Water Drop
ねえ、何で泣いてるの?
ねえ、何で隣にそいつがいるの?
俺はどうやって聞いたらいい?
その唇が、隣とは違う名前を呼ぶのを。
[同じ人を、俺たちは違う名前で呼ぶ]
「初めまして」
そう入るなり頭を下げた彼を見て、君は目を大きくした。微かな変化だけど俺は気付いた。
些細な違いも敏感に感じ取る、そんな間柄になったのは長年の成果で。相棒、よりそれ以上、鏡の自分くらい合っちゃうんだから運命共同体?
「今日から宜しくお願いします」
なんて、どうしてだろう。何か感じた違和感は、正体も名前も分からない。
にこやかに一人一人に挨拶する姿が、何故か癪に障った。
突然、君は新人な彼の手をひいて部屋を出て行く。周りが引き留めるのを「ちょっとすみません」と流しながら。
君より一回り小さい、俺と変わらない背。俺よりふわふわで、昔の君に似た髪型。戸惑いの目の色は見たことがあるような気がしたが、俺は首を振った。
暫くたっても帰ってくる様子もなくて、「じゃあ俺呼んできます」なんてお節介な役を買ってでる。
廊下には誰もいない、自動販売機を見ても誰もいない。ふらっと探していると、人の声が聞こえてそっちに行った。
「……っ」
君が、泣いていた。
誰にも涙を見せない、辛いことがあっても笑っている君が、ただ子供のように泣いていた。
「ごめんね」
少し鼻に抜けたような甘い声の彼が、隣にしゃがんだ。その表情は、俺の胸を貫いた。
「もっと早く伝えれば良かった。でも、兄貴の仕事は俺が継ぐから」
ごめん、ともう一度沈んだ声音で話す。そっと君の柔らかな髪を撫でた。優しく、梳いてあげていた。
「馬鹿だよ、ほんと」
そう言って君は、彼じゃない名前を口にした。それに彼は動揺することなく、「ごめんね」を繰り返した。
ずっと君は彼じゃない名前("兄貴"の名前?)を呼んでいる。彼の服に皺を作りながら、染みを作りながら。
それを受け入れて包み込んで。そっと柔らかく笑った。
「俺は、どうやってお前を見たらいいの?」
「どっちでもいい。顔や癖は似てるし、でも背や性別は違う。俺は兄貴じゃない」
でも兄貴としてここにいるんだ、って哀しげに言うんだ。
その時ね、俺不思議に思ったんだ。似た者同士って、お互い甘えて甘やかすんだろうか、って。
「……は、そのままでいいよ」
また違う名前で、彼を呼ぶ。
「ありがとうね」
「こっちこそ、ありがとう」
赤い目を細めて笑う君を、彼はもう一度強く抱きしめた。そして立ち上がる。
「あっ、二人とも。皆が呼んでる」
俺はつい今し方来たかのように装って、二人に声をかけた。
「泣いて、たの?」
「大丈夫だから!」
やっぱり君は俺の前では強気な君で。これ以上聞くな、って無言の圧力かけて。鉄の仮面で弱さを覆うんだ。それを剥がしたら、泣いてしまう。
でも隣で「長く連れ出しちゃってごめんね」と、連れ出したのは彼じゃないのに、眉を下げて笑う彼を見て、俺は胸のつっかえが取れた気がした。
「いや、いいんだ。行こう」
その困ったような笑顔や、あからさまな笑顔がそっくりなんだ。彼は、君に似ていたんだ。中性的な顔立ちも、笑い方も、少し切れ長な目も。
「遅い」
そう先輩に怒られて、二人は同じようにしゅんとした。それに思わず笑ってしまった俺が今度は怒られ、また二人と同じように落ち込んだ。
俺らはその状況に、本当の笑みを零したんだ。
彼に聞いたら、従兄弟だと答えた。君のそばに居て、君を守ると言った兄の約束を守るために、ここに来たと。だから兄の名を騙っていると。兄は、死んでしまったのだと。
俺は上手く笑えなかった。
それに彼は「そんな顔しないで」と君に似た表情で頭を撫でた。君にしたように、君よりさらさらな髪を梳いた。
「自分を捨てて、それでいいの?」
俺がそう聞いてみると、彼は君がたまに見せる笑顔で言った。
「俺は俺だし、ここにいれて幸せだよ」
俺、と抵抗なく呼ぶことが今更悲しくなって、「馬鹿だよ、ほんと」と呟いた。
そうすれば彼は一重だけど大きい目を僅かに広げて、それから徐々に笑みを深めていく。
「流石だね」
何が流石か分からないけど、俺は少し心地よくなりつつある彼の隣に暫く居た。
「好きだ」
その肩越しにちらと見えた顔を無視して、彼――彼女に言う。胸を刺したこともこの際触れないことにしよう。
「うん」
全て見透かしたような目で俺を見てくるのが痛い。でも彼女は何も言わなかった。
「付き合って」
静かに頷いた彼女を抱き締める。君と同じ甘い香水の匂いに酔いそうになりながら、しがみついた。
彼女はブーツの所為で俺より若干背が高くなっていたけど、やっぱり君と違って小さかった。そして君も華奢だけど、彼女は女性の華奢さだった。
ふと顔を上げて目が合ったけど、君はすぐに伏せてどこかに行ってしまう。その目に光って見えたものも、俺の目の前が滲んだことも、全て都合の良いように忘れていくんだ。
ばかやろう。
声にならない言葉が、彼女の背後を漂って暫く消えなかった。
(ごめんね、身代わりにして。ごめんね、君から彼女を奪って)