第三話 東渓村の静かなる策謀
青龍こと一条遥は、鄆城からさらに東にある東渓村にいました。そこは晁蓋の屋敷であり、彼らの義の心が根付く場所です。静かな竹林に囲まれた屋敷の一室で、遥は晁蓋、そして知恵者として名高い呉用と向かい合っていました。
呉用は、学者然とした顔つきですが、その眼差しは鋭く、底知れない知性を秘めていました。彼は遥の素性と、宋江から聞かされた「未来の史実」について、懐疑的でありながらも、真剣に聞く姿勢を見せていました。
「なるほど。若者よ。あなたは、我らが都の宰相、蔡京への賄賂を奪う『生辰綱』の計画が、後に官憲の追及を招き、我々を危地に陥れることを知っていると」呉用は静かに問いかけました。
「はい。史実では、その計画はあまりに急進的で、不必要な血を流すことになります」遥は落ち着いた声で答えます。「私は、この義挙を、より安全に、より確実に行う方法を提案したいのです。それは、未来の知識があればこそ可能なことです」
遥は懐から、現代の大学ノートを破った紙を取り出しました。そこに描かれているのは、当時の輸送ルートと、休憩地点の簡易な地図です。彼は歴史教師として、当時の街道や物資輸送の記録を詳細に学んでいました。
「史実では、黄泥岡での襲撃でした。しかし、あそこは目撃者が多く、また、賄賂を運ぶ楊志という男は非常に用心深い」遥は柔らかな口調で説明を続けます。「より確実なのは、そこから二里(約八キロメートル)手前の、青石灘です」
晁蓋と呉用は、地図を覗き込み、顔を見合わせました。
「青石灘か。あの辺りは人通りも少なく、一族の者が住む集落もない。確かに、襲撃場所としては黄泥岡よりも安全かもしれぬ」晁蓋が深く頷きました。
遥はさらに提案しました。「奪取の際も、正面からの衝突は避けましょう。彼らは武装しています。歴史の悲劇を避けるためには、無駄な流血はすべきではありません」
彼は、黄泥岡で使われる予定だった、酒に眠り薬を混ぜるという策をさらに精密にすることを提案しました。
「眠り薬は、未来では『催眠薬』という形で、より効果的に作用するものが知られています。それを、彼らが使う水筒や携帯食料に、自然な形で混ぜ込むのです。彼らを深い眠りにつかせ、無傷で物資だけを回収する。それが、最も『義』に適うやり方です」
呉用の表情が徐々に変わっていきます。彼は策謀の天才ですが、遥の持つ情報量と、細部にわたる冷静な分析には、静かな感銘を受けていました。
「その『催眠薬』とやらが、本当に彼らを無傷で眠らせることができるならば。そして、その輸送ルートが真実であるならば…」呉用は慎重に言いました。「我々は、不当な財を奪うにあたり、不必要な罪を犯さずに済む」
「私の目的は、晁蓋殿を頭領とする梁山泊の旗揚げを、誰も犠牲にすることなく成功させることです」遥はまっすぐな眼差しで二人を見ました。「そして、その後の悲劇を回避するために、いち早く強固な義の組織を築くことです」
遥の言葉には、力強い決意が込められていましたが、それは決して荒々しいものではなく、未来の教訓を知る者としての、穏やかな責任感からくるものでした。
晁蓋は、深く静かに息を吸い込みました。
「青龍よ。お前の知識が、わしの心に一つの道を照らした。わしは自分の運命さえも変える覚悟だ。呉用、この青龍の策を採用する。我らは、静かに、だが揺るぎなく、この腐った宋という国に、義の旗を立てるのだ」
呉用は扇を静かに閉じ、一礼しました。
「畏まりました。未来の史実が示唆する青石灘、そして無血での奪取。歴史を変えるための、最初の一歩を踏み出しましょう」
静かな決意が、竹林に囲まれた東渓村の夜に満ちていました。歴史が大きくその流れを変える瞬間は、驚くほど穏やかな雰囲気の中で、確かに始まろうとしていたのです。
語り手 呉用
わしは呉用。智多星と称し、計略には自信を持っていた。だが、青龍という若者に出会い、わしの知識の根底が静かに揺さぶられた。
彼は、わしらがこれから行う大計画の結末を、すべて知っていた。それは、わしらが思いもよらぬ、悲劇的な未来だった。わしの策は、武勇に頼りすぎていた。彼が示した「無血での奪取」という道は、血を流さずとも大義を果たせる、最も美しい形だ。
青龍の語る未来の知識は、まるで天から降り注ぐ光のように、すべての盲点を照らす。彼が我々にもたらしたのは、単なる情報ではない。それは、これから始まる義の戦いを、「力でねじ伏せる戦」から「知恵と心で動かす戦」へと変える、根本的な思想だった。
晁蓋殿の決意は固い。宋江殿もまた、深く心を動かされている。わしは、この二人の偉大な友と共に、青龍の知識を使い、歴史の悲劇を回避する静かなる策謀を進めていく。
次回、いよいよ運命を変える「生辰綱奪取」が始まります。




