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再演 出現

作者: らいと
掲載日:2026/09/11

再演 出現


 事故の少し前。


 間宮正司は、大学の研究室で困惑していた。


 目の前に、一人の男が座っている。


 三十代半ばほど。


 少しくたびれたシャツ。


 机の脇には、見覚えのない鞄。


 男はさっきから、研究室の中を何度も見回していた。


「……本当に、分からないのか?」


 男が言った。


「何がです?」


 正司が答える。


 男の表情が止まった。


「俺だよ」


「……」


「浅田だ」


 正司は少し考えた。


「浅田……?」


「浅田正人」


 名前を聞いても、何も浮かばない。


 正司は机の上のパソコンへ目を向けた。


 大学の研究者名簿。


 過去の共同研究。


 学会記録。


 すでに何度か確認した。


 浅田正人。


 その名前は、どこにもない。


「申し訳ないですが」


 正司は男を見る。


「私は、あなたを知りません」


 浅田と名乗った男は、しばらく黙っていた。


「……冗談じゃないんだよな」


「こちらが聞きたいです」


「大学の同期だぞ」


「私の?」


「そうだ」


「記憶にありません」


「ひどいな、お前」


「知らないものは仕方ないでしょう」


 浅田は額を押さえた。


「お前が物理で、俺が――」


 そこで言葉を止めた。


 視線が机の上へ向く。


 一冊の古びたノート。


 浅田の表情が変わった。


「……まだ、それ使ってるのか」


 正司の目が細くなる。


「これを知っているんですか」


「知ってるも何も」


 浅田はノートを指した。


「俺と一緒に書いてたやつだろ」


 正司の手が止まった。


「これは私個人の研究ノートです」


「嘘つけ」


「なぜ私が嘘をつくんです」


「そこに俺の計算も書いてあるはずだ」


 正司はノートを開いた。


 数式。


 観測記録。


 仮説。


 すべて自分の筆跡だった。


「ありません」


「……ない?」


「あなたの筆跡も、名前も」


 浅田は黙った。


「そのノート、何冊目だ?」


「なぜそれを」


「だから知ってるんだよ」


 正司は浅田を見る。


 浅田も正司を見返した。


 二人とも、しばらく何も言わなかった。


「……じゃあ」


 浅田が口を開く。


「真司は?」


「誰です?」


「お前の息子だよ」


「娘ですけど」


「……は?」


 浅田の顔が止まった。


「私の子供は娘です」


「いや、息子だろ」


「なぜあなたが決めるんです」


「決めてない。知ってるんだよ」


「私は父親です」


「俺もお前の親友だ」


「知りません」


「そこからかよ」


 浅田は大きく息を吐いた。


「間宮真司。お前の息子。哲学やってる」


「娘は真由です」


「……真由?」


「はい」


「誰だよ」


「私の娘です」


「だから、俺の知ってるお前にはいないんだよ」


「こちらからすれば、あなたが誰なんです」


 二人とも黙った。


 研究室に、妙な沈黙が落ちた。


 浅田が腕を組む。


「……整理しよう」


「そうしてください」


「俺は浅田正人」


「知らない」


「そこは一旦置け」


「重要でしょう」


「話が進まない」


 正司は少し考えた。


「では、置きます」


「助かる」


 浅田は指を一本立てた。


「俺の知ってる間宮正司には、息子の真司がいる」


「こちらには娘の真由がいる」


「そう」


「あなたは私の親友」


「そう」


「私はあなたを知らない」


「そう」


 また沈黙。


 正司が言った。


「……あなたの方がおかしいですね」


「普通はそう思うよな」


「はい」


「俺もそう思いたいよ」


 浅田は椅子にもたれた。


 さっきまでの軽さが、少しだけ消えた。


「でもな」


「何です?」


「俺の知ってる正司と、お前は同じなんだよ」


「顔が?」


「顔も」


「名前も」


「ああ」


「でも、私はあなたを知らない」


「そうなんだよ」


 浅田は研究室を見回した。


「ここも似てる」


「似ている?」


「机の位置も、棚も、窓も」


 少し考える。


「でも、微妙に違う」


 正司は何も言わなかった。


「……そういうことか」


 浅田が呟く。


「何がです?」


「俺が間違ってるんじゃない」


「まだ決まっていません」


「ここが、俺の知ってる場所じゃないんだ」


 正司は眉を寄せた。


「別の場所?」


「分からん」


「別の大学?」


「そういう意味じゃない」


「では?」


 浅田は少し黙った。


「別の……世界」


「……」


「笑うなよ」


「笑ってません」


「顔が笑ってる」


「困っているだけです」


「相変わらず腹立つな」


「あなたの知っている私も?」


「そう」


「それは少し安心しました」


「なんでだよ」


     *


 しばらくして。


 正司は机の上のノートを閉じた。


「それで、今日はどうするんです?」


「どうするって?」


「あなたです」


「俺?」


「帰るんですか」


 浅田は少し考えた。


「……帰りたくない」


「なぜです?」


「怖いだろ」


「何が」


「家に俺がいたらどうする」


 正司は黙った。


「この世界にも浅田正人がいると?」


「いるかもしれない」


「大学には記録がありませんでした」


「大学にいないだけかもしれないだろ」


「なるほど」


「もし家に帰って、俺が出てきたらどうする」


「どうするとは?」


「俺と俺が会うんだぞ」


「……」


「タイムパラドックスとか起きたら困る」


 正司はしばらく浅田を見た。


「時間移動ではないでしょう」


「似たようなもんだ」


「かなり違うと思いますが」


「細かいな、お前」


「物理学者なので」


 浅田は息を吐いた。


「じゃあ、今日は帰らない」


「ホテルに泊まればいいでしょう」


「金が使えるか分からない」


「現金は?」


「ある」


「では問題ないのでは」


「身分証が通用しなかったら?」


「ホテルでそこまで確認されますか?」


「知らん」


「では試してください」


「冷たいな」


「知らない人なので」


 浅田は正司を見た。


「正司」


「何です」


「泊めろ」


「嫌です」


「即答かよ」


「知らない人ですから」


 浅田は天井を見上げた。


「……そうか」


 正司が少し眉を上げる。


「何です?」


「俺の知らない間宮正司なんだよな」


 浅田は苦笑した。


「顔は同じ。名前も同じ。でも、俺の知ってる正司じゃない」


「……」


「ただの他人に、これ以上世話かけるわけにもいかないか」


 浅田は立ち上がった。


「どこへ?」


「帰る」


「自宅へ?」


「ああ」


「この世界にも、あなたがいる可能性があるんでしょう」


「あるな」


「大丈夫なんですか」


「分からん」


 浅田は鞄を持った。


「帰って、俺が出てきたら……」


 少し考える。


「ドッペルゲンガーになるか」


「ずいぶん軽いですね」


「もう考えても仕方ない」


「タイムパラドックスは?」


「さっきお前に否定された」


「否定したわけではありません」


「今さら不安にさせるなよ」


 正司は小さく息を吐いた。


「住所は分かるんですか」


「俺の世界と同じならな」


「違ったら?」


「戻ってくる」


「結局、来るんですね」


 浅田は振り返った。


「他も俺を知らないだろ」


 正司は黙る。


「お前が俺を知らないなら、知ってる奴を探す方が難しそうだ」


 浅田は研究室の扉へ向かった。


 正司は、その背中を見ていた。


 突然現れた男。


 自分を親友だと言う。


 存在しない息子の名前を知っている。


 自分しか知らないはずのノートまで知っている。


 妙な話ばかりだ。


 普通なら、もっと疑うべきなのだろう。


 それでも――


 少なくとも、悪意があるようには見えなかった。


「……待ってください」


 浅田が振り返る。


「ん?」


「今日は、うちに来ますか」


 浅田の目が少し開いた。


「いいのか?」


「詳しく話を聞きたいだけです」


「泊めてくれる?」


「そこまでは言ってません」


「同じだろ」


「違います」


 浅田は少し笑った。


「やっぱり、お前は正司だな」


「あなたの知っている正司ではありません」


「細かいな」


「そこが一番重要です」


 正司は机の上のノートを鞄へ入れた。


「行きますよ」


「ああ」


「勘違いしないでください」


「何が?」


「あなたを信用したわけではありません」


「はいはい」


「返事が軽いですね」


「俺の知ってる正司も、そういう言い方してたよ」


 正司は一瞬だけ浅田を見た。


 何も言わず、研究室の明かりを消す。


 ドアを開けた。


 廊下へ出る。


 二、三歩進んだところで、


 正司は振り返った。


「浅田さん?」


 誰もいなかった。


「……」


 開いたままの研究室。


 中にも、人影はない。


「浅田さん?」


 正司は研究室へ戻った。


 机の下。


 窓際。


 棚の陰。


 隠れられるような場所などない。


「……何をしてるんです」


 返事はなかった。


 再び廊下へ出る。


 左右を見る。


 誰もいない。


 数秒前まで、すぐ後ろにいた。


「……浅田?」


 今度は、敬称が抜けた。


 静かな廊下に、自分の声だけが残る。


 正司はゆっくり研究室へ戻った。


 椅子を見る。


 浅田が座っていた場所。


 机の上には、見覚えのない一本のペンが残されていた。


 正司はそれを手に取った。


「……出てきて、消えた?」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 しばらくして、


 正司は研究ノートを開いた。


 新しいページに、日付を書く。


 その下に、


 ――浅田正人。


 少し考えて、


 もう一行。


 ――出現。


 正司はペンを止めた。

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