リングの紳士 世界ヘビー級王者 ジェームズ・J・コーベット(1866-1933)
コーベットのボクシングはフットワーク革命と呼ばれるが、ボクシングにスピードとフットワークという要素を持ち込んだのは彼が最初というわけではない。19世紀半ばのヘビー級王者ダニエル・メンドーサが170cmという上背のハンディを補うために早いフットワークで大男をかく乱する戦法を取り入れたのが最初である。しかし、言い伝えに過ぎないメンドーサのボクシングに対して、コーベットは実写フィルムで全てを検証することができるぶん説得力が違うし、時代的にもボクシング人気が高揚していたことも、コーベットの偉業がより高評価される要素の一つになったと考えられる。
大正十年、わが国で『深夜の人』という連続活劇映画が封切られ大評判をとったことがある。主人公であるボクサーが群がる悪漢たちを次々と鉄拳で叩きのめしてゆくという他愛のないストーリーながら、当時としては迫力のあるリアルなアクションシーンに観客たちは熱狂した。それもそのはず、正義のヒーローを演じたジェームズ・J・コーベットは正真正銘の元世界ヘビー級チャンピオンだったのだ。
ジム・コーベットの父、パトリックはアイルランドからの移民で生粋のケルト人である。十二人という子沢山ながら、貸馬車屋と葬儀屋を営むパトリックの家は比較的裕福だったので、子供はいずれもきちんとした教育を受け、四番目のジムも高校を卒業後、ネバダナショナル銀行サンフランシスコ支店の出納係として堅気の道を歩んでいた。
ところが、ジムの本心は学生時代にかじっていたボクシングで身を立てることであり、銀行員になったのはあくまでも父親を安心させる目的に過ぎない。
コーベット家は総じてボクシング好きで、ジムはアマのライト級チャンピオンになった兄ウィラスからボクシングの手ほどきを受ける一方、別の兄フランクからは喧嘩の極意を仕込まれたという。加えて、銀行の先輩ハーディングから武者修行と称して当時悪名の高かったバーバリーコーストの酒場や玉突き場での即席試合に出場させられたことは、ジムのスキルアップに大いに役立った。
酒場にたむろするボクサーくずれや用心棒、腕自慢の流れ者といった荒っぽい連中と拳を交えたことで、コーベットは紳士的な容貌からは想像がつかないほどのタフガイに成長していった。
やがてアマチュアのリングに立つようになると、オリンピック競技員会がイギリスから招聘したコーチの指導の下、メキメキと頭角を現し始め、西海岸屈指のトップアマとして君臨するようになるまでには大した時間はかからなかった。
若き日のコーベットは大変研究熱心なボクサーだった。アマのレベルには飽き足らず、著名なプロボクサーが試合のためサンフランシスコを訪れるたびにスパーリングを申し込んでいたほどだ。そんなある日の事、サンフランシスコに滞在中のさる高名なミドル級ボクサーがスパーリングパートナーを求めてコーベットの所属するオリンピック・ジムにやってきた。
もちろんコーベットはこれを受けて立ったが、西海岸のヘビー級トップアマのパンチはサイドステップでことごとくかわされたあげく、相手のパンチで鼻血を出すやら散々な目に遭った。
スパーリングの後、ドレッシングルームにやってきたミドル級ボクサーはコーベットの肩を抱きながらこうつぶやいた。「君の腕前は悪くないよ。チャンピオンになる素質がある。悪いことは言わないからプロになりたまえ。君には洋々たる前途がある。僕が保証するよ」
これを機に二人は親友になった。コーベットはこの卓越した技巧を持つミドル級ボクサーからあらゆるテクニックを学び取り、やがては師匠を凌ぐボクシングセンスを身に付けるに至った。このミドル級ボクサーこそ誰であろう、いまだ不敗を誇る世界ミドル級チャンピオン、“ノンパレル(比類なき)”ジャック・デンプシーであった。
十九歳でプロに転向したコーベットだが、この時代の西海岸はプライズファイトが非合法だったため中々試合が組めず、比較的地味な存在に甘んじていた。そんな彼にとって初めてともいえるビッグファイトの機会が巡ってきた。一八八九年五月三十日にカリフォルニア州フェアファックス近郊の森で行われたジョー・チョインスキー戦である。
西海岸で並ぶ者はないといわれた地元の人気ボクサー、チョインスキーは、強打者でありながらコーベット同様にクレバーなボクシングをする難敵であった。
最初の試合は官憲の介入によって四ラウンドで中止となったが、六日後に主催者側が探しあてたカルキネス海峡近くに停泊する艀の上での再試合では、二十七ラウンド目に鼻血で息を詰まらせたチョインスキーがギブアップした。
この勝利によってヘビー級の強豪の一人と目されるようになったコーベットは、翌年二月十八日、国民的英雄ジョン・L・サリヴァンと七十五ラウンドにも及ぶ歴史的ベアナックルファイト(一八八九年七月)を演じたジェイク・キルレインを判定で下し、いよいよ“世界”の声がかかるようになった。
全米のボクシングファンたちの間でサリヴァン対コーベット戦の気運が高まる一方で、世界チャンピオンのサリヴァンはといえば、酒と女に取り巻かれ莫大なファイトマネーを湯水のように使い続ける享楽的な生活に浸りきっており、とてもリングに立てる状況ではなかった。
アメリカ中どこへ行っても「ボストン・ストロングボーイ」と親しまれ今や社交界でも花形となったサリヴァンのこと、ちょっとした顔見せ興行程度でもドルの束が懐に転がり込んでくるのだから、ハードなトレーニングを続けながら骨身を削る凄惨な殴り合いを演じているより今の生活の方が楽に決まっている。
何とか理由をつけてコーベットとの対戦を先送りにしたいサリヴァンは、折しも自らの持つ世界ヘビー級タイトルへの挑戦状を出し続けているもう一人の強豪ピーター・ジャクソンに勝てば対戦に応じると表明。これを承諾したコーベットは一八九一年五月二十一日、事実上の世界ヘビー級王座挑戦権を賭けてサ
ンフランシスコのアスレチッククラブでピーター・ジャクソンとグラブを交わすことになった。
「ブラックプリンス」の異名を持つ十九世紀最強の黒人ボクサー、ピーター・ジャクソンはオーストラリア出身の三十一歳。
プロ入りしてから敗戦は一度だけで、以来七年間負けなしの三十七連勝を続けており、スタイリッシュなボクシングと紳士的な物腰はまさに「プリンス」と呼ばれるにふさわしく、白人のファンも多かった。
サリヴァンをはじめとする白人ボクサーがこぞって対戦を拒んでいたことから、専門家の中にはサリヴァンよりも強いと見なす声も少なくなかったが、人種差別が平然とまかり通っている時代のこと、チャンピオンが「俺は黒人とはやらない」と言ってしまえばそれが正当な理由と見なされたところにジャクソンの悲劇があった。
そういう意味では全盛期にあるジャクソンとの対決を快く承諾したコーベットの勇気は賞賛に値するといっていいかもしれない。
この時代のヘビー級ボクサーにしては敏捷でクレバーなボクシングスタイルを持つコーベットをもってしても、ジャクソンの牙城を崩すことは出来なかった。ジャクソンの強打と技巧は明らかにコーベットを上回るもので、コーベットはKOを免れるのがやっとであった。
試合は延々と六十一ラウンドも続いたあげく引き分けに終わったが、観客の誰しもがジャクソンの勝利を支持する内容だったらしい。
一説によると、ここでコーベットを派手にやりこめてしまうとチャンピオンから逃げられることを危惧したジャクソンが手加減したとも言われているが、この試合の報奨金は勝者が一万ドル、敗者が千五百ドル(引き分けの場合は両者ともに二千五百ドル)という世界タイトルマッチ並みの破格の条件であったことを考えると、一万ドルの財産があれば大金持ちだった時代に、果たして貧しい黒人ボクサーが金よりチャンスを選んだかどうかは想像の域を出ない。
そもそも白人のボクシングファンの多くがサリヴァン対ジャクソン戦を望んでおらず、実現の可能性は極めて低かったからだ。
それはともかくとして、ジャクソンとの引き分け試合がサリヴァンの重い腰をあげさせるきっかけとなったことは確かである。
実はサリヴァンとコーベットはそれから一年後に行われる歴史的な世界タイトルマッチ以前にすでにグローブを交えていた。ジャクソン戦から間もない六月四日、サンフランシスコのグランドオペラハウスで催された四ラウンドのエキジビションマッチこそが両者にとっての本当の初顔合わせであった。
ジャクソン戦での善戦によって「コーベットはサリヴァンに勝てるのではないか」という声もちらほら聞かれるようになっただけに、当初はエキジビションさえ気乗りがしなかったサリヴァンだったが、報酬が入場料の五十パーセントと好条件を示されては気持ちが揺らいだのも当然であろう。
なにしろオペラハウスが満員ともなれば入場料収入だけで一万ドルは下らない。放蕩生活でそろそろ懐が寂しくなっていたこともあって、渋々リングに上がることを承諾した。
新旧のスター対決に寄せるファンの期待が大きかったわりに試合そのものは盛り上がりを欠き、高い入場料を払って詰めかけた観客を大いに失望させる結果となった。ビア樽のように肥満したサリヴァンがたちまち息が上がってパンチが出なくなったにもかかわらず、コーベットもフェイントとフットワークだけで思い切った攻めを見せなかったからである。
それでも不評をかったコーベットの消極策がビッグマッチの実現を促したことを考えれば、凡戦でかえってよかったのかもしれない。なぜなら、サリヴァンはこの試合によって「コーベットなど恐れるに足りず」と過信し、タイトルマッチを承諾したからである。
片やコーベットの方はといえば、様々なフェイントを使ってサリヴァンの反応を見ているうちに手の内をすっかり読み切り、勝利への自信を深めていた。
一八九二年七月九日、ニューオリンズのオリンピッククラブで行われたサリヴァン対コーベット戦こそボクシング史上初のグローブを付けた世界ヘビー級タイトルマッチである。
万雷の拍手に迎えられリングに颯爽と現れたサリヴァンは、さすが年季の入ったチャンピオンらしく威風堂々としていたものの、不摂生のせいか体重は一〇〇キロを超え、まるでプロレスラーのような恰幅である。それに比べると一八五センチ八〇キロのコーベットはいかにも華奢で頼りなさ気だが、よほど自信があるのか、不適な笑みさえ浮かべていた。
試合はジャブとフットワークを主体としたコーベットのアウトボクシングにサリヴァンが全くついてゆけず、いたずらに大振りを繰り返してはスタミナを消耗するという悪循環が続いた。
コーベットは試合前からサリヴァンを茶化すような態度を取り続けており、試合中も「もう2~3回は持たせてくれよ」と小馬鹿にするなど、試合マナーは最低だった。それでもこれはサリヴァンをかっかさせる作戦の一つで、ムキになってパンチを振り回していた王者は、十ラウンドを越えてからは明らかに手数が減ってきた。
コーベットは飛び跳ねるようなフットワークでサリヴァンを翻弄していたが、重心は常に後方にあるため、ジャブもカウンターの右もほとんど手打ちで一撃必倒の威力はない。一方的にパンチを浴びて鼻からも口元からも出血しているサリヴァンが二十ラウンドを迎えてもダウンもせず立っていられたのは、倒しにゆくために至近距離に入った際のリスクを考慮したコーベットの消極作戦のおかげといえるかもしれない。
体力を温存していたコーベットが勝負に出たのは、二十ラウンドからである。
疲労困憊のサリヴァンはコーベットの連打を浴び続け、ついに二十一ラウンド一分三十秒、右フックからの返しの左アッパーでとどめを刺された。
念願のチャンピオンベルトを手に入れたコーベットだったが、その科学的なボクシングが評価されたのは後年のことである。実の父親でさえ「偉大なるジョン・Lをあんな目に遭わせるなんて」と大変なおかんむりだったように、当時は卑怯な戦法で国民的ヒーローからタイトルを奪った策士と見なされ、不人気であった。
そんな世評のせいもあってか、コーベットはなかなか防衛戦のリングに上がろうとせず、宿敵ピーター・ジャクソンとの再戦にも応じなかった。
失意のピーターは一時期リングを遠ざかった後、売り出し中の新鋭ジム・ジェフリーズ(後の世界ヘビー級チャンピオン)にチャレンジするもKO負けに退き、ここに長年の野望は断たれた。故郷オーストラリアに帰ったピーターは貧困の中で肺を患い、四十歳という短い生涯を閉じたが、晩年のコーベットが残した「最も偉大なヘビー級ボクサーは、ピーター・ジャクソンである」という言葉は、不遇の強豪へのせめてもの手向けになったことだろう。
コーベットは、世界チャンピオンという知名度とその都会的なルックスを見込まれて出演した舞台劇「ジェントルマン・ジャック」のヒットに気を良くし、しばらくはどちらが本業なのかわからないような生活を続けていたが、往年のサリヴァンからダウンを奪ったこともある英国チャンピオン、チャーリー・ミッチェルからの再三の挑発に激怒し、一八九四年一月二十五日、タイトルを賭けて戦うことを承諾した。
ところがこのタイトルマッチの開催をめぐって軍隊を動員するほどの大騒動が起こった。最初の開催予定地であるジョージア州ウェイクロスではプライズファイトが非合法だったうえ、野蛮なスポーツとしてボクシングを嫌悪するウィリアム・ノーゼン知事がこの興行を阻止すべく、州境に州兵を配置して検問まで設けたのである。
ジョージア州に入ってくる列車にはウェイクロス銃隊と騎兵隊を乗り込ませ、各地の保安官にも厳重な警戒を呼びかけるほどの物々しさに、フロリダ州ジャクソンビルで待機中のコーベットとミッチェルの一行はついに越境を断念した。
現在の我々の目から見ると、法律の網をくぐってまで非合法な地域での興行を計画すること自体ナンセンスのように感じるが、この時代のボクシングは賭けの対象でもあったため大金が動く。例えて言うなら秘密裡に賭場を開帳するようなものだから、プロモーター側の心情としてはそれなりのリスクがあっても上客が集まる地域で開催したいのが当然で、そう簡単に開催地を変更するわけにもいかなかったのだ。
ちなみにコーベット対ミッチェル戦は両者ともにファイトマネー五千ドルが保証されたうえ、勝者には賞金二万ドルが進呈されるという破格の条件だった。このことからも影で莫大な賭け金が動いていたであろうことは容易に想像がつく。
ただしこの時のような戦時体制並みの厳重な警戒では、そう簡単に官憲の裏を書くというわけにはいかず、やむなくジャクソンビルでの興行と相成った。
肝心の試合はあっけないものだった。王者の平常心を乱そうとゴングが鳴る直前まで罵声を浴びせかけていたミッチェルが、いつになくエキサイトしたコーベットのラフファイトの前に一方的に打ちのめされ、三ラウンドでKOされてしまったのである。
得意のジャブやフットワークを使わなくとも、身長で十センチも優るヘビー級のパンチは、ベストウエイトがミドル級のミッチェルには荷が重すぎた。
この試合から間もなくして、コーベットはミッチェルの故国イギリスで「ジェントルマン・ジャッ
ク」の舞台巡業を行ったところ、これが大盛況で各界の名士からも賞賛を浴びた。
抜群の知名度とボクサーらしからぬ優男ぶりの恩恵もあって、ショービジネスの世界でも十分やってゆけることを確信したのか、コーベットはその後二年余りも防衛戦を行わず、映画用の非公式試合でお茶を濁したに過ぎない。
映画といってもトーマス・エジソンが発明したキネトスコープは今日のようなシアターで観覧するタイプのものでなく、カフェに設置されたボックス状の映写機に十セント硬貨を投入し、双眼鏡のような穴から覗くと、中でフィルムが回り始めるといった子供向けのおもちゃのようなシロモノだったが、珍しさも手伝って一八九四年にブロードウェイでキネトスコープ・パーラーがオープンすると、連日大勢の客が詰めかけた。
コーベットが中堅どころのボクサー、ピーター・コートニー相手に演じたボクシング映画(一八九四年九月七日公開)は所詮は演技だったが、キネトスコープの人気がヒントとなり、コーベットとその取り巻きは、後年世界タイトルの防衛戦の実写フィルムの上映で一儲けしようと目論み、ボクシングの実写映画のビジネス化の先駆となるのである。
世紀のビッグイベントだったサリヴァン戦は公式な写真撮影さえされておらず、サリヴァンのボクシングスタイルはイラストと試合記事から推測するほかはないが、コーベットは商売目的とはいえ、試合のフィルムやスチール写真を数多く残してくれているおかげで、ヘビー級のフットワーク革命と言われた彼の試合スタイルを今日の我々もビジュアルで確認できるのは有難いことである。
直接試合を観ることが出来なかった人たちも、後にフィルム観戦させることで二重に金を稼ごうとするとは、さすがコーベットは銀行員あがりらしく儲け話には目ざといが、これをビジネスとして成り立たせたことで撮影された数多くの記録映像は、ボクシング界にとっては貴重な歴史遺産である。
すでにショービジネスの世界に気持ちが傾倒してしまったコーベットは、もはや防衛戦を行うのが煩わしくなり、自らの後継者にスティーブ・オドンネルというオーストラリア出身のボクサーを指名し、突然の引退を表明した。
ところがこれに納得ゆかないのが、コーベットに挑戦状を出しながらこれを黙殺されてきた連中である。それもそのはず、オドンネルはかのピーター・ジャクソンと四度対戦(一判定負け・三無判定)したことがあるとはいえ米国では無名に近い。その程度のボクサーが戦わずして世界チャンピオンに認定されるなど、当然受け入れられるわけもなく、「タイトルは戦って勝ち取るべきである」という声がファンの間でも高まっていった。
コーベットはやむなく自らが最も危険な挑戦者と目し対戦を拒み続けてきたピーター・メイハーとオドンネルの間で世界タイトル決定戦を行うことを承諾した。
かくしてメイハーはオドンネルを一ラウンドで沈め、コーベットに赤っ恥をかかせたのだが、話はこれで終わらなかった。なんと誇り高きメイハーは、コーベットに勝ってから世界チャンピオンを名乗りたいとして王者認定を拒んだのである。
そのうえ大見得を切って認定王者を拒んだメイハーが、現役の世界ミドル級チャンピオン、ボブ・フィッシモンズに一ラウンド九十五秒で簡単に片付けられてしまい、また話はややこしくなった。
このままフィッシモンズと決着をつけないまま引退すれば、世間からは逃げたと見なされることは間違いない。世界最強を自負するヘビー級チャンピオンとしては、このまま引き下がってはいられなくなった。しかもフィッシモンズは親友デンプシーからKOでミドル級王座を奪った男でもあるのだ。
時に一八九七年三月十七日、ネバダ州カーソンシティの屋外特設リンクで久々の世界ヘビー級タイトルマッチが幕を開けた。
挑戦者のフィッシモンズは「ルビー」の綽名で呼ばれるとおり全身に斑点のような赤い痣があったうえ、下半身が華奢なわりに背筋が異様に発達したいびつな体型をしていたせいか、全く人気のない世界チャンピオンであった。
ボクサーとして駆け出しの頃は容貌魁偉な彼にはほとんど声がかからず、サーカスで糊口を凌ぐのが精一杯だったが、その痩身からは想像がつかないほどの強打を秘めていた。加えて左右をシフトさせて打つトリッキーなブローは、当時としては斬新で、ヘビー級のメイハーがのされたのもこのパンチによるものだ。
久々の試合とはいえ、コーベットのジャブとフットワークはさすがに第一人者の貫禄か、序盤は全く挑戦者を寄せ付けず、勝利は時間の問題と思われた。
六ラウンドには鼻血まみれの挑戦者が王者の猛攻にたまらずダウンを喫したが、苦し紛れにコーベットの右足にもたれかかったため、レフェリーはこれを引き離すのに時間を取られてしまい、カウントを取るのが遅れてしまう。
もし、ダウン直後からカウントが始まっていたら試合はここで終了していただろう。少なくとも十五秒間フィッシモンズの膝はキャンバスに触れたままだったのだから。
ロングカウントで命拾いしたフィッシモンズはその後立ち直り、試合は膠着状態に入った。そして運命の十四ラウンド、シフトした瞬間に放ったフィッシモンズの右ストレートを鳩尾に喰らったコーベットはうずくまるようにダウン。
一旦は立ち上がろうとしたものの再び膝から崩れ落ちキャンバスに横転した。このフィニッシュブローこそ、後にフィッシモンズの代名詞ともなった「ソーラープレクサスブロー(鳩尾打ち)」であった。
逆転負けとはいえ、自身初のKO敗を機に本格的に役者への道を歩み始めると思われたコーベットだったが、いざ無冠になってしまうと未練が出てきたのか、再びトレーニングに精を出し始め、一九〇〇年五月には世界タイトルへの挑戦にまでこぎつける。
時の世界ヘビー級チャンピオンは「ボイラーメーカー」ことジェームズ・J・ジェフリーズである。前年、二冠王フィッシモンズをKOしてタイトルを奪った若き強打者に対し、コーベットは徹底したヒット・アンド・アウェイ戦法でそのハンマーのようなスイングを空転させ続けた。
この日のコーベットは全盛期を彷彿とさせるスピードとテクニックで鈍重なジェフリーズを翻弄し、二十二ラウンドまではまさにサリヴァン戦の再現といっていいほどの完璧な試合運びであった。
ところが、圧倒的有利で迎えた二十三ラウンド、クロスレンジからのジェフリーズの右ショートがコーベットの顎を捉えると、元王者は立ち上がることが出来ずそのままカウントアウト。コーベットはまたしてもたった一発に泣いたのである。
それでも予想外の善戦が認められ、二年後に両者の再戦が実現した。しかしすでに三十六歳のコーベットに往年のキレはなく、十ラウンドにまるでフィッシモンズ戦の再現を見ているかのようなジェフリーズの右スイングを鳩尾に喰らってついにダウン。ここはなんとか立ち上がるも、ここぞとばかり襲いかかるジェフリーズの猛打から逃れることができず、二度目のダウンを喫したところで、セコンドについていたトミー・ライアンがレフェリーに合図を送り、TKO負けが宣せられた。
ようやくリングに見切りをつけたコーベットは、引き続き舞台や映画に出演するかたわら、ボクシングのビッグイベントにはゲストとして登場するなど、引退してもなお話題の人であり続けた。
イベントの極みつけは、一九二四年に後の世界ヘビー級チャンピオン、ジーン・タニーとの親善スパーリングだろう。コーベットの科学的ボクシングを賞賛していたタニーは、六十歳近くになってもなお現役世界ランカーとのスパーリングに応じられるコーベットに驚愕したという。
コーベットは今日では常識となっている基礎トレーニングメニューの考案者であり、同時代ではそのようなルーティーンワークを毎日続けていたただ一人のボクサーとして知られるが、ファンサービスとはいえ将来の世界ヘビー級チャンピオンとスパーリングをするのはさすがに常軌を逸している。
それでもそういうことをさらりとやってのけるところに、連続活劇映画の中の虚構のヒーローと元世界ヘビー級チャンピオンという現実社会のヒーロー像を併せ持ったコーベットのプライドを感じる。
一九三三年、六十六歳で肝臓癌で亡くなるまでコーベットの存在は風化することなく、リアルタイムのヒーローであり続けた。現役時代の華やかさから一転、引退後は尾羽打ち枯らす元チャンピオンも少な
くない中、晩年までこれほど優雅な人生を送ったボクサーは稀有であろう。
生涯戦績 十一勝四敗(七KO)二分
コーベットのフットワーク主体のボクシングは、現代のボクシングを見慣れた我々には稚拙で単調な動きに見えてしまうが、19世紀の終わりごろはボクサーからプロレスラーまで片っ端からぶちのめしていた”世界最強の男”サリヴァンをノックアウトしたくらいだから、当時のコーベット級のテクニックがあれば現代の
素人の喧嘩自慢相手なら楽勝なのだろうか。ぜひ現役の重量級ボクサーに伺ってみたい。




