第一章 運命は雨の匂い 6
雨が上がったばかりの街並みは、どこか洗いたての食器のようなさっぱりとした清々しい空気に満ちていました。
遠くの方から、様子を窺うように遠慮がちな蝉の声が聞こえています。水を吸った大地は、ほどよく湿ってぬかるみ、家々の影は雲の隙間から顔を出した太陽によって、その色を次第に濃くしていました。
そんな雨後の街並みの中に、うちは立っていました。
おそらく、もうしばらくすれば、この通りも人の流れができ、活気が生まれることでしょう。いつも通りの、普段通りの、人々の声が行き交う、道になるでしょう。
しかし――。
しかし、うちの目には、その人々の流れを妨げかねない巨大な物体が映っていました。あまりの驚きに、片手に持った小銭を取り落としてしまいそうな気分です。
うちは、その道路の真ん中にどっしりと突き刺さったものを見上げて、
「でっかいなー」
と呟きます。
うちの目の前にあるのは、巨大な鉄板で作られた看板でした。
一体、誰がどうやって運んできたのか分かりませんが、軽くビルの二三階分はあろうかというほどの大きな看板です。
それが、どういうわけか、うちの前で両手を広げて通せんぼをするように、がっちりと地面に突き立っているのです。まるで、道を歩いているうちにうっかり巨人たちの住む国に迷いこんでしまったような心地でした。
うちは生まれてこの方、こんな珍しい格好の看板を見たことがありません。誰が何をどう思って、こんな巨大な看板を作ろうなどと考えたのでしょう。
事情を知っている方にきちんとした説明をして欲しいものです。
そこでうちは少し頭を回転させます。
まあ、これだけ大きいということは、多くの人に見てもらいたい、ということなのでしょう。しかし、それは分かりますが、これは少々大きすぎる気もします。
もしも、通りを曲がってきて、いきなりこんな看板が目の前にあった人にしてみれば、仰天してひっくり返っても仕方がないほどの巨大さなのです。危うく、うちがそうなるところでした。出来るならば、もっと見る人に優しい看板を立てて欲しいものです。
さて、それはさておき、もう一つ気になったのは、その看板に書いてある文章です。
『冷たい飲み物、自動販売機、こちらにございます』
うちはそれを声に出して確認しつつ読んでみました。うん、間違いありません。上から読んでも下から読んでも、そう書いてあります。そして、文章の最後に、隣の道を指し示す矢印が入っているところを見るに、この看板は自販機の場所を案内するためのもののようです。
どうやら、この看板を立てた人はよっぽど自分が置いた自販機を使ってもらいたかったのでしょう。もしかすると、この地域にしか売っていない、珍しい飲み物を販売しているとも考えられます。この看板はその宣伝用なのです。
うちはそこで、駅のベンチで待っているシロちゃんのことを思い出しました。うちは彼の分の飲み物も買ってくることを引き受けています。珍しくておいしい飲み物を買ってくれば、きっと彼は手を叩いて喜ぶでしょう。
うん、絶対に間違いない。
そう思ったうちは、なんの迷いも躊躇いもなく、その看板が示す方向へと、足を進めていました。
軽く、スキップをしながら。
気持ちよく、鼻歌を歌いながら。
シロちゃんが喜ぶ顔を、思い浮かべながら。
うちは、そんな軽い気持ちで、その道を選んでしまっていたのです。
しかし、もしもあの時。
うちがその看板に対して、もう少し疑問に思っていれば、警戒心を持っていれば、あんなことにはならなかったかもしれません。
もしも、危険を感じて、大人しく、引き返していれば。
その後に起きる、とんでもない大事件とは関わり会いもなく、旅行を終えていたに違いありません。
けれども、そんなことを今更言っても後の祭り。
うちは結局、その運命の渦に、この時点で飲み込まれていたのです。
そう、暗く、深い、運命の渦に――。