第一章 運命は雨の匂い 4
駅のベンチで僕達が雨宿りをしているうちに、雨は小降りになり、対して時間もかからないうちに上がってしまったようだった。
僅かばかりの太陽の光が雲間から溢れ、濡れた町を照らし出している。辺りに漂っていた雨の匂いが風によって流されていった。
しかし、その風は、僕の高鳴った胸の鼓動を静めてはくれなかった。どくん、どくん、とそれは何かを急いているように拍動している。
砂に埋れて風化しかけた時計が、忘れられていた時を取り戻すかのように猛烈なスピードで針を回転させているのだ、と直感的に僕は思った。
なんだか、軽く目眩がしそうだ。
そう察知して、少しでも気を落ち着けるためにふっと息を吐くと、隣の彼女を見た。
「それで? いいのかよ、僕と一緒になんかいて」
何だか、直視していられなくて、言いながら、僕の視線は再び彼女を離れ、遠くの空を見た。仲間とはぐれて孤立したような、ぽつんとした雨雲が漂っている。
「親はもう旅館に行ったんだろ?」
すると、椿は、へへ、と笑って片手を振ったようだった。
「かまへん、かまへん。せっかく久しぶりに会ったんやから、お母さんが一緒に遊びなさいー、って言ったくらいやし」
そうして、彼女は上機嫌そうに鼻歌を歌い出した。ちらりと横目を向けると、ベンチの上で子供っぽく足をぶらつかせている。
そんな彼女を見て、僕は椿が昔と変わっていないことを確認した。
以前から、彼女はこんな風だった。僕といるときはいつだって、楽しそうで、笑顔で、不機嫌になることなんてない。まるで年中彼女の周りだけが春の陽気にでも包まれているかのように見えたものだ。
可愛くて、優しくて、まるで、羽が生えている天使のよう――。
そうだ。
彼女は、確かに存在していたんだな。
僕は確信する。
決して、決して、寂しかったあの当時の僕が創りだした妄想なんかじゃなかったんだ。そう思うと、ほっと安堵すると共に、この上なく嬉しくなった。
しかし、それと同時に、足元がグズグズと溶け出すような疑念が顔を出す。
果たして、本当にこれは現実なのだろうか、自分が見ている夢か何かではないだろうか。
その可能性は十分にあった。
この広い世界中で、僕がこんなにも偶然、彼女と運命的に再会することなどありえない気がする。何だか、嘘みたいだ。
もしも、本当に夢なのだとしたら、どうすればそれを確認出来るだろう。頬を指で抓る、とか。ベタだが、やってみる価値はあるだろうか。
そんなことを悩んでいると、いきなり、ふにっと頬に何かが触れた。はっとして振り向くと、椿が不思議そうな顔で僕の頬を指でつついていたのだった。
「うわっ!」
僕は思わずのけぞった。
「驚いた?」
「な、何を?」
「だって、シロちゃん、うちが話しかけても全然返事してくれへんやん。なんか難しそうな顔してぼうっとしてるし」
せやから、ちょっといたずらしてみたんや。彼女はそう言って、ふふふ、と笑う。
僕はそんな彼女を見ながら、同時に、彼女の指が触れた頬に手を当てていた。
今、確かに、触った、よな。彼女の柔らかい指先が。
その感触が僕にこれが夢ではなく現実であることを告げていた。
「シロ、ちゃん。どうしたん、もしかして怒った?」
「いや、そういうんじゃねえよ。ただ、信じられなくて」
「……?」
「ああ、ええと、何でもない。ちょっとぼーっとしてたんだ。気にしないで」
そうごまかした僕を彼女はしばらく不思議そうに見ていたが、急に何かを思いついたように指を鳴らした。
「ああ、せや!」
「な、何だよ」
「折角、こうして偶然会えたんやから、携帯のアドレス交換しよー」
「アドレス交換?」
「うん。それがあったら、これからも連絡取れるやろ」
そして、僕の返事も聞くことすらせずに、出して出して、と彼女は僕の携帯をせがむ。言いながら、ぐいぐいと隣から彼女が寄ってくるので、僕は動揺しながらも、ポケットから携帯を出して手渡した。
「こ、これでいいのか?」
「ほお、この黒い携帯、かっこええな」
すると、物珍しそうに、椿はそれを手の上でじろじろと観察した。
「でも、シロちゃんやのに、黒い携帯かー。ちょっと変やなー」
「余計なお世話だし、それに俺はシロちゃんじゃねえって」
しかし、僕がそう指摘したのも聞こえていないのか、彼女は早速、携帯の液晶画面を睨みつつ、ボタンをいじくり始めていた。真剣な表情で一つ一つを確認しながら作業をしている。
そんな無防備な彼女の横顔を見ていると、またドキドキしてきたので、僕は無理やり反対の方向を向いた。空っぽになったポケットに手を入れ、もやもやした気持ちに蓋をする。