ようこそ、オカ研へ
独特の雰囲気がある。
そう思えば、ふぅと溜息が零れる。自分も二年前はここにいたのだ。
振り返れば、二年は短かった。平穏な学園生活を送るはずがある男の夢に付き合わされて、ようやく実現の時を迎えようとしている。
その大事な一歩を自分が踏み出すからと言って、特別緊張するわけでもない。
大役を任されたからと言って信頼されているのとは違う。便利に思われているだけだ。自分達が持ち合わせていない武器を唯一持ち合わせているのだから。
一年生の教室が立ち並ぶ廊下で冥加璃沙はもう一度小さく溜息を吐いた。
明るい栗色に染め、ショートカットにした髪は今日に限って寝癖が頑固でなかなか取れなかった。
グロスを塗ったばっかりの唇がもう乾いているような気もする。
さっき、鏡の前で直したはずの黒いリボンはまだ曲がっているように思えた。完璧に飾ったはずのピアスのバランスもなぜだか妙に気になる。
いつもはブラウスのボタンを開けているせいか、一番上まで締めて息苦しくも感じる。
お気に入りの刺繍が入った黒い上履きはおろし立てなのに汚れが目につく気がする。
それでも好機を逃すわけにはいかない。レースのハーフフィンガーグローブに包んで手をぎゅっと握り締めて、一年の教室に踏み込む。
キョロキョロと見渡して標的を探す。そして、見付ける。
歩み寄って、じっと見詰めて確認する。獲物の顔は覚えさせられている。
「えっと、何か……?」
ターゲット――日高健心がゴクリと唾を飲み込んだのがわかった。
「あ、あの、えっと……」
何を言ったらいいかわからないといった様子の健心の声は震えている。
見かねたように彼の後ろの席の男子が背中を突いたようだ。
小声で『お前、闇のマドンナと知り合いかよ?』と聞いたのが、璃沙の耳にも入る。
こうの学校における璃沙の異名を既に知っている者がいることは予測の範囲内だ。先輩や兄弟にでも聞いたのだろう。
だが、健心は何も知らない様子だ。
「日高、健心君……だよね?」
標的は完全にロックしている。
だが、ここはあくまで不安げに、自信なさげに問う。しおらしくしろ、と耳が痛くなるほど言われ、この方法を後輩から伝授された。
「は、はい、そうです!」
健心はガタッと席を立つ。
「君をずっと待っていたの」
台本通りの台詞で一撃、手応えは感じられた。
「おいで」
二撃目、これも決まったらしい。
頷いて鞄を手についてこようとする健心を見て、どうやら後輩の言うことは正しかったらしいと璃沙は安堵する。
だが、邪魔者がいた。
「お、おい……!」
後ろの男子が彼の腕を掴んだのだ。
健心が振り返れば男子はしきりに首を横に振っている。行くな、と言っているようだ。
「ごめん、健心君借りるね?」
すまなそうな顔をすれば、男子の手がパッと離れる。
後輩による対処法も完璧だったらしい。時折何を考えているかわからない彼が余計にわからなくなった気がした。
そんなことよりも次はどんな邪魔が入るかわからない。さっさと目的地まで連れ込むしかない。
璃沙は少し早足に前を歩いた。
「あ、あの……」
必死に後を追ってきていた健心に声をかけられた。
「早く部室でゆっくり話そうよ。ね?」
振り返ってニコリ、これもマニュアル通りの対処だ。
今ここで色々と話すのは得策ではない。
大きく頷いた彼は黙ってついてくる気になったようだ。
部室前に着いた璃沙はすぐに扉を開け、探らせる暇も与えずに手招きする。
室内は常に璃沙が綺麗にしている。応接室のようにも見える。
部屋の中央には二人掛けのソファーが二つと一人掛けが一つ、それからテーブルがある。
壁側には色々な本や資料が入った棚、窓側にはパソコンが置かれたデスクがある。
璃沙は健心をソファーへと促し、入部届けと書かれた紙とペンを置く。
「ここにサインしてくれる?」
横から覗き込むようして言えば、健心はサラサラと書く。朱肉を差し出せば、素直に拇印を押す。
こんなにうまくいっていいものなのか、璃沙は疑問に思う。
しかしながら、ここから先はもう自分の役目ではない。
「よし、日高健心、今日からうちの部の一員だ。一日千秋の思いでこの時を待っていたぞ」
「え?」
急に聞こえてきた男の声に健心がビクリと肩を震わせる。
「もう逃げられねぇからな」
別の男の声と共に健心の目の前から入部届がひらりと消える。璃沙もそこから離れて自分の定位置に向かう。
制服を着ているが、健心とはまるで体格が違う男だ。身長もさることながら、厚みのある体躯はよく鍛えられているらしい。
髪こそ全く染めていない漆黒、アクセサリーの類も特に付けていないが、制服は着崩している。その目つきは悪く、不良だと言われても仕方がない。
現に健心が震え上がったのが璃沙にもわかった。
「あ、大丈夫ですよ。その人、無闇に暴力振るいませんから」
健心の隣にはいつの間にか少年が座っている。
儚げな少年と言うべきか。左目が前髪で隠れていて、少し陰気も見えるが、悪い雰囲気はない。にこにこと笑んでいる。
「ようこそ、オカ研へ?」
璃沙は自分専用の一人掛けソファーに座って笑ってみた。
「おか、けん……?」
健心は首を傾げる。しかし、ここから先は璃沙の仕事ではない。
「俺は部長の宮地光明、よろしく」
最初の男が向かいから手を伸ばせば健心も反射的に手を出す。
彼はメタルフレームの眼鏡をかけた典型的な優等生といった体だ。制服もいつも息苦しそうなほどきっちりと着ている。
「天神星河、副部長だ」
強面の男が言う。彼とも握手を交わす。
「同じく副部長の僕は鬼海海里、唯一の二年生です」
健心の隣に座った男子が丁寧に頭を下げる。
そして、海里の目が璃沙へと向けられた。
「冥加璃沙」
それだけだ。偽りの笑顔を浮かべる必要はない。
「宮地、天神。あたしは任務を遂行した」
璃沙は光明とその隣に座った星河を睨む。
光明が溜息を吐いた。
「君はまだ義務を果たしていない。日高少年の様子を見るにそういうことなのだろう」
「えっと……その、何なんですか?」
「オカ研だって言ったでしょ?」
答えを求められても璃沙に言えるのはそれだけだ。
「オカルト研究部、略してオカ研です。五人目の部員に選ばれたんですよ、日高君」
海里は丁寧だった。
彼も肝心なところに触れないのは同じだが。
「な、何でですか……?」
「あんたが寺の息子だから」
「はい?」
「寺の息子なんだから、霊感とかあるんでしょ?」
そんな短絡的な考えをしたのは璃沙ではない。
そう教えられたから言うだけだ。
「い、いや、よく言われるんですけど……ないんです」
「あぁ?」
健心が答えた瞬間、星河が声を発する。
柄の悪い彼に健心が震え上がる。
「日高少年の兄上は二人とも優秀なサイキックだと聞いている」
光明が言う。
新入生の日高健心は寺の息子であり、三人兄弟の末っ子だ。兄二人はサイキックとしてその界隈では有名だと言ったのはこの男だ。
サイキックという言葉には霊能者、超能力者、霊媒の類まで含まれる。かつてのオカ研ではこの言葉が使われたという。だが、この場合必要としているのは霊能者だ。
「あ、そうなんですよ。俺だけ霊感ゼロで」
「んだと?」
星河も光明に教えられ、信じていた口だ。
声に怒気が籠もるのは無理がないと言える。
しかしながら、室内の空気は良からぬものへと変わっているのかもしれない。
窓辺にはキラキラと輝くサンキャッチャー、棚の中には数々のパワーストーンを飾っていると言うのに、星河はガラクタとしか思わないのだ。そうして、空気を淀ませる。
尤も、璃沙も彼の直情的なところを軽蔑しているわけでもない。
「ひぃっ、ごめんなさい! ごめんなさい!」
とにかく謝るしかないとばかりに健心は頻りに頭を下げる。
テーブルに頭をぶつけんばかりだ。
彼が悪いわけでもないし、部室内で怪我人が出るというのも好ましくない。
「いいじゃない。どうせ、もう入部届書いちゃったんだし、あたしのせいじゃない。あんたの情報っていちいち穴があるわよね」
健心を騙して連れてきた実行犯は璃沙だ。
しかし、言い出したのは光明であり、全員が共犯だ。
光明は見た目こそインテリ系、頭脳派だが、彼の完璧ではない計画に何度困らされてきたことか。
陰の参謀は海里であると璃沙は思う。穏やかに笑っているが、彼は璃沙も頭が回らないところまで想定していた。恐ろしい後輩だと常々思う。
「でも、後ろ盾はできるってことじゃないですかね」
やはり海里の頭はよく回ると言うべきか。
何かあった時、健心を窓口に兄二人を引き出せることになるのだから。