アイスキャンディーガール
世界は一面の白だった。
風の音さえ吸い込まれるような雪原の真ん中で、見知らぬ少女がひとり。
無邪気に、雪を蹴ってはしゃいでいる。
その静寂の奥で……じりじりと……アブラゼミ?
まぶたをこじ開ける。
雪の白さは消え、いつもの見飽きた天井が張り付いていた。
枕元の時計は日曜の昼12時41分。
夏の空気が重く淀んでいる。
「…… 暑い……」
夢の中の雪の感覚が鼻の奥に蘇る。
「アイス、食べたい……」
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湿った蝉の声が、熱気に震える空気をさらに重く沈める。
むせるような稲の匂い。空には暴力的に白い入道雲。
青々とした水田に挟まれた国道沿いに建つ一軒のコンビニエンスストア。
自動ドアが開くたび、乾いた入店音が響く。
冷凍ケースの底からは、低く唸るモーター音が漏れていた。
指先に触れる氷菓子の包装フィルムは冷たく、つるりとした感触を残す。
「ありがとうございました」
レジの向こうで店員が機械的に袋を差し出す。
外へ出れば、また蝉の声。
焼けたアスファルトをひたひたと叩く自分の靴音だけが、耳の奥にこびりついて……
「そこの、旅のお人!」
陽炎の立つアスファルトに、一人の少女が這いつくばっていた。
私は思わず足を止める。「……行き倒れ?」
汗で張り付いたTシャツの背中に、夏に不釣り合いなほどに白い肌がかすかに透ける。
「そのガリガリ君……ひとつ、恵んではくれまいか?」
真夏の昼の淀みの中、私の思考は停止したままだった。
少女は続ける。「……ん、ダメか? なら……」
声をぐっと落とし、芝居がかった調子で続けた。
「悪いことは言わないよ。命が惜しければ、そのガリガリ君を置いて、さっさと失せな!」
「いや、その恰好で言うセリフじゃないでしょ?」
強張っていた私の口元が、不覚にも緩む。
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午後の光が斜めに差し込む公園。
木陰の古い木製ベンチに、私たちは並んで腰を下ろした。
彼女は額に張り付いた前髪など気にしない様子で、手にしたガリガリ君を見つめる。
「いやぁ、かたじけない。恩にきるよ」
その妙に時代がかった言い回しに、私は首を傾げた。
「侍?」
彼女はわざと遠くを見るような視線でふっと笑う。
「まさか。名乗るほどの者ではござらんよ。ただの、通りすがりの美少女さ」
「へぇ……自分で美少女って言っちゃうんだ……」
私の言葉など気にも留めず、彼女は背筋を伸ばしてガリガリ君を高く掲げた。
刺すような太陽の光が青い氷を透かして眩しく輝く。
「それじゃあ。この命に感謝して、いただきます!」
「あっ」
青く美しい欠片は、彼女の唇に触れる寸前、重力に従って溶け落ちた。
彼女はただ静かに地面を見つめる。
「……まあ、いいさ。あたしが食べたところで、最終的には土に還るんだし」
彼女の声が少し震えた。
「手間が省けたってことだよね……」
「泣いてるの?」
「うれし涙さ。自分が生態系の一部だって、実感してるだけ……」
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「……あれ? なんか、あたしのキュートなお尻の下に違和感が……」
彼女は腰を浮かせる。
「おやおや、これはお財布じゃないですか。忘れ物かな……」
「……」
「……コンビニ行くぞ! この辺りのガリガリ君を買い占めて、闇ルートで密売する!」
「そして、その利益でガリガリ君を……」
目の前の、かわいらしい極悪人に対して、私は努めて冷静に正義を説いた。
「交番、届けようか?」
彼女は鼻で短く笑い、冷めた目で私を見下ろす。
「所詮この世は弱肉強食だよ。法律なんて人間が作ったルールに過ぎない」
「自然を前にしてそんなルールなど無力なのさ。この行いを悪と呼ぶならば、あたしは喜んで悪を貫くよ!」
財布を高々と掲げた瞬間、背後から男の声が響いた。
「あ! その財布! 拾ってくれたんですね!」
彼女は一瞬で凍りつく。
「え……?」
男は深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。助かりました!」
彼女の中で渦巻いていたささやかな悪意は、みるみる萎んでいく。
「いえいえ、大した事では……」
「これ、少ないですがお礼です」
男は千円札を握らせ、足早に去っていった。
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抜け殻の彼女に、私は静かに声をかけた。
「……はかない悪だったね」
彼女は何かを堪えるように顔を歪める。
「ちくしょう……!」
だが、握りしめた千円札を確かめると、弾かれたように立ち上がった。
「まあいい……この金でバスに乗って、隣町のコンビニまで遠征だ!」
「ガリガリ君の『当たり』を探しに行く。一攫千金だよ、ついてきな!」
しかし、公園の時計台に目をやった彼女は急に言葉を濁す。
「……と思ったけど。もうこんな時間か。看守に見つかったら、ちょっとマズいな」
「看守?」聞き慣れない響きに眉をひそめる私を置き去りにして、
彼女は続けた。
「あしたにしよう!」
「明日?……明日は……」
夢の終わりを告げられたような感覚が、私の内側を急速に硬くする。
「明日は、仕事があるから……」
私はどんな顔をしていたのだろう?
彼女は私の顔を覗き込み、その瞳の奥をじっと見つめる。
「なんで? 休めばいいじゃん?」
「いや、迷惑かかるし……」
「あのさ。どんな仕事か知らないけど、その仕事って宇宙にとってどれほどの意味があるの?」
彼女の声はどこか優しく、諭すようだった。
「自分が誰かの役に立っているかだなんて、結局は自己満足だよ?」
「……いい? 明日の10時、ここに集合。絶対に遅れるなよ!」
私の答えを待つことなく、彼女の後ろ姿は熱気の中に溶けていった。
乾いた地面に張り付いたアイスには、どこからか湧いたアリが群がり始めていた。
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アラームの乾いた音が静寂を切り裂く。
遠くで微かに蝉が鳴いている。
鉛のように重い瞼をこじ開けると、そこにはいつもの薄汚れた天井。
枕元の時計は、月曜の朝7時32分。
いつもの天井。
いつもの天井。
いつもの天井……
私は寝返りを打ち、スマートフォンの画面を指でなじる。
『申し訳ありません。本日、体調不良により……』
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昨日と何も変わらない蝉たちの声。
けれど、昨日とは決定的に違う、平日の静まり返った公園。
何かが変わる気がしていた。
午前10時。一人、熱を帯びたベンチに座る。
鳴りやまない蝉の声。
午前11時。誰一人、現れる気配はない。
鳴りやまない蝉の声。
昼12時。……誰も、来なかった。
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白い世界……
私は「誰か」を探す。
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消毒液の匂いが鼻を突く病院の廊下。
自分の足音だけが急き立てるように響く。
重い扉を勢いよく押し開けた。
整えられた病室の空気は、彼女の声を昨日とは別ものに変えた。
「えっ……!」
彼女は決まりが悪そうに、誤魔化すような笑みを浮かべて続ける。
「えっと……いや、よくぞここまで辿り着いたね! 褒めてあげるよ、ははは」
安堵とやりきれなさが混ざり、深い溜息となって漏れる。
「……なんだよ。元気そうじゃん……」
私は提げてきたレジ袋を彼女に示しながら尋ねた。
「あんた、あのコンビニでどんだけ買ったの? 店員の間で『ガリ子』って呼ばれてるよ」
当のガリ子は子供のように目を輝かせて袋の中を覗き込む。
「お、ガリガリ君の密輸かい? いやぁ、昨日の『脱獄』がバレちゃって、監視が厳しくなっちゃってさ」
私の視線は、彼女の薄い腕に繋がれた透明な管に固定される。
「……なんで、入院してるの?」
彼女は袋を探りながら、さらりと言った。
「ん? 別に大したことないよ。ちょっとした、生まれつきの病気。……まあ、あと半年くらいは生きられるってさ」
その言葉の軽さに、私は返す言葉を失う。
「半年、って……」
彼女は私の狼狽を笑うように、静かに、けれど力強く言った。
「何言ってるの。宇宙が誕生して138億年だよ?」
「人間の寿命なんてたかが80年。エイティもエイティーンも、誤差、誤差!」
彼女は誇らしげに胸を張る。
「大事なのは長さじゃない、中身だよ。その点、あたしは毎日が充実してる」
「ガリガリ君も毎日食べてるしな!」
いたずらっぽい目で笑い、ガリ子は続ける。
「あんたこそ、どうなの? ガリガリ君、毎日食べてるか?」
私は!
私は…
私は、何も答えられなかった。
彼女は哀れむような優しい目で、自分のアイスを差し出す。
「かわいそうに。少し、分けてあげようか?」
「それ、私が買ったやつ……」
「知ってる! ありがとね!」
彼女は屈託のない笑顔を見せ、思い出したように身を乗り出す。
「そうだ!『ショーシャンク…』のDVDを一緒に見ようよ。脱獄のイメージトレーニング!」
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初めて見る映画だった。
自由の本質を突きつけられるようでいて、でも、どこかおとぎ話めいた物語。
私はそこから受け取った感情を言葉にできずにいた。
ガリ子の口から漏れるギチギチとした咀嚼音が私の思考を妨げる。
氷の剥げ落ちた棒を、ガリ子は未だに咥えていた。
「その棒、おいしいの?」
彼女はごもごと答える。
「え? いや、おいしいわけじゃないんだけど」
「……この木の味と歯ごたえが、なんだか落ち着くんだよね」
「あんたも、かじる?」
差し出された棒には彼女の生々しい歯形。
「あんたの唾液まみれじゃん」
「そういうの、気にするタイプ?」
彼女は意地悪そうに私を見つめる。
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窓の外はいつの間にか赤に染まっていた。
ガリ子は黙って夕景を見つめ、ふと私を見た。
「ねぇ、明日は『レオン』を見ようよ!」
「ゲイリー・オールドマンのイカれっぷり、最高なんだから」
「死ぬときはさ、あんな風に無様にカッコよく逝きたいよね~」
「最後なんて大量の手榴弾でさ…」
彼女の言葉が少しずつ熱を失っていく。
「……あ、いや、あんた、明日は仕事だよね……」
私は反射的に答える。
「次の休み、また来るよ」
「……うん」
彼女は照れを隠すように視線を逸らした。
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白い雲。
虫の声。
国道のコンビニ。
病室で笑うガリ子。
繰り返す同じ毎日。
それでも、世界は少しずつ、残酷に秋の気配を帯びて変色していく。
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いつもの病室。
ガリ子は真剣な眼差しで溶けかかったアイスを見つめる。
「みんな宝石みたいな『変わらない美しさ』に憧れるけど、そんなの幻想だと思わない?」
「宇宙に、変わらないものなんてひとつもないんだから」
「……変化こそが、真の美しさ……」
「……そう。この、すぐに溶けちゃうガリガリ君みたいに!」
彼女は一口かじると、満足げな笑みを無理やりに見せつける。
不意に冷たい風が窓を叩く。
窓の外の街路樹はすでに葉を落とし、裸の枝を晒している。
「ねぇ、あそこの工事、何を作ってるの?」
「駅前の再開発だって。ビルが建つらしいよ」
彼女の意識は一点に釘付けだ。
「コンビニも、できる?」
「どこで買ってもガリガリ君の味は一緒だよ。たぶん、できるだろうけど」
「いつ、できるの?」
「来年の、春……」
私は言葉を飲み込んだ。
沈黙が続く。
彼女は窓の外を見つめる。
「あたしはさ、ガリガリ君と映画さえあれば幸せだったんだよ……」
「それがさ……」
「あんたのせいだよ!」
「あんたさえいなければ……」
「責任取ってよ!」
「助けてよ……怖いよ……死にたくないよ……」
彼女は手元の棒を力なく噛んだ。
ふと、棒に視線を落とした彼女の目が微かに動く。
「あ……」
そのまま窓の外を見やり、声を上げた。
「あ!」
鈍色の空から、白い雪がひらひらと舞い降りてくる。
ガリ子は初めて雪を見た子供のように顔を輝かせる。
「ねぇ! 雪合戦でレオンやろう!」
「……大丈夫なの?体……」
「あたしがゲイリー・オールドマンをやるから!」
「途中のコンビニで、手榴弾買っていこうね!」
「売ってないってば……」
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積もり始めたばかりで雪合戦などできるはずもなかった。
それでも彼女は雪の中をはしゃぎ回り、私の手を強く引く。
ベートーヴェンらしい曲を口ずさむ。
……不意に、彼女の手の力が抜ける。
純潔な白い雪の上に、鮮やかな赤が落る。
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静まり返った、空っぽの病室。
白いシーツの上に歯形の付いた一本の乾いた木の棒が取り残されていた。
そこには、一言。
『あたり』
の文字。
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アラームの音が部屋に響く。
枕元の時計は、月曜の朝7時32分。
私はカーテンを静かに開ける。
窓の外には、春の光を浴びた桜の花びらが舞い散っていた。




