嘘の器(うそのうつわ)
西荻窪の裏通りにある骨董店『無辺』で、都内の広告代理店に勤める佳織は、その虫籠に目を奪われた。
煤竹を細く編み込んだ繊細な作り。だが、どこか不自然な重みがある。
「珍しいでしょう。それは『聞き籠』と呼ばれていてね」
店主の老人が、眼鏡の奥から濁った瞳を向けた。
「昔の人は、誰にも言えない愚痴や、隠し通したい嘘をこの籠に向かって囁いた。そうすると、不思議と現実がその『嘘』の通りに書き換わる……という伝承があるんです」
佳織は、自嘲気味に笑ってそれを買った。
彼女には、どうしても消し去りたい「事実」があった。半年前、不倫関係にあった上司が横領で逮捕された際、彼女は保身のために「私は何も知らなかった、無理やり協力させられた」と嘘の証言をしたのだ。その結果、自分だけが会社に残り、上司はすべてを失った。
マンションに戻り、佳織は虫籠の蓋を少しだけ開けた。
「私は被害者。私は清廉潔白。悪いのは全部、あの人……」
指先が震える。だが、言葉を吐き出すたびに、胸の動悸が収まっていく。
翌日、驚くべきことが起きた。疎遠になっていた同僚たちが、手のひらを返したように優しくなったのだ。
「佳織さん、大変だったよね。あんな上司に捕まって」
まるでもともとそうだったかのように、周囲の記憶から彼女の「加担」という事実が消えていた。
味をしめた佳織は、些細な嘘を虫籠に吹き込み続けた。
「明日のプレゼンは私の手柄」「あのミスは後輩のせい」。
嘘をつくたび、虫籠は黒ずんでいき、中から「カサッ、カサッ」と、乾いた羽音が響くようになった。
ある夜。虫籠の中から、聞き覚えのある声がした。
「……ありがとう、佳織。君の言う通りだ」
それは、刑務所にいるはずの上司の声だった。驚いて籠を覗き込むと、そこには虫などいない。ただ、無数の「自分の口から出た言葉」が、真っ黒な這い虫の形をして、籠の隙間から溢れ出そうとしていた。
恐怖に駆られた佳織は、籠をゴミ捨て場に投げ捨てようとした。
だが、手が離れない。竹の棘が指に深く刺さり、そこから黒い虫たちが彼女の皮膚の下へ、血管を伝って逆流してきた。
「あ、あ……」
声が出ない。彼女の体は、自分がつき続けた「嘘」で満たされ、内側から食い破られていく。
翌朝、彼女の部屋に残されていたのは、綺麗に整理整頓された仕事道具と、中身が空っぽになった、主人のいない高級マンションだけだった。
佳織という人間は、彼女自身が虫籠に吹き込んだ「私は関係ない、ここにはいない」という嘘の通り、この世界から完全に消滅してしまったのだ。
自分を守るための嘘が、最終的には自分自身の存在理由まで削り取ってしまうという内容です




