第一章 運命は雨の匂い 5
「なあ、シロちゃん」
しばらくして、携帯電話のプッシュ音が止んだとと思うと、急に、彼女が話しかけてきた。相変わらずののんびりした口調だ。どうやら、アドレスの登録は終わったらしい。
「そういえば、何でシロちゃんはこの町におるんや?」
「あれ?」
僕は思わず間の抜けた声を出して、頭を掻いた。あまりにも唐突に聞かれて拍子抜けしてしまったのだ。
「説明、してなかったっけ?」
「してへんよ。シロちゃんさっきからぼけーっとしてばっかやし」
ほんまに、もう、と彼女は頬を膨らませる。
「せっかく再会したのに、うちのことはどうでもええん?」
「まさか、そんなわけないって」
僕は慌てて首を振る。
「椿ちゃんのことは今までずっと忘れたことなんて……」
「え、ずっと?」
瞬間、彼女の額に怪訝そうに眉が寄る。僕はしまったと口を押さえた。思わず余計なことを口走ってしまった。
「うわ、何でもない何でもない。とにかく、俺の話だったよな」
すると、彼女は明らかに納得していなかったようだが、一先ず、頷いてくれた。
「あ……うん」
僕はほっと安堵する。
危ないところだった。まさか、会えなくなってから、ずっと彼女の事を想い続けてたなんてこと、言えるわけがないよな。
「実は僕、今はこの町に住んでるんだよ。以前までは父さんが転勤の多い仕事してたけど、なんだかんだで辞めちまって、今ではこの町で別の仕事をしてる。そのお陰で転勤もなくなったし、ようやく腰を落ち着けて定住できるようになったってわけ。まあ、そうは言っても、まだ一年くらいだから、ここの生活に慣れてきたぐらいだけどな」
「じゃあ、これからはずっとこの神霧瀬町におるん?」
僕は軽く頷いて答える。
「そうなるだろうな。中々いい町だよ、ここは。都会みたいにゴミゴミしてないし、静かで、住んでる人も穏やかだ。転勤ばっかりの時には、こういう風にゆったりした気分にはなれなかったけど、今は充実してる。まあ、ちょっと田舎で多少不便なところはあるけれど……ああ、そういえば、家から大学が近いのは便利だな」
「へえ、それはええなあ。うちは大学が遠いからいつも寝坊せんかドキドキしてんで」
彼女があんまりにも羨ましそうに言うので、僕は少し笑った。確かに、彼女はよく寝坊をしていた記憶がある。初めて会ったときも、寝坊してたんだっけ。
「でも、シロちゃん」
すると、不安気に彼女は眉を寄せる。
「うん?」
「それじゃあ、一年前までは、ずっと引越しばっかりやったん?」
「ああ、うん。そうだな」
「それは、大変やったなあ。うちも引越ししたことあるけど、荷物運ぶんは、えらいしんどいで」
彼女がそう言うので、僕はちらりと彼女の華奢な二の腕を見る。なるほどな。彼女のそれは何かで支えていないと、今にも折れそうなほど頼りない。
そのことを口にしようかとした時、彼女がふと、こう言った。
「でもな、新しい町に行くのは楽しいな」
「え?」
「だって、何もかもが見たことのない場所なんやで。なんだか知らない場所に冒険しに行くみたいやん」
彼女のその無邪気な笑みに、僕は呆気に取られた気がした。あまりにも自分の感覚とかけ離れた言葉に、つい、気が抜けてしまったのだ。
引越しは、楽しい、か。
いかにも彼女らしい考えだな。
僕は心のなかで、そっと苦笑いをする。
自分には、それは苦痛でしかなかったけれど。
どこに行こうとも僕は同じ空虚な気持ちのままで、新しい家も、町並みも、学校も、人々も、興味なんてなく全部どうでも良かった。どうせ、またすぐ見れなくなってしまうものばかりだ。僕の記憶には思い出がない。同時に未来もない。
僕が楽しいと思ったのは、ただ一つだけ。
椿ちゃんの隣にいる時だけだった。
そう、彼女の傍にいるだけで、僕は何もかもが輝いて見えたのだ。好きでもない町のビル群も、通りを行き過ぎる人々も、野辺にひっそりと咲く可愛らしい花々たちも――。
彼女といた頃より良かった場所なんて、どこにもなかった。
そうどこにも……。
「な、なあ椿ちゃん」
僕は、ふいに思いついて、問いかけた。どうしても、『それ』を確かめずにはいられなかった。
「うん?」
「僕と離れ離れになって、さ。その、どうだった?」
「どうだったって?」
「なにか、感じなかった?」
「何かって?」
彼女は目を瞬かせて、ぽかんとしている。質問の意図が分からないのだろう。
「いや、だからさ、あの……」
さらに言いかけた時。
プルルル――。
急な着信音に僕と椿はぎょっとして振り向いた。見ると、椿が持っている僕の携帯電話が震えている。
「シロちゃん、電話みたいやで」
「ああ、うん」
僕はそのタイミングの悪い着信を少々恨みながらも、彼女から携帯を受け取ると、サブディスプレイで誰からの電話なのかを確認した。
『珊瑚先輩』
それは大学の同じ学部の先輩の名前である。一体何の用なのだろう。
「はい、もしもし」
と僕は携帯を耳に当てる。すると、快活な先輩の声がいきなり聞こえてきた。
「おお、たまちゃーん。やっほー、元気してるー?」
「ああ、はい、元気ですよ。先輩は如何です?」
「私? ああ、私もバリバリ元気だぜ。やっぱり若者はこうでなくっちゃいけないよねー」
「そうですね。バリバリ元気なのが若者ですよねー」
僕は適当に先輩に合わせる。これはいつものノリなので、特に意味はない。先輩との軽い挨拶のようなものだ。しかし、ノリが悪いと背中をバシバシ容赦なく叩かれるので、軽い強制でもある。まあ、今は通話中なので先輩から何らかの攻撃を受けるということはないのだけれど。
「そいでよお、今うちら大学のゼミ室にいるわけー、することなくて暇してるとこなんだわ」
先輩の声の向こうで、がやがやと騒がしい音が聞こえる。大方、ゼミ室で大音量の音楽でも流しているのだろう。いつもうるさくするなと教授に注意されるというのに。
「は、はあ……」
「こっちにマッチョもいるからよお、これから皆でお茶でもしなーい? ほら、うち、この前東京まで旅行したって言ったっしょ? その土産も無駄にたくさんあるんだわ、これが。賞味期限切れちまうのも勿体無いからさー、消費しに来てよ。マジお願いだからさー」
「ええと、今から、ですか?」
「あったりまえじゃん。あれ、なにさー、たまちゃん。これから用事でもあるわけ? バイトとか?」
「あの、そういうわけじゃないんですが……」
僕はちらりと隣の椿を見る。彼女は意味が分からない感じで首をかしげた。
「ちょっと、野暮用が……」
「あらま、怪しーんだ。たまちゃん、もしかして、これからデートとか?」
先輩の口から出た想定外の言葉に、僕は不覚にも激しく動揺してしまった。
「で、で、でででっで、デートなわけがないですよ! 絶対無いです!」
緊張のあまり、呂律が回っていない。すると、その異変を先輩は鋭くキャッチする。
「おおっと、ちょいと過剰な反応だねー。珊瑚先輩の心理学、人間は嘘をつくとき、その事柄を必要以上に強調する傾向がある。たまちゃん、さては図星だな」
「いやいや、本当に違いますから。デートなんて僕に彼女がいないことは先輩知ってるでしょ?」
「さあて、どうだか?」
意地悪そうな先輩の声。電話の向こうでにやにやと笑っているのが眼に見えるようだった。
するとそこで、急に慌ただしい音が聞こえたと思うと、別の人物の声がした。
「おい、白路! い、い、今のは本当なのか?」
暑苦しい男の声である。
「この俺に内緒で抜け駆けなのか? ええ? 俺達は彼女いない組。どんなときだっていつも一緒、運命共同体だって誓い合ったのを忘れたのか!」
僕にはすぐに其の人物が誰なのか分かった。僕と同じ心理学部の学生、松樹祐介。通称、マッチョである。その名の通り、肩幅の広い、がっちりとした体つきをしていることと、苗字の松とを掛けてそう呼ばれている。
「うるせー。何が運命共同体だ。それはお前が勝手に決めたことだろう? 僕はそんなことを承諾した覚えはないぞ」
しかし、携帯の向こうで、祐介は僕の話を聞いている様子はない。
「くそー、今日はやけ食いだー!」
と勝手に悔しがっている声が聞こえる。
「いいか、白路。お前は勝手にそっちでいちゃいちゃきゃっきゃするといいさ。俺は珊瑚先輩と二人で楽しむんだからなー。絶対ゼミ室にはくるんじゃねえぞ。珊瑚先輩だけは何があっても渡さねえ!」
「何を勝手に勘違いしてんだ。俺に彼女はいねえって」
「うるせえ、女たらしの話なんて誰が信じるかっつーの」
と吐き捨てた後で、急に祐介の声が遠のく。どうしたのかと思うが、珊瑚先輩と話をしているようだ。
「先輩、もうあんな女たらしは放っておいて、俺たちだけで楽しみましょう。ほら、まだ開けてないチョコチップクッキーがあります。おいしそうですよ……え、クッキーはもう飽きた? じゃ、じゃあ、こっちのポッキーであれ、やります? ほら、あのゲームですよ。両端を、お互いが口にくわえて――」
ゴン。
鈍い音が聞こえたと思ったら、そこで、通話は切れていた。訳がわからない。
全く、なんだったのだ、この電話は。
僕は嵐が過ぎ去った後のような呆然とした気持ちになっていた。ともかく、あの様子なら、大学の方へは行かなくてもよさそうだ。
ふう、と一安心。
携帯を仕舞って椿の方を見ると、彼女と目が合う。どうやら、会話中、ずっとこちらを見つめていたようだった。
「どうした?」
「ええと、今の電話の相手って、女の人?」
「ああ。僕の大学の先輩で、珊瑚先輩っていうんだ」
それが、どうかしたのか?
そう聞くと、彼女は首を横に振った。
「いや、別に何でもないんやけど……」
と言いつつ、彼女は何かを言いたげだったが、その何かを本人も理解出来ていないようで、困ったように目をキョロキョロさせている。
一体、どうしたのだろう。
まあ、いいか。
「ああ、それにしても、騒がしい先輩たちと話してたら、喉がからからなことを思い出したよ。椿ちゃん、ジュースでも飲む?」
「あ、せやったらうちが買うてくるよ」
と、彼女は元気よく立ち上がる。
「何がええ?」
「椿ちゃんが買ってくるの?」
「うん。うちもちょうど飲みたかったし。ついでやから」
僕はじゃあ、お言葉に甘えてとコーラを注文して彼女に小銭を二人分渡した。彼女は自分の分は自分で払うと言ったが、僕は買ってきてもらうのだから、とそのまま渡した。
「ほんまにええのに」
「いいよ。久しぶりに会ったんだし。これくらい。ああ、それから、自販機ならその辺にあると思うから」
僕は駅の向かい側の通りを指さす。彼女は頷くと「お金、おおきに」と、その方向に駆けて行った。
そうして、十分ほど経った頃だろうか。
僕はその間、彼女のとの思い出を少しずつ自分の中で掘り起こす作業に没頭していたわけであるが、ふと、彼女がずいぶん帰ってこないことに気がついた。
まさか、まだ自販機を探しているのだろうか。僕は考える。しかし、いくら自販機の場所を知らないといっても、この町中にいれば一つは見つかるはずだ。いくらなんでも遅すぎる。僕はだんだん不安になった。
もしかすると、実は彼女なんてやっぱり存在しなかったのではないか、という疑念がふいに沸き出た。そもそも、こんな場所でこんなにも偶然に再会するなんてこと事態が怪しいのだ。僕は最初から白昼夢でも見ていたのかもしれない。ぶるぶると頭を揺すって、そこではっと思い出し、僕は携帯電話を見る。
いや、大丈夫だ。実在している。
そこには、彼女の電話番号がきちんと登録されていた。
では、なぜ、彼女は帰ってこないのだろう。
まさか、どこかで交通事故にあったとか。可能性はゼロではない。
しかし、僕は思い直す。もし、この近所で事故があったなら、間違いなく騒ぎになるはずで、そうなれば僕が気がつかないはずがない。町は至って静かなままである。救急車のサイレンも聞こえない。
じゃあ、どうしたというのだろう。
その時、僕は重要な事を思い出した。彼女には、ある致命的とも言える、残念な性質があることを。
そうだ。
「あいつ、方向音痴だった!」