第五話 智者(ちしゃ)の灯火と無名の民の笑顔
生辰綱の奪取から三日後。東渓村の屋敷に運び込まれた大量の財宝は、もはや腐敗した朝廷のものではなく、新しい「義」の糧となっていました。
集められた財は、貧しい村人たちへ惜しみなく分け与えられました。長年、重い税と飢えに苦しんでいた人々の間に、喜びのざわめきと、深い安堵の表情が広がります。
遥は、その光景を静かに見つめました。歴史書には記されることのない、無名の民の、心からの笑顔。彼らが奪った財宝は、彼らにとっては命そのものだったのです。
「青龍。お前の予言通り、誰も傷つけることなく、我らは大義を果たした」晁蓋は深く感動した様子で遥に語りかけました。「だが、この財を分け与えただけでは、すぐにまた官憲が来るだろう。次に我々は何をすべきか」
宋江と呉用も、期待の眼差しで遥を見つめます。生辰綱の奪取は、彼らの義の心を確固たるものにしましたが、同時に、彼らを追う官軍は今後、さらに強力になるはずでした。
遥は、彼らの質問に答える前に、一つの提案をしました。
「財は、人を集める力となります。しかし、それだけでは足りません。我々には、この義を永続させるための『速度』と『教育』が必要です」
遥は静かに語り始めました。
「この時代、情報を伝える手段は遅すぎます。伝令の足、手書きの書状。すべてが遅く、容易に遮断されます。もし、梁山泊に好漢たちが集まったとして、彼らの動きを瞬時に結びつけ、遠くの民の苦境を知るためには、通信技術が不可欠です」
彼は持っていた筆で、紙に数種類の図形を素早く描き出しました。これは、現代の旗信号や、簡単なモールス信号の概念を、この時代の道具で再現するための簡易的な符号です。
「これを『飛信の法』と呼びましょう。山頂などに台を設け、旗や灯火の上げ下げで、遠く離れた場所へ瞬時に情報を伝えることができます。官軍には絶対に真似できない、我々だけの情報網となります」
晁蓋と宋江は目を見張りました。軍事において、情報伝達の速度が、勝敗を分けることを彼らは知っているからです。
さらに遥は、もう一つの「チート」を披露しました。
「もう一つ、民の心を変えるために必要なのは、知識の普及です。識字率が低ければ、我々の思想も、衛生に関する教えも、広がりません」
彼は、東渓村にある小さな木版を使い、文字を一つずつ組み合わせて印刷できる、ごく原始的な簡易活版の雛形を、すぐに作り上げました。
「これがあれば、一度に何百枚もの紙に、我々の思想、安全な飲み水の作り方、疫病の予防法といった『生かすための知恵』を、瞬く間に印刷し、村々へ配ることができます。これが、血を流さずに民を救う、我々だけの武器となるのです」
呉用は、震える手でその活版の雛形を手に取りました。彼は智者として、この技術の持つ革命的な意味を、瞬時に理解しました。
「なんと…なんと恐ろしい智恵か」呉用は息を呑みました。「これは単なる印刷ではない。情報を独占する朝廷の権威を、根底から覆す、まさに天の技だ」
遥は微笑みました。彼のチートは、最新の兵器ではありません。それは、人々を救い、心をつなぎ、未来の悲劇を回避するために最適化された、歴史教師の知識そのものだったのです。
「この『飛信の法』と『簡易活版』で、我々は強固な『義のネットワーク』を築きます。それは、金国の侵攻にも耐えうる、真に民のための組織となるでしょう。晁蓋殿、宋江殿。いよいよ梁山泊の旗揚げの準備が整いました」
三人の好漢は、遥の知恵と、その根底にある熱い義の心に、深い感銘を受け、立ち上がりました。
彼らは、ただの盗賊団ではない。未来の知識を武器に、歴史の悲劇を回避し、民の世を創ろうとする、新しい時代の義賊として、その第一歩を力強く踏み出したのです。
語り手 呉用
わしは、青龍の持つ未来の知識を、単なる計略の道具として見ていたかもしれぬ。だが、今日の出来事は、わしの考えを完全に改めさせた。
彼が教えた『飛信の法』は、数百里離れた兄弟たちの心を一つに結びつける。そして、『簡易活版』は、文字を読めぬ民に、衛生や正しい知識を伝え、彼らの命を救う。
これは、わしらがこれまで考えていた、酒を飲み、肉を食い、刀を振り回すだけの「義」とは次元が違う。腐敗した朝廷が知識を独占し、民を愚かだと見下しているのに対し、青龍は、民に知恵と力を与えることこそが真の義であると示してくれたのだ。
この智恵こそが、晁蓋殿を死なせ、宋江殿を悲劇に導いた、歴史の闇を打ち破る光となるだろう。
わしは今、確信している。我々は、ただの歴史の再現者ではない。我々は、未来を創る者なのだ。
次回、いよいよ梁山泊に最初の好漢たちが集結する。




