第一章 運命は雨の匂い 1
ととん、たたん、ととん、たたん――。
移動中の列車のもたらす規則的な揺れの中で、うちは目を覚ましました。
薄ぼんやりとした意識の中で、見えない透明な光のアーチをくぐって行ったような、不思議な感覚がしました。ふわりと体が浮いて、別の空間に飛び移ったような気もします。
うちは、どうやら、窓側の席に座って、肘掛けに寄りかかるような格好で、眠っていたようでした。
車窓からは真夏の光がきらきらと溢れ、ガタガタと揺れるその窓枠の隙間からは、濃厚な夏の青い匂いが滲み出しています。
「う、うん……」
態勢を元に戻しつつ、大きく伸びをして、深呼吸をしてみました。体の筋肉固まっている辺り、どうやら、ずいぶん長いこと眠っていたようです。
すると、向かい合った席に座っていたお母さんが薄目を開けてうちを見ているのに気が付きました。
「うんにゃ、ようやく目が覚めたみたいやな」
と、だるそうにあくびをします。くしゃりと前髪が潰れているのを見るに、お母さんも一緒に眠っていたようでした。
「なんか、夢でも見てたん?」
そう聞くので、うちは頭に手を当てて、つい先程の記憶を思い出してみます。
しかし、生憎ながら、夢というものは不安定なようで、うちはその内容をほとんど思い出すことはできません。
「ええと、なんか懐かしい夢やったのは分かるんやけど」
それも、とても、大切な夢やったような……。
「あ、お母さんもおった気がするで」
そう言うと、お母さんはにっこり笑いました。
「なるほどな。椿が眠りながら嬉しそうな顔してたんは、お母さんと一緒やったからやな」
そして、座席からぐっと前のめりになったと思うと、手を伸ばしてうちの頭をうりうりと撫でてきました。
「もう、ほんまにかわええ子やな」
昔からお母さんはそうやって何か事あるごとにうちの頭を撫でます。癖、と言ってもいいくらいです。よほどうちの頭は撫で撫でに適している良い頭なのでしょうか。うちにはよく分かりません。
でも、それはそれです。
さすがにうちももう大学生、頭を撫でられるのにはさすがに抵抗があります。いつまでも子供とはちゃうのです。
なので、うちは丁重にお母さんの撫で撫でを断わりました。
「ええ、もうちょっとだけ」
と名残惜しそうにしているお母さんを無視して、窓の外に視線を移します。
すると、そこである異変に気が付きました。
「うわー、なんか雨が降りそうやなー」
つい先程までの明るい日差しはどこへやら、がたごとと列車の速度に合わせて流れる空の色は、なんともどんよりとしたものになっていました。黒ずんだ水に浸した綿のような色で、何とも言えない不安感があります。
そして、それに合わせて、どこからか、ゴロゴロと鼓膜を震わす雷の音まで聞こえてきました。
まるで、急に別世界に入り込んだみたいや……。
「この雲色。うーん、何か起こりそうな予感やな」
不安げにお母さんはそう言うと、顎の辺りを指で撫でました。まるで不可解な謎に行き当たった探偵のようです。
「天気が悪そうなのは、ちょうどうちらが向かってる町の方角みたいやし……」
「大雨?」
「に、なるかもなー」
「洪水?」
「うん、ありえるなー」
「雷で山火事とか」
「ふふ、そうやったらどないする?」
窓の外に目をやりながら、お母さんは聞きました。うちは少し悩んで、こう言います。
「……神様」
「……?」
「そうなったら、空の神様にお願いするかな」
「神様に?」
ふふ、とお母さんは吹き出しました。
「椿はほんまに昔から神様が好きやな」
「あ、お母さん今馬鹿にした目になったやろ。あかんで、神様はほんまにおるんや。悪いことしたら天罰が当たるんやで」
「ほお、そら怖いな」
言いながらも、お母さんはどこか他人事です。うちの言葉を面白がっているようにも見えます。
むっとしながらも、うちは続けました。
「ともかく、うちはその神様に雲をどけてもらうように頼む。そうすれば、万事解決や。きっと旅行中の天気は毎日快晴になるで」
ぽんと、自信を持って胸を叩くと、お母さんは唇をへの字にして、うんざりするような顔になりました。
「毎日快晴かー。そら、ちっと暑そうやな」
「毎日雨でどこにも行けへんよりはまだマシやろ。せっかくの『旅行』やのに」
そうなのです。
うちらがこの列車に乗っている理由。
それは、年に一度の家族旅行中であるためなのです。
これは、うちが幼い頃から続いている家族の行事で、大抵三日か四日くらいの期間で、日本の様々な場所に観光にでかけます。
海のきれいな場所に行ったり、山登りをしたり、動物園に行ったりと、なかなかに盛りだくさんな旅です。
うちはそれが毎年の楽しみで、今年だって、一週間前からろくに眠れませんでした。
それだけ待ち遠しく思っていた旅行なのですから、運悪く雨でずっとどこにもいけない、という事態は何としても防ぎたいものなのです。
「ところで、お父さんは?」
ふいに気になってうちは周囲を見回しました。
眠る前まで、お母さんの隣に座っているはずのお父さんの姿が見えなかったのです。
一体、どこにいってしまったのでしょう。
すると、お母さんが背後の方を振り向きながら、「喫煙車やないの?」と言いました。
「あれ、タバコでも吸いに行ったん?」
「うん。ここじゃゆっくり寝られへんとか言って、ぷりぷり怒ってなー」
「……? どういうこと?」
意味がわからずに問いかけると、にひひ、とお母さんは意地悪な笑みを浮かべました。
「実はな、おとんが眠りかけるたんびに、くすぐったり、冷えたジュース缶をひっつけたりして、驚かして遊んでたんや」
うちはそれだけですぐにここで起きた事態を把握しました。これではお父さんが出て行くのも無理はありません。
呆れた目でお母さんを睨みます。
「お母さん」
「そ、そんな目で見んといて、椿。ほら、なんちゅうか、ほんの出来心やねん」
「出来心?」
「そうそう、旅行に来たら、なんとなくはしゃぎたくなることってあるやん?」
「……まあ、それは分かるけど」
現にうちも、旅行に行く前は興奮して眠れへんかったわけやし。
しかし、それでも、少し調子に乗り過ぎな気がします。
お母さんもいい大人なのだから、その辺は限度というものがあるのを知るべきです。全く、お母さんのこういう無邪気なところは時に問題を起こすのです。
「とにかく、お父さんに謝りに行こ」
「ええ、面倒臭いやん」
「でも、二人が喧嘩してたらせっかくの旅行が台なしや」
そう言って、うちが立ち上がってお母さんの手を引っ張ったときでした。
ピンポン――。
伸びやかなベルの音が車内に響きました。うちははっとなって立ち止まります。
どうやら、アナウンスが入ったようです。急に列車のスピードが落ちてきたのも感じます。
『まもなく、神霧瀬、神霧瀬……』
それが、うちらの目的地の名でした。