第一章 運命は雨の匂い 2
列車が駅のホームにゆっくりと停車し、自動ドアが開くと、うちは乗客の誰よりも先に外へ飛び出しました。
「ここが神霧瀬町!」
そう叫んで、その場でくるりと一回転をします。
うちの胸は今、はちきれんばかりにドキドキしていました。
何しろ、うちが生まれて初めて訪れた町なのです。興奮しないでくれ、という方が無理な相談です。うちの目に映るもの、肌で感じるもの、耳から聞こえるもの、全てが新鮮な気がして、うちの心のセンサーがビンビンに反応しているのが分かりました。ぎゅんぎゅんと胸の中のエンジンが回転する音が聞こえます。
しかし、神霧瀬町の駅はうちの楽しい気分とは裏腹に、どこか寂しげな雰囲気が漂っていました。
それも無理はありません。
何しろ、駅の外に広がる空模様が、
「雨やもんなー」
そうです。
先ほど列車の窓からこちらの町の方角に黒い雨雲が立ち込めているのが見えましたが、どうやらうちらが到着すると同時に降りだしてしまったようなのです。
そのためか、駅にまばらに来ている人たちもその手に傘を持っています。
しかし、うちはそれくらいではめげません。
「お母さん、折りたたみ傘の出番や!」
と一声上げると、お母さんが「このまますぐにタクシーで旅館に行くんやで?」というのも聞かずにカバンから傘を取り出していました。
ぱちりと留め金を外して傘を広げ、まだ屋根のある駅のホームにいるというのに、うちは嬉しくなって、頭の上でくるくると回しました。
綺麗に描かれた椿の花の絵が綺麗に咲き誇っています。
「うんうん。やっぱりうちにぴったりのサイズやな」
そう納得して、周囲からおかしな目で見られるのも気にせず、切符を持って改札口を抜けました。
愛想のいい駅員さんに手を振って、駅の出口まで来ると、雨の匂いに混じって、いよいよ夏の青い匂いが肺に充満していくのが分かりました。
うちの胸のドキドキは最高潮に達しています。
そして、うちは何を思ったのか、そこでその気持ちを表現するために、つい、
「やっほー!!」
と駅の入り口で叫んでしまいました。
いやはや、お恥ずかしい限りです。
うちも、言った後になって、その行動のあまりの幼稚さに気が付きました。これではまるで道端ではしゃぐ小学生ではないですか。
いくら嬉しくても、自分の感情を抑えられるだけの制御能力というのを身につけなければなりません。
うちはその後、赤面しながら無駄に高揚してしまった気持ちをどうするべきか悩み、しばらく、そう叫んだポーズのままでいましたが、ふいに、誰かの気配に気が付きました。
駅の入り口の右手、障害者用のスロープを降りた先にあるベンチに、誰かが座っているのです。
うちが振り向くと、その人物と目が合いました。
どうやら、少年のようです。
彼は駅の軒下のその古びたベンチに座り、ぼんやりと雨が止むのを待っていたようでした。しかし、そこにあまりにも場違いなことを叫んだうちに驚いて、こちらを見ていたのです。
そう、じっと。
穴が開くほど、じっくりと。
そして、そんな少年をうちも負けじと見つめ返します。
目を、大きく見開いて。
呼吸することさえ、忘れて。
「嘘、だろ……」
しばらくして彼がつぶやいたその言葉は、別にうちが駅のホームで妙なことを叫んだことに対して、呆れているわけではありませんでした。
彼の目はまるで、ありえないものを見ているかのようにうちを凝視して、離れませんでした。しばらくして、彼の震える唇が、ゆっくりと言葉を発します。
「椿、ちゃんなのか?」
恐る恐る、確かめるように……。
「あの、青山、椿ちゃんか?」
そう問われて、うちもやっぱり、と胸の鼓動がさらに高まります。
なぜなら、うちは、その少年のことを以前からよく知っていることを思い出したのです。
急な濁流に飲み込まれるように、一気に過去の記憶が舞い戻ってきます。頭の中で懐かしい匂いをした引き出しが開き、走馬灯のように、様々な風景が見えました。
「あ、あ、あ……」
知らず、口が開いて、言葉にならない声が漏れ出ていました。
そうか、夢やないんや。
うちは小さな頃、仲が良かったこの人と、離れ離れになって――。
気がつけば、手に持っていた傘をうちは地面に落としてしまっていました。雨がさわさわと優しく撫でるように、うちの頬を濡らしています。
「シロちゃん……」
うちは、宝物を抱きしめるように、彼を呼びました。
「……今日は、雨降りやね」
彼が、小さく笑って頷きました。
「ああ、そうだな」