再演 出現
再演 出現
事故の少し前。
間宮正司は、大学の研究室で困惑していた。
目の前に、一人の男が座っている。
三十代半ばほど。
少しくたびれたシャツ。
机の脇には、見覚えのない鞄。
男はさっきから、研究室の中を何度も見回していた。
「……本当に、分からないのか?」
男が言った。
「何がです?」
正司が答える。
男の表情が止まった。
「俺だよ」
「……」
「浅田だ」
正司は少し考えた。
「浅田……?」
「浅田正人」
名前を聞いても、何も浮かばない。
正司は机の上のパソコンへ目を向けた。
大学の研究者名簿。
過去の共同研究。
学会記録。
すでに何度か確認した。
浅田正人。
その名前は、どこにもない。
「申し訳ないですが」
正司は男を見る。
「私は、あなたを知りません」
浅田と名乗った男は、しばらく黙っていた。
「……冗談じゃないんだよな」
「こちらが聞きたいです」
「大学の同期だぞ」
「私の?」
「そうだ」
「記憶にありません」
「ひどいな、お前」
「知らないものは仕方ないでしょう」
浅田は額を押さえた。
「お前が物理で、俺が――」
そこで言葉を止めた。
視線が机の上へ向く。
一冊の古びたノート。
浅田の表情が変わった。
「……まだ、それ使ってるのか」
正司の目が細くなる。
「これを知っているんですか」
「知ってるも何も」
浅田はノートを指した。
「俺と一緒に書いてたやつだろ」
正司の手が止まった。
「これは私個人の研究ノートです」
「嘘つけ」
「なぜ私が嘘をつくんです」
「そこに俺の計算も書いてあるはずだ」
正司はノートを開いた。
数式。
観測記録。
仮説。
すべて自分の筆跡だった。
「ありません」
「……ない?」
「あなたの筆跡も、名前も」
浅田は黙った。
「そのノート、何冊目だ?」
「なぜそれを」
「だから知ってるんだよ」
正司は浅田を見る。
浅田も正司を見返した。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「……じゃあ」
浅田が口を開く。
「真司は?」
「誰です?」
「お前の息子だよ」
「娘ですけど」
「……は?」
浅田の顔が止まった。
「私の子供は娘です」
「いや、息子だろ」
「なぜあなたが決めるんです」
「決めてない。知ってるんだよ」
「私は父親です」
「俺もお前の親友だ」
「知りません」
「そこからかよ」
浅田は大きく息を吐いた。
「間宮真司。お前の息子。哲学やってる」
「娘は真由です」
「……真由?」
「はい」
「誰だよ」
「私の娘です」
「だから、俺の知ってるお前にはいないんだよ」
「こちらからすれば、あなたが誰なんです」
二人とも黙った。
研究室に、妙な沈黙が落ちた。
浅田が腕を組む。
「……整理しよう」
「そうしてください」
「俺は浅田正人」
「知らない」
「そこは一旦置け」
「重要でしょう」
「話が進まない」
正司は少し考えた。
「では、置きます」
「助かる」
浅田は指を一本立てた。
「俺の知ってる間宮正司には、息子の真司がいる」
「こちらには娘の真由がいる」
「そう」
「あなたは私の親友」
「そう」
「私はあなたを知らない」
「そう」
また沈黙。
正司が言った。
「……あなたの方がおかしいですね」
「普通はそう思うよな」
「はい」
「俺もそう思いたいよ」
浅田は椅子にもたれた。
さっきまでの軽さが、少しだけ消えた。
「でもな」
「何です?」
「俺の知ってる正司と、お前は同じなんだよ」
「顔が?」
「顔も」
「名前も」
「ああ」
「でも、私はあなたを知らない」
「そうなんだよ」
浅田は研究室を見回した。
「ここも似てる」
「似ている?」
「机の位置も、棚も、窓も」
少し考える。
「でも、微妙に違う」
正司は何も言わなかった。
「……そういうことか」
浅田が呟く。
「何がです?」
「俺が間違ってるんじゃない」
「まだ決まっていません」
「ここが、俺の知ってる場所じゃないんだ」
正司は眉を寄せた。
「別の場所?」
「分からん」
「別の大学?」
「そういう意味じゃない」
「では?」
浅田は少し黙った。
「別の……世界」
「……」
「笑うなよ」
「笑ってません」
「顔が笑ってる」
「困っているだけです」
「相変わらず腹立つな」
「あなたの知っている私も?」
「そう」
「それは少し安心しました」
「なんでだよ」
*
しばらくして。
正司は机の上のノートを閉じた。
「それで、今日はどうするんです?」
「どうするって?」
「あなたです」
「俺?」
「帰るんですか」
浅田は少し考えた。
「……帰りたくない」
「なぜです?」
「怖いだろ」
「何が」
「家に俺がいたらどうする」
正司は黙った。
「この世界にも浅田正人がいると?」
「いるかもしれない」
「大学には記録がありませんでした」
「大学にいないだけかもしれないだろ」
「なるほど」
「もし家に帰って、俺が出てきたらどうする」
「どうするとは?」
「俺と俺が会うんだぞ」
「……」
「タイムパラドックスとか起きたら困る」
正司はしばらく浅田を見た。
「時間移動ではないでしょう」
「似たようなもんだ」
「かなり違うと思いますが」
「細かいな、お前」
「物理学者なので」
浅田は息を吐いた。
「じゃあ、今日は帰らない」
「ホテルに泊まればいいでしょう」
「金が使えるか分からない」
「現金は?」
「ある」
「では問題ないのでは」
「身分証が通用しなかったら?」
「ホテルでそこまで確認されますか?」
「知らん」
「では試してください」
「冷たいな」
「知らない人なので」
浅田は正司を見た。
「正司」
「何です」
「泊めろ」
「嫌です」
「即答かよ」
「知らない人ですから」
浅田は天井を見上げた。
「……そうか」
正司が少し眉を上げる。
「何です?」
「俺の知らない間宮正司なんだよな」
浅田は苦笑した。
「顔は同じ。名前も同じ。でも、俺の知ってる正司じゃない」
「……」
「ただの他人に、これ以上世話かけるわけにもいかないか」
浅田は立ち上がった。
「どこへ?」
「帰る」
「自宅へ?」
「ああ」
「この世界にも、あなたがいる可能性があるんでしょう」
「あるな」
「大丈夫なんですか」
「分からん」
浅田は鞄を持った。
「帰って、俺が出てきたら……」
少し考える。
「ドッペルゲンガーになるか」
「ずいぶん軽いですね」
「もう考えても仕方ない」
「タイムパラドックスは?」
「さっきお前に否定された」
「否定したわけではありません」
「今さら不安にさせるなよ」
正司は小さく息を吐いた。
「住所は分かるんですか」
「俺の世界と同じならな」
「違ったら?」
「戻ってくる」
「結局、来るんですね」
浅田は振り返った。
「他も俺を知らないだろ」
正司は黙る。
「お前が俺を知らないなら、知ってる奴を探す方が難しそうだ」
浅田は研究室の扉へ向かった。
正司は、その背中を見ていた。
突然現れた男。
自分を親友だと言う。
存在しない息子の名前を知っている。
自分しか知らないはずのノートまで知っている。
妙な話ばかりだ。
普通なら、もっと疑うべきなのだろう。
それでも――
少なくとも、悪意があるようには見えなかった。
「……待ってください」
浅田が振り返る。
「ん?」
「今日は、うちに来ますか」
浅田の目が少し開いた。
「いいのか?」
「詳しく話を聞きたいだけです」
「泊めてくれる?」
「そこまでは言ってません」
「同じだろ」
「違います」
浅田は少し笑った。
「やっぱり、お前は正司だな」
「あなたの知っている正司ではありません」
「細かいな」
「そこが一番重要です」
正司は机の上のノートを鞄へ入れた。
「行きますよ」
「ああ」
「勘違いしないでください」
「何が?」
「あなたを信用したわけではありません」
「はいはい」
「返事が軽いですね」
「俺の知ってる正司も、そういう言い方してたよ」
正司は一瞬だけ浅田を見た。
何も言わず、研究室の明かりを消す。
ドアを開けた。
廊下へ出る。
二、三歩進んだところで、
正司は振り返った。
「浅田さん?」
誰もいなかった。
「……」
開いたままの研究室。
中にも、人影はない。
「浅田さん?」
正司は研究室へ戻った。
机の下。
窓際。
棚の陰。
隠れられるような場所などない。
「……何をしてるんです」
返事はなかった。
再び廊下へ出る。
左右を見る。
誰もいない。
数秒前まで、すぐ後ろにいた。
「……浅田?」
今度は、敬称が抜けた。
静かな廊下に、自分の声だけが残る。
正司はゆっくり研究室へ戻った。
椅子を見る。
浅田が座っていた場所。
机の上には、見覚えのない一本のペンが残されていた。
正司はそれを手に取った。
「……出てきて、消えた?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
しばらくして、
正司は研究ノートを開いた。
新しいページに、日付を書く。
その下に、
――浅田正人。
少し考えて、
もう一行。
――出現。
正司はペンを止めた。




