虫籠の記憶
その竹細工の虫籠は、深川の古道具屋「えんま屋」の隅で、まるで息を潜めるように置かれていた。
店主の源兵衛は、埃を被ったその籠を手に取り、客の若者に目を細めた。
「こいつはね、ただの虫籠じゃない。中に入れたものの『声』を閉じ込めるって、いわく付きなんだよ」
若者の名は新次。呉服屋の丁稚だが、近頃は夜も眠れぬほどの悩みを抱えていた。一ヶ月前、不慮の事故で亡くなった幼馴染のお光の最期の言葉が、どうしても思い出せないのだ。
「声が……聞こえるんですか?」
「ああ。だがね、中身が空っぽじゃなきゃいけない。誰にも言えない秘密や、胸のつかえをこの籠に吹き込むのさ。そうすれば、籠が代わりにそれを覚えておいてくれる」
新次は迷った末に、乏しい小銭を叩いてその虫籠を買った。
長屋に戻り、独りきりの部屋で虫籠の蓋を少しだけ開ける。竹の隙間から、ひんやりとした夜の空気が
漏れてくるようだった。新次はそこに、消え入りそうな声で語りかけた。
「お光、お前はあの時、なんて言おうとしたんだ……」
その夜から、新次の夢に異変が起きた。
夢の中で、彼は巨大な竹籠の中に閉じ込められていた。外では、見知らぬ人々の話し声が絶えず響いている。それは恨み言だったり、隠し通した悪事だったり、切ない恋心だったりした。
「……すまねえ、あの金は俺が……」
「……本当は、あんたのことが……」
人々の「声」が、目に見えない羽虫のように籠の中を飛び交っている。新次は必死にその中から、お光の声を探した。
三晩目のことだ。ようやく聞き覚えのある、鈴を転がすような声が耳に届いた。
「新さん、泣かないで。私は幸せだったよ」
目が覚めたとき、新次の頬は濡れていた。
不思議なことに、あれほど重かった胸のつかえが、すっと消えていた。枕元に置いた虫籠からは、微かに秋の虫のような、心地よい音が響いている気がした。
翌日、新次は虫籠を返しに「えんま屋」へ向かった。
「もう、いらなくなりました」
源兵衛は、すべてを見透かしたような笑みを浮かべて虫籠を受け取った。
「そうかい。声はちゃんと、籠が預かったようだね。……人間ってのは、自分一人で抱えるには、思い出も秘密も重すぎる生き物だからな」
表に出ると、深川の空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
新次は大きく息を吸い込み、人混みの中へと歩き出した。背後で、古道具屋の古い扉が閉まる音が、まるで一冊の本を閉じるような響きを立てて消えていった。
辛い記憶を一人で抱え込まず、何かに吐き出すことで、人はまた歩き出せる




