第四話 涙の催眠と青石灘の夜明け
東渓村の静寂が破られたのは、夜明け前でした。
晁蓋、呉用、そして彼らの信頼する村の仲間たち—劉唐、阮三兄弟—は、緊張と熱意に満ちた面持ちで、青石灘の脇の茂みに身を潜めていました。
青龍こと一条遥は、現代の知識で作った簡易な紙の包みを手に、静かに息を潜めていました。その包みの中には、現代の睡眠薬の知識を基に、この時代で手に入る薬草を調合し、乾燥させた「催眠粉」が入っています。
「流血は避けられる。皆の命が、このひと包みにかかっている」
遥は胸中で繰り返しました。歴史の教師として、彼は常に好漢たちの武勇だけでなく、その根底にあった、弱き者への深い慈愛を感じていました。この作戦の成功は、蔡京という腐敗した大官に奪われるはずだった富を、貧しい人々に戻す第一歩なのです。
午前四時。遠くから、重い荷を運ぶ一行の足音と、御者たちの疲れた咳が聞こえてきました。史実通り、楊志に率いられた生辰綱の護衛団です。彼らは過酷な旅路に疲れ果て、青石灘の清らかな湧き水に引き寄せられるように、隊列を止めました。
「呉用殿、今です」遥は小声で指示を出しました。
呉用の合図で、変装した村の仲間たちが、素早く護衛団の休憩地に近づきます。彼らは用意していた竹筒に入れた「粉」を、護衛団が水筒を満たす直前、そして携帯食料を広げた瞬間に、素早く散布しました。風向きは完璧でした。
楊志は用心深く、水筒の水を警戒していましたが、激しい旅の疲れと、微かに漂う甘い香りに意識が鈍ります。護衛団全員が、水筒を口にし、食料を喉に流し込んだとき、作戦は静かに成功を迎えました。
約一刻(約二時間)後。夜明けの光が青石灘を照らし始めた頃、呉用と遥は、深く眠り込んだ護衛団の様子を確認しました。彼らは苦しむ様子もなく、ただ疲労困憊したように、深く安らかな眠りについていました。誰も傷ついていない。
この無血の成功に、劉唐は目に涙を浮かべました。
「血を一滴も流さず、義を果たした。こんなやり方、見たことも聞いたこともない」
晁蓋は、眠る楊志の顔を見下ろし、静かに言いました。「青龍。お前が教えてくれた『義』は、人を傷つけない強さだ。これは、血で血を洗う戦の時代を変える、希望の夜明けだ」
彼はそっと、楊志の腰から差していた刀を鞘ごと抜き、地面に置きました。これは、彼らの命を奪うつもりがない、という明確な意思表示でした。
遥は、その光景を見て、込み上げる熱いものを感じました。現代で彼が歴史の授業を通じて伝えたかった「義」の理想。それは、この時代で、この男たちによって、今、現実のものとなったのです。
「晁蓋殿。楊志は、腐敗した朝廷に仕えるしかなかった、不運な武人です。我々は、彼の未来をも救うことになるでしょう」
生辰綱の財宝は、静かに馬車から降ろされ、東渓村へと運び出されました。それは、この宋という国を覆う闇から、義の光を取り戻すための、最初にして最も美しい一歩でした。彼らの行動は、歴史上の記録では「強盗」となるかもしれませんが、遥の心の中では、それは未来を変える「革命の始まり」に他なりませんでした。
語り手 劉唐
俺は劉唐。これまで、義のためなら血を流すことも厭わない、荒くれ者の一人として生きてきた。今回の生辰綱奪取も、激しい斬り合いを覚悟していた。
だが、青龍のやり方は、まったく違った。戦わずして勝つ。人を傷つけず、義を貫く。あの光景は忘れられない。敵の顔を見ることなく、ただ眠らせる。そして、晁蓋様が楊志の刀をそっと抜いてやったあの優しさ。
俺たちの義は、力で押さえつけるものではない。人を生かす、穏やかなものなのだと、改めて教えられた。俺たちの心は、熱い炎で燃えているが、その炎は、人を焼くためではなく、凍える民を温めるためのものだと知った。
この青龍という若者は、本当に天が遣わした智者なのかもしれない。俺たちは、もう後戻りしない。晁蓋様と共に、この新しい義の道を進んでいく。
次回、奪った財の使い道、そして我らの次の行動が決まる。




