満月
徹底した食事管理、可能な限りの休息、胎児に影響が少ない治療が功を奏して、小百合は週数を重ねていった。薄氷を踏む思いで2人はそのときを過ごした。
小百合は30週のときの検診で、切迫早産の兆候が現れたため、その場で即入院、絶対安静を言い渡された。
それで連絡を受けた洋介は入院のための荷物を持って飛んできた。
洋介はその荷物を手際よくロッカーに入れながら言った。
「小百合、お前に1つだけ絶対に守って欲しいことがある」
「何なの?いきなり」
何事かと体を強ばらせた小百合に、洋介は咳払いをすると、
「俺より先に死ぬなよ」
と言って妻から目を逸らせた。
「何それ。」
まじめな顔で何を言い出すかと思ったら……小百合は思わず吹き出してしまった。
「1日でいいから。俺より先に死ぬなよ。もし、先に死んだら俺は承知しない」
洋介はあくまでも真剣だった。そのギャップに小百合は笑い続ける。
「何か昔にそんな歌なかったかしら? でも、死んだら叱られても私わからないわよ。あなたを残して死のうなんてこれっぽっちも思ってないけどね」
小百合は大笑いしながらそう言ったが、その目からはいつしか涙が流れていた。
「約束してくれ」
「…ええ、約束するわ」
35週目に入った時、小百合の血圧は急激に上がり始めた。そのため即刻、帝王切開で彼女は女の子を産んだ。
2120gの小さな命は無事産声を上げ…小百合も出産後の後遺症はなかった。
クリスマスを間近に控えたその時期に生まれた待望の娘を、洋介はフランス語のクリスマスを意味する乃笑留と名づけた。そして、家族の笑顔がいつまでもあるようにと悩みぬいてその字を当てた。
「お前は私たちの救世主だよ」
洋介は保育器で眠る娘にガラス越しにそっとささやいた。
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子供が生まれたと聞いて早速見舞いに訪れた弘毅は、洋介と2人で乃笑留をガラス越しに見ていた。
「おっ、やっぱり女の子は泣き方まで違う。かわいいよなぁ~、ウチも次は女がいいなぁ……あ、ゴメン」
弘毅は軽々しく次の子供のことを口に出してしまった事を反省した。
「いちいち気にするな。ウチはこの子1人で充分だよ。俺は2度とあんな思いはゴメンだ」
それに対して、洋介は手を振りながらそう答えた。
「にしても、小百合ちゃんホントに頑張ったよな」
「ああ、俺には到底真似できない。一度、小百合の食べているものをつまみ食いしたことがあるんだ。ほんとに味があるようないような……よくこんなものを食べてるっていう味だった。でも、それをあいつは実に旨そうに食べてたんだ」
「へぇ」
「で、そんなもん旨いか? って聞いてみたんだよ。そしたら、『これが赤ちゃんを育てるのよ。そう思ったらものすごく美味しいわ』って平然と答えたんだ」
「男には理解できねぇなそういうのって」
「そうだろ」
それから、洋介は弘毅に頭を下げてこう言った。
「桜木、今度のこと本当にありがとう」
「何で。お礼なんて言われるようなこと俺、何にもしてねぇぜ」
いや、何も役に立ってねぇだろ……弘毅はそう思った。
「いや、お前に愚痴や不安を言うことで俺はずいぶんと救われたよ。押しつぶされずにここまでこれた」
「ははは、なんだか照れるな、そういうのって。お礼ってんだったら、いっそのこと乃笑留を周人の嫁にくれるか?乃笑留は間違いなく美人になりそうだし……」
弘毅にそう言われた洋介は笑いながら、
「断るよ。圭子さんに似ればともかく、お前のDNAを色濃く受け継いでたら乃笑留は間違いなく苦労するからな」
と言った。
「おまえなぁ……昔はともかく、今は圭子一筋なんだぜ、俺」
「それは、圭子さんの操縦が上手いって事だろうが」
弘毅の言葉に洋介はニヤニヤ笑って返した。
「どうせ俺は尻に敷かれてるって言いたいんだろ。けどさ、お前だって結局小百合ちゃんの言いなりじゃねぇか」
「ま、そうだな」
「女には勝てねぇんだよ」
女には勝てない-勝てない方が幸せだってことなんだろうと、弘毅は思った。勝てなかったからこそ、こんなことで笑い合える。だったらそれでいいじゃないかと。