まさかわたくしの渾身のプロポーズをお受けいただけないのですか……?」
彼女が本気でないと思いたかった。こんなことがあっていいはずがないと何度も否定するのに、彼女の押しが強すぎてどうしたらいいかわからない。
「せめて、友達からとかじゃあ……」
こうなってしまった以上、恋人という関係からは逃げたかった。
「では、まずは体からにいたしましょうか」
「はい!?」
とんでもないことを更紗が口走った気がして、いよいよ璃沙の言葉が本当だったのだと信憑性を持ち始める。
このままだと本当に既成事実を作られてしまう。否、携帯電話のアドレス帳にハートマーク付きで登録されてしまった時点でもう手遅れなのかもしれない。
健心は危機感を覚えた。
「わたくしは構いませんわよ? 相性は大事でございますから」
「あのですね……」
こうなったらガツンと言わなくては、と健心が決意を固めた瞬間だった。するりと更紗の腕が離れた。あまりにあっけなく。
「では、また後で」
ニッコリと笑んで手を振りながら、彼女はどこかへ入っていく。いつの間にか部室の前にまできてしまっていた。
何はともあれ更紗から解放されたことに安堵し、健心は部室の前で深呼吸する。それから扉を開けた。