第一章 運命は雨の匂い 3
父親の転勤の影響で引越しばかりの生活だった僕には、幼少時、友達と言える存在が一人もいなかった。
早ければ半年、長くても一年ほどで学校を転校していたのだから、無理もない。大概、新しい学校に連れてこられても、友人を作るほど親しくなる前にそのクラスメイトと別れてしまうか、友達になっても、ろくに付き合いもないうちに送別会になってしまうのが関の山だった。
僕がずいぶん成長するまで他人とろくにコミュニケーションを取ることが出来なかったのも、そのせいだった。いつだって人見知りで、他人と会うと一歩退いて話をしてしまう癖はなかなか治らなかった。
僕はただただ、他人と付き合うことが怖かったのだ。
なぜなら、他人と付き合っていても、どうせすぐにまた別れなくてはならないから。それを幼いながらに僕は本能的に悟っていて、いつしか、僕の体は他人に近づくことを無意識に拒否するようになっていた。
必要以上に他人に近づくな。親しくなるな。頼ったり、頼られたりするな。
そう語りかけてくる心の声を僕は眼を閉じていつも感じていた。
もしも、他人と関わり過ぎてしまうと、別れる時が辛いから。
辛くて、辛くて、悲しいから――。
けれど、物事にはいつだって例外がある。とある小学校で出会った、あの無邪気な瞳をした少女だけは、違った。
まるで僕は重力で引き寄せられるように、気がつけば、自然に彼女に近づいていたのだ。天真爛漫で、天使のような笑みを見せる、あの少女に。
僕は彼女と出会った日のことを今でも鮮明に覚えている。
あれは、雨がしとしとと降る七月のことだった。
あの日、僕はまたしても父の転勤によって新たに訪れた町の学校に初めて顔を出すことになっていた。
母親に連れられ、見慣れない校門をくぐった時の、あの憂鬱な気持ちを今でも僕は憶えている。
またしても、無意味で退屈な新生活が始まると思うと、うんざりした気分だったのだ。
案の定、朝のホームルームで先生に紹介され、教室のドアをくぐった時の、あの刺さるような興味の視線は、僕をいきなり萎えさせた。
整列した机の上で、新たな出会いに期待する輝く瞳たち。
期待するな、と僕は思う。
僕に期待なんてするなよ!
僕も、お前たちに期待なんてしてないんだから……。
最初に教師が僕の話をして、その後、僕に自己紹介を促した。それはこれまで通ってきたいくつもの学校と同じ流れだった。
僕はため息を吐き出すように、はいと小さく返事をし、以前から幾度となく使ってきた感情のこもらない無味乾燥とした言葉でクラスメイトに挨拶をした。
まばらな拍手が起こった気がする。正直、僕にとってはそんなことどうでもよかった。
ちらりと周囲に目を向けると、何人かの生徒はこれからこの集団の新たな一員となる僕にかなり興味を示しているようだった。しかし、僕がまるで不貞腐れたかのような顔で自分の席に座ると、彼らは困惑したように顔を見合わせているのが分かった。
その当時の僕は、転校した場所ではそうしていることが一番利口だと思っていた。見ず知らずの転校生というだけで周囲の人間には話しづらい空気があるのに、その転校生があからさまに不機嫌そうな顔をしていれば、尚更近寄り難いものだ。
そうすることで、友達になる最初のきっかけの芽を潰そうとしていたのである。
「何だ、あいつ」
「ちょっと怖いよね」
僕なんて、それくらいに思われているのがちょうどいいのだ。そう思わせておけば、自然とクラスメイトたちが自分と関わろうとする気も失せて、勝手に距離を取ってくれるようになるのである。
案の定、そのクラスでも僕の目論見通り、僕の自己紹介が終わった後、僕に話しかけてくるクラスメイトはいなかった。
そうだ、それでいい。机に顔を伏せながら、そう僕は思っていた。
友達なんて作らなくたって学校生活はやっていける。クラスで目立たないように適度に学び、忘れ物をしないよう注意し、揉め事を起こさない。これくらいの要点を守っておけば、学校の時間など勝手に過ぎ去ってくれていくのである。
もしも、何かの『事故』で迂闊に友達なんて作ってしまえば、それは悲劇だ。
僕は今までの人生の中で何度もその悲劇に遭遇してきた。仲が良い友だちと別れることがあれほどに切なく苦しいものだという事を否が応にも知っていた。
あんなに毎日楽しく遊んでいたのに、あんなに大事な仲間だったのに、その繋がりがいきなり断ち切られて、僕だけ無理やり別の場所に連れていかれてしまうのだ。
僕はよく仲が良かった昔の友達のことを思い出す。もしも、また会いに行けば、果たして彼らはまた以前と同じように僕と遊んでくれるのだろうか、と思って切なくなる。
そして、同時に、彼らも会えなくなった僕のことを思ってくれることはあるのだろうか、と思う。まだ、この僕を覚えてくれているだろうか。
いや、もしかして、今頃自分のことなど全て忘れて暮らしているのではないか。
そう思うと、怖くなる。眠れなくなる。
いつかかけがえのない自分がいるはずだった、仲間たちのスペースがいつの間にか消えてなくなり、自分だけが幽霊のような亡霊のような存在になってしまうことが怖かった。存在が消えていくようで、とてつもなく怖かった。
だから、だから、もう!
最初から友達なんて作らない。
僕はそう心に強く刻み、強く誓っていたのだ。
そして、この敵意が、と僕は思う。
この身から出す、この敵意こそが、僕自身の心を何よりも守るのだ。
チャイムが鳴り、ホームルームが終わった。児童たちがばらばらと席を立ち、雑談を始める。僕はそんな彼らを無視して、一時間目の授業の準備をしようとした時だった。
いきなり、ガラリと教室のドアが開いたのだ。
「おっはよーーございまーす!!」
まるで校庭中に響き渡らせるような挨拶だった。
さすがの僕も驚いて、挨拶をしたその人物に目を向けた。
教室のドアには小柄な少女が立っていた。目玉がくりくりとした可愛らしい女の子で、ふわふわとした桃色のフリルのついた服を着ている。
もしかして、遅刻したのだろうか、と僕は思ったが、彼女が悪びれず、あまりにも堂々とした様子で教室に入ってきたのを見て、一瞬混乱してしまった。
何なんだ、こいつ。
それを見ていた教師も一瞬固まっていたようだが、すぐに教室の時計に目をやって、立ち上がると、彼女の方へ歩き出した。おそらく、遅刻してきた彼女を叱ろうとしたのだろう。
しかし、その少女は何食わぬ顔で教師の脇をすり抜けると、瞳をきらきらさせながら、なんと、僕の方へ向かってきた。
しばし、我を忘れていた僕だったが、それを見てすぐに気を取り直し、机に突っ伏す。彼女に容易に会話のチャンスを与えてはいけない。
どんな場合でも親しくなるきっかけを与えるわけにはいかないのだ。
「ああ、転校生の子や!」
はしゃいだ声が耳元で聞こえた。
しかし、僕は無視をする。
「ねえねえ、うち、青山椿いうねん」
ああ、無視無視。
「これから同じクラスメイトやな。仲良うしてなー」
聞こえない聞こえない。
「今日は雨降りやね、傘、持ってきた?」
何ら答える必要はないな。
僕は心に念じる。
僕はただそうしているだけでいいのだ。そうしていれば、どうせこいつも僕の反応がないことに飽きてそのうち自分の席に戻るだろう。
しかし、彼女の気配はなかなかいなくならない。いったい何をしているのだろうか。
じっとしていると、ふいに、
「こ、こ……たま?」
その少女が自分の耳元の傍で何かを言っているのが分かった。
「うーん、わからへん。これ、何て読むの?」
ああ、なるほど。
僕は顔を伏せつつ、彼女が何をしているのかを理解する。どうやら彼女は教師が僕の机に貼り付けれられた僕の名札を読もうとしているようだ。「小賀玉白路」と教師らしい綺麗な文字で書いてある。おそらく、僕がすぐにクラスメイトに名前を覚えてもらえるようにそうしたのだろうが、それならばせめてフリガナくらいふってやればいいのに。
「まあええわ。苗字は後からのお楽しみにしとく」
「……」
お楽しみって。暢気そうに言いやがって。
しかし、この気持ちは何だろう、無性に突っ込みたくなるな。
「名前は、と……あ、うち、この漢字知ってるで!」
すると急にバシバシと肩を叩かれる。
どうやら、この少女が興奮して叩いているようだ。
いい加減、うっとおしいな。僕は心の中で舌打ちする。
「し、『しろ』って読むんやろこの漢字」
「……」
「そっか、転校生のお名前はしろって言うんやな」
それは白は白でも『はく』って、読むんだよ。思わず、そう言いそうになるのを僕は堪える。
「しろ、しろ、ふふ、シロちゃんやね。よろしくな、シロちゃん」
馴れ馴れしく肩を叩くな。それに、僕の名前は、はくじ、だ。しろじゃない。
「あれ、シロちゃん? どしたん、気分でも悪いん?」
「……」
「なあ、先生呼んで来る? うちが行ってもいいで、シロちゃん」
「ち、ち、ち……」
「え? 血が出てんの? それは大変やん!」
「違う!!」
思わず、僕は席から立ち上がってそう叫んでいた。思い切り叩いた机がガタガタと揺れる。
「僕の名前は白路だ!」
「え?」
「そこの、青山とか言ったか、このやろう。僕の名前を間違えるんじゃねえよ。僕の名前は、小賀玉白路だ!!」
ビイイン、と教室に音が響くのが分かる。クラスメイトたちが全員、絶句しているのを感じた。まずい、目立ってしまった。
おずおずと目の前の少女に眼をやる。
これだけ大きな声で怒鳴ってやったのだ。さぞかし、恐怖にひきつった表情をしているかと思いきや、彼女はなんと――。
にこやかに、まるで、天使のように、微笑んでいた。
「そっかー、白路君か」
「え?」
そして、彼女は中途半端に浮いてしまった僕の片手をぎゅっと掴む。どうやら、僕は握手をしているらしい。
「えへへ、これからよろしくなー」
しまった、『きっかけ』を与えてしまった。
そう思ったときには、もう遅かった。