空(から)の檻
警視庁捜査一課の刑事・島崎は、練馬区で起きた主婦・佳織の失踪事件を追っていた。
争った形跡も、金銭の持ち出しもない。ただ、彼女の趣味だったというアンティークの「煤竹の虫籠」だけが、リビングのテーブルに不自然に置かれていた。
「ただの家出じゃない。この部屋には『生活』が急に断絶した気配がある」
島崎は、佳織のSNSや通話履歴を洗い、西荻窪の骨董店『無辺』に辿り着いた。
「あの籠を売ったのは私です」
店主の老人は、島崎の差し出した写真を見て、力なく笑った。
「あれは、江戸の職人が『死に際の想い』を閉じ込めるために作った、呪いのような器。持ち主が嘘を重ねるほど、籠は重くなり、代わりに持ち主の存在が『空』になる……佳織さんは、何を籠に預けたんでしょうね」
島崎は足を使った地道な捜査で、佳織の隠された過去を暴き出した。彼女は数年前、ある横領事件で同僚を罠に嵌め、その罪を肩代わりさせていた。
「……自分だけが正しいと信じ込むために、彼女は虫籠に『真実』を捨てたのか」
島崎は、佳織のマンションに再び戻った。
夕闇のなか、証拠品として残された虫籠から、「カサッ、カサッ」という乾いた音が聞こえる。
島崎が恐る恐る中を覗くと、そこには虫などいない。ただ、真っ黒なインクを零したような「影」が、うごめいていた。
「佳織さん……そこにいるのか」
島崎が呼びかけると、籠の中から聞き覚えのある、しかし何百人分もの声が混ざったような呻きが響いた。
『……私は、何も、悪くない……』
その瞬間、島崎は悟った。
彼女はどこかに逃げたのではない。自分のついた嘘が形を成した「虫」に内側から食い尽くされ、今やその意識は、この小さな竹籠の中に永遠に閉じ込められてしまったのだ。
島崎は、震える手で捜査資料に「行方不明」と記した。
警察の力では、この「心の牢獄」から彼女を救い出すことはできない。
島崎が部屋を去る際、背後で「……助けて」という羽音のような声が聞こえた気がしたが、彼は二度と振り返らなかった。
「警察が追えるのは物理的な足跡まで。しかし、人間が自分自身の嘘に飲み込まれたとき、その行方は法律や科学では解明できません」




