第一話 遠雷と路地裏の転移者
一条遥は歴史を教えることに疲弊していた。
放課後の職員室。教科書と歴史資料の山に囲まれ、遥は生徒たちのテストの答案を採点していた。ペンを走らせる手元には、宋代末期の社会体制、そして『水滸伝』の英雄たちが活躍した背景に関する記述が並ぶ。二十五歳の高校教師。遥にとって、歴史とはただの過去ではなく、現代社会が失ってしまった「義」や「絆」の理想形が詰まった宝庫だった。
「どうして皆、忠義や義侠心を、古臭い、非現実的なものとして扱うのだろう」
遥は溜息をついた。今日行った授業で、生徒たちは宋江がなぜ朝廷に帰順したのかという問いに対し、「時代遅れの忠誠心」という答えを多く書いていた。遥は、彼らが辿る悲劇的な結末を知っているからこそ、その「義」の真髄を伝えたかったのだ。
彼はオフィスビルから離れた、自宅近くの静かな公園のベンチに座り込んだ。上空は厚い雲に覆われ、不穏な空気が漂っている。今夜は、遥が最も愛する『水滸伝』の、好漢たちが集結する場面を読み返そうと思っていた。
その時、遥の頭上で空気が割れるような轟音が響いた。雷だ。
しかし、それはただの雷ではなかった。落雷が遥から数メートル先の地面を打ち、閃光が視界を白く染め上げた瞬間、遥の身体は激しい電気ショックと、胃の底から湧き上がるような浮遊感に襲われた。
「なんだ、これ」
意識を失う直前、遥は強烈な土と木の匂いを感じた。それは、アスファルトと排気ガスに満ちた現代の東京では決して嗅ぐことのない、生々しい大地の匂いだった。
遥が次に目覚めたとき、彼の身体は固い板の上に横たわっていた。頭上は、煤けた木材と藁葺きの屋根。簡素な小屋の中だ。
「目が覚めたか」
声に驚き、遥は跳ね起きた。目の前には、四十がらみの男が座っている。上背があり、がっしりとした体躯。顔には日焼けの跡と、年季の入った苦労が刻まれている。身につけているのは、綿の粗末な衣。
「ここはどこですか。俺は、どうしてここに」遥は混乱の中で尋ねた。
「お前は路地裏で倒れていたのだ。ひどい雷鳴の後のことだ」男は落ち着いた声で答えた。「ここは山東の済州、鄆城の郊外。わしは宋江、鄆城の小役人をしている」
宋江。
遥の脳裏に、一つの名前が稲妻のように走った。
「宋江殿...」遥は思わず口に出した。
宋江は訝しげに眉をひそめた。「なぜわしの名を知っている。お前は見慣れない服を着ている。旅の者か」
遥は全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。
自分の服装を見る。着慣れたジャケットとチノパン。手首にはデジタルウォッチ。スマートフォンはポケットの中でかろうじて無事だった。
ここが鄆城。この目の前の男が、後に義の旗を掲げる宋江。
遥は理解した。自分はタイムリープしたのだ。しかも、歴史の分岐点となる、物語が始まる数年前の宋代末期に。
「俺は...」遥は絞り出すように言った。「遠い異国で、あなたの国の歴史を研究していた者です。私の名は...青龍」
宋江は腕を組み、遥の言葉を疑うように見つめた。
遥の頭の中は、今こそ活かされるべき膨大な歴史知識で満ちていた。
「宋江殿」遥は宋江の目を見て、まっすぐ言った。「この国の腐敗は、やがて来る大乱を招きます。私は、この時代の軍事、政治、そして宋という王朝がたどるすべての悲劇を知っています。あなた方の知恵と、私の持つ『未来の史実』があれば、歴史を変えることができる」
宋江は何も答えなかった。ただ、じっと遥の目を見つめていた。その瞳の奥には、遥の言葉が灯した小さな火花のような、わずかな動揺と、真実を探る探求心が揺らめいていた。
この世界に来た意味は、これしかない。
悲劇を回避し、好漢たちを救う。民の世を創る。
遥は覚悟を決めた。「私を、あなたの傍に置いていただけませんか。あなたの義を、この青龍の『史実』と『戦略』で支えたい」
語り手 宋江
まさか、あの路地裏で倒れていた異国の若者が、このような壮大な物語の始まりになるとは。
彼の名は青龍。遠い異国で宋の歴史を研究していたと彼は言う。その服装は奇妙だが、彼から出る言葉は、ただの旅人のものではない。彼は、朝廷の官僚たちが隠し通そうとしている政治の闇を、細部に至るまで知っている。そして、軍の兵站、兵士の士気、民の不満が、いつ、どこで爆発するのかという時機までも、まるで見てきたかのように語る。
彼はわしに、やがて一百八人の英雄たちが朝廷に利用され、無駄に死んでいくという未来の「史実」を告げた。信じがたいことだが、彼が語るこの国の現状の分析は、わしが肌で感じていた不安と完全に一致する。
わしはただの小役人。だが、もしこの青龍の持つ奇妙な『史実』と『戦略』が、真に民を救う力となるならば。
わしは、彼と共に、運命をねじ曲げてみようと思う。この梁山泊に、新たな義の旗を掲げるために。
次話では、わしが最も信頼する友人、晁蓋と青龍を会わせる。そして、わしらの未来を変えるための最初の一歩を踏み出すことになるだろう。




