第一章 運命は雨の匂い 7
『冷たい飲み物、自動販売機、もうすぐございます』
うちは、弓のように折れ曲がった木の影に隠れるようにして立てられた看板の矢印が向いた方向へと視線を向けます。
「もうすぐ、やな」
と確認するように呟いて、足を踏み出しました。
もう、どれくらい歩いたでしょうか。
うちは、今、街中から離れた森の中を歩いていました。
そう、深い、森の中です。
ちょっと待て、自販機を探してどうして森の中にさまよい込むことがあるのか、という突っ込みは今は無しです。
なぜなら、うちはあの看板さんの言うとおりに、道を進んできただけだからです。
「おっかしいな。もうかなり前からもうすぐ、って書いてあるんやけど」
うちは首をひねりながらも、道に倒れた木を踏み越えます。辺りには、いつの間にか、鬱蒼とした木々が生い茂り、まるで誰かが霧吹きで吹きつけたような濃い霧が漂っています。何とも言えない不気味な感じです。
しっかりと手に握っていた小銭も今や汗で濡れていました。ああもう、早くしてくれへんと小銭を落としてしまうかもしれません。
繁みをかき分けて進むと、そこにまた看板があります。木と木の間、その根っこに埋もれるようにして看板が見えました。ああ、これは説明していませんでしたが、この看板を立てた人も途中からは疲れてしまったのか、最初の頃のような巨大な物はなくなり、どんどんとそのスケールが縮んでいました。今ではこんな風に、うちの膝の下ほどの大きさしかありません。
しかし、そこには相変わらずしっかりと、
『もうすぐもうすぐ、自販機はこちらです。ファイト!』
そう書かれています。
うちは軽くため息を尽きます。もうおいしい飲み物など、半分どうでもよくなってきました。とりあえず、冷えたお水が一杯もらえればそれでいい気もします。
しかし、それでも今更やっぱり止めたと引き返すことは出来ません。
シロちゃんは今頃何をしているでしょう。さすがにうちの帰りが遅くて心配しているでしょうか。
ああ、申し訳ありません。ごめんな、シロちゃん、早くジュース買ってくるから。
そして、しばらく、目の前に現れた石の階段を上った時でした。急に視界が開け、目の前に、何やら建物らしきものが見えました。
「あ、もしかしたら、お店やろか?」
こんな人気のない森の奥に変だな、と思いながらもうちはその期待で駆け寄ってみました。
しかし、近づくにつれ、それがおいしい飲み物を売っているお店ではないことが分かります。
そこは、ただの、古びた、神社の跡でした。
「うわー」
霧の中からうっすらとその姿を表した神社はボロボロで、屋根は崩れかけ、壁は蔦が這い、床は抜けて、そこから草が生い茂るという散々な様相を呈していました。
どうやら、ずいぶん長い間放置されていたようでした。おそらく管理する人がいないのでしょう。うちが少し触っただけで、階段の板がぽろりと剥がれ落ちてしまいました。たぶん、もう木の部分が腐って朽ちているのでしょう。
「なんか、おかしなとこに来てもうたなー」
自販機なんて、ないやん。
看板さんに嘘をつかれたのでしょうか。
だとすれば、それは残念なことです。うちは肩を落としてため息を吐きました。うちのこれまでの行動は全て無駄だったのです。
しかし、それだけならまだしも、ここに来て、周囲の霧のせいで方角がすっかり分からなくなっている事に気が付きました。これでは、さっきまでの看板の方向も分かりません。
全く、うちは何をやっているのでしょう。ここからどうやって帰ったらいいのか、その方法がないのです。
きっと今頃シロちゃんはカンカンに怒っているに違いません。
疲れたせいもあってか、うちは為す術も無くその場に座り込んでしまいました。
「ごめんな、シロちゃん……」
と誰も聞いていない謝罪をします。
と、その時、
プルルルルル――。
携帯の着信音が鳴りました。
「あっ」
気づいて立ち上がり、ポケットから取り出します。そこに表示されていたのは、『シロちゃん』の文字でした。
「せや、さっき番号登録してたんやったっけ」
助かった。
これで、シロちゃんに迎えに来てもらえます。うちはそう思って電話に出ました。
「もしもし、シロちゃん」
「ああ良かった! 繋がった! 椿ちゃん、大丈夫かい?」
うちは久しぶりに聞く彼の声に安心しました。
「うん、うちは大丈夫や。ピンピンしてんで」
「そうか、それなら、いいけど……椿ちゃん、今どこにいるんだ?」
「え、ええとな、うちはふるーい神社の前」
「じ、神社だって!?」
電話の向こうでシロちゃんが息を吸って大きく驚きました。
「何だってそんなところにジュースを買いに行ったのさ」
「そ、それはな、ちょっと事情があんねん」
さすがに妙な看板に従う内にたどり着いたなどとは言い難く、うちは言葉を濁しました。
「事情って……と、とにかくそこを動かないで。僕が迎えに行くから」
「ほんまに? せやったら嬉しいわ。うち、実は道に迷ってしもうて……」
「だろうと思ったさ」
すると、シロちゃんは全て了解済み、という感じで間髪入れず、そう言いました。
「え?」
「椿ちゃんは昔から方向音痴だったしね。僕がよく探しに行ったよね」
シロちゃんの口調は、まるで昔の記憶を懐かしむように聞こえます。しかし、うちは合点がいきませんでした。
「シロちゃんが、うちを?」
「あれ、覚えてないの?」
「え、ええと……」
うちは、記憶を探りながら口ごもってしまいます。シロちゃんが迷子になったうちを迎えに来てくれたことなどあったでしょうか。分かりません。
しかし、シロちゃんは嘘を言っているようには聞こえませんし、どうやら本当にあったことには間違いなさそうです。
ということは、うちはそんなに大事なことをすっかり忘れてしまったのでしょうか。だとすれば、それはとても申し訳ないことです。うちはそのことを謝ろうとして、ふいに、自分の周囲が明るくなったことに気が付きました。
「あれ?」
誰かがライトを持ってきたのでしょうか。
いえ、違います。
背後を振り返った途端、空を割って、稲妻が地上を目指して落ちてきました。
ドドーン!
凄まじい音が響いて、うちは携帯を思わす取り落としてしまいます。目の前で起こったことが信じられず、尻餅をついてしまいました。
ブスブス、と木の焦げた匂いが周囲に満ち、見上げると、神社の屋根から黒い煙が立ち上っていました。
「じ、神社に、雷が……」
うちは衝撃のあまり、それだけしか口にできませんでした。
しかし、本当に驚くのは、うちのその言葉に返事が返ってきたことでした。
「そうだぜ」
「……え?」
「このおれっちが神社の上に落ちてきたのさ」
振り返ると、焦げた神社の屋根の辺り、その上空を、奇妙な姿の鳥が浮かんでいました。
「おれっちの名前はミカヅチ」
黄金色の光に包まれたその鳥は大きく翼をはためかせて言います。
「なあ、お嬢ちゃん。あんた、おれっちの巫女になってくれよ」