第四十八話「夢魔の館」
ユンファは、軽やかに振り返った。
「うちはギルド行くけど、みんなどうする?」
「怪我人を一人にするのもあれだし……寝てる二人は、そのまま置いていきましょう。えーっと」
夕焼けの窓辺でまどろんでいたピピが、ぱちりと目を開いた。
「わたしもっ」
立ち上がった瞬間、足元が揺れる。
咄嗟にその腕を掴んだ。
「ごめんなさい、眩暈が……」
「リエルさん!」
呼ぶより早く、白衣が駆けてきた。
緑光を帯びた指先が、ピピの額に触れる。
「ただのマナ切れですね。あちらで休んでいってください」
リエルは穏やかに言うと、白いベッドを示した。
俺は、ピピをそっと抱き上げた。
途端に、薄桃色の翅が光を引き、するりと背へ収まった。
しまえるんだ、これ。
「わっ。あの、一人で」
「いいから。無理するな」
彼女は俯き、俺の襟元にそっと指をかけた。
ゆっくりとベッドへと歩き──
縁へと下ろした。
「君のおかげで、本当に助かった」
ピピの頬が、ほんのり染まった。
「大したことしてないわ」
「いや……大したことだよ」
彼女がいなければ、きっとポーニャは──。
「本当にありがとう。また今度、食事でも奢らせてくれ」
「デートの誘い?」
「からかうなよ」
俺が肩をすくめると、ピピは小さく笑った。
「青春やねぇ」
ベッド脇から、黒い丸サングラスが低く覗いている。
「うちも、奢ってもろてええデスカ?」
「……もちろん。ユンファさんも、ぜひ」
「よっしゃーー!! 華丸軒のエビチリ焼き特盛! おかわり三回はするから覚悟してな! ほな行くで!」
平たい黒帽子の赤房を揺らし、ユンファはずんずんと部屋を出ていった。
「それじゃあ、またな」
「ええ。また」
ピピに短い別れを告げ、俺はユンファの後を追った。
*
ギルド残火の灯、マスタールーム。
奥には、背丈ほどある古樹の玉座。
そこには、金の長髪を流すエルフ──エリンが座していた。
俺は、調査依頼の顛末を報告した。
C級パーティが壊滅したこと。
鉱道の深くに、怪物が潜んでいたこと。
そして、ポーニャが負傷したこと。
報告が終わると、エリンは拍手した。
「よく生還しましたね!」
「ちょいちょい。うち、うちが助けたんですわ」
黒い三つ編みが左右で揺れる。
ユンファの小さな体が、主張するように跳ねた。
「百剣のカイゼル。生前の彼は、とても優秀な魔剣士でした」
「無視!?」
「はいはい。報告書、早く書いてくださいね。ユンファさん」
「つれないなぁ、ほんま」
エリンは視線を落とし、羽ペンを走らせた。
「この件については、あらためて調査班を送っておきます」
分厚い帳本が、ぱたりと閉じられる。
「報酬は毎月二十日。カードへ振り込みます。口座をご確認くださいね」
今日は、四月十二日。
入金まであと、一週間ほどか。
「わかりました」
「今日は、本当にお疲れ様でした」
「おっつー!! ほな緋色はん、約束のご飯いこかぁ~!」
立ち去ろうとした、その瞬間。
がしり。
エリンが、ユンファの肩を掴んだ。
「だめですよ。報告書、まだ終わってないでしょう?」
「そんなん、あとで書きますよって!」
「だめ。そう言って、前も逃げましたよね。今日は逃がしませんよ」
青い瞳を優しく細め、エリンは品よく笑った。
「いーやーやぁーーーー!!!!」
ユンファの絶叫が、ギルド中に響き渡った──。
俺はギルドを後にして、静かな夜の街を歩いていた。
ここは第三環、中央都市区。
上空を走る配線が群青に脈打ち、壁面には色とりどりの光の看板が、ゆっくりと明滅している。
鮮やかなネオンが石畳を濡らすように染め、街は夜の夢に沈んでいた。
細い路地を曲がると──
ちりん。
鈴の音がした。
あれは……
黒猫、ミミちゃんだ。
猫が歩く先、石段の上には──
一人の女がいた。
長い茶髪に、桃色の花が描かれた白いドレス。
サテンのように細かな白肌。
その背には、蝙蝠を思わせる薄紅の翼。
よく見れば──
頭の横に、短い茶色の角が垂れている。
月明かりの下に、美しい悪魔が咲いていた。
彼女の後ろには、大きな館。
ほの暗く赤い照明を放っており、見ているだけで気分が高揚する。
横にある桜色の花をつけた樹から、花弁が舞った。
風とともに、甘い薔薇の香りが漂う。
女が、俺を見下ろした。
「あら……」
白いドレスの長い裾が、風になびいた。
気品が、夜闇に溶けている。
「サキュバスラウンジ、“夢桜”へようこそ」
桃色の唇が薄く弧を描き、短い牙が覗いた。
「サキュバス、ラウンジ……」
「夢と欲望が詰まった、街一番の魅惑の館でしてよ。夢魔はお好き?」
夢魔。
よくは知らないが……妖艶な響きだ。
かつ、かつん。
白いヒールの音が、ゆっくりと近づいてきた。
「私は、エラと申します」
甘美な香りだ。脳髄がしびれるほどに。
「初回料金、たったの一万ゴールド」
彼女は俺の肩に手をつき、背伸びした。
愛らしい顔が迫り、ふぅ、と甘い吐息が耳を撫でる。
「サービス……しますよ♡」
ぞくりと、背筋が立った。
「私、お兄さんのお役に立てると思うの。色々と、ね……」
指が胸につう──くるり、と撫でられる。
行きたい。
いや……行かねばならない気さえする。
「さぁ。こちらへ」
手を取られ、俺は館の中へと足を踏み入れた。
ギィ。
扉を開けると──
そこは、赤い絨毯の続く回廊。
紅の垂れ幕が幾層にも揺れ、橙の灯りが柔らかく床を染めている。
道はゆるやかに曲がり、その先は、見えない。
「ようこそ夢桜へ。ダーリン」
「や、やっぱり、帰ろうかな」
俺の手は汗ばんでいた。
エラの指が、俺の指の隙間へするりと絡みつく。
「だぁめ……夜は、これから始まるのよ」
突き当たりを曲がると、現れたのは──
体を寄せ合う二人の女。
顔が、瓜二つだ。
どちらも中背、琥珀色の瞳に、赤い唇。
右は、中央で髪を分けた白金の短髪。左は、前髪を下ろしている。
側頭部には、捻れた双角。
深紅のドレスは金の刺繍を揺らし、二人でひとつの絵画のようだ。
瞬きさえ、ぴたりと重なっている。
差異はわずか。不気味なほどに、美しい。
「いらっしゃいませ」
二つの声色が、ひとつの楽器のように重なった。
微笑みも、首をかしげた角度まで揃っている。
「可愛いでしょ? 双子なのよ」
エラは、二人の頭を撫でた。
「羽は……無いんだな」
「ご指名してくだされば、お見せしますよ」
「私の客に、手を出す気?」
不機嫌そうに、エラが言った。
「……冗談ですよ」
双子は顔色を変えず、赤いカーテンの先を示した。
「中へどうぞ、旦那さま」
そこは、金の燭台が灯る華やかな廊下。
促されるまま、歩を進めた。
奥には──
黒金の扉が佇んでいた。
ドン、ドッ、ドドン。
中から、胸を叩く重低音。
扉が、ひとりでに開いていく。
次の瞬間。
熱気が肌を打った。
視界いっぱいに巨大なホール。
その中央には、炎ゆらめく漆黒の円形ステージ。
天井から吊るされたシャンデリアが、赤い光を雨のように降らせている。
その上で──
夢魔たちが、踊っていた。
胸を露わにした黒金の衣装は、レースとフリルを重ねた大胆な意匠だ。
短いスカートが、動きに合わせてひらめく。
しなやかな体に絡む装飾が、鈍く光った。
「夢桜、咲き誇り、縛る」
囁くようなウィスパーボイスが、空間を撫でる。
歌だ。
「あなたの心を、吐息を、精神を」
低く甘い旋律が、耳に絡みつく。
「今すぐ私を求めて、後戻りはできない。この愛は燃えて、燃え上がって、燃え続ける」
ステージの端では、金色のポールに絡みつく踊り子もいた。
背には赤い翼。
腰に翼がついている者もいる。
翼と角の色形は、夢魔によって違うらしい。
共通しているのは、誘うような笑みだけ。
呆然と景色を眺めていると──
「ダーリン、こっちよ」
エラが、俺の手を引いた。
導かれた先には、深く沈む赤いソファ。
そこには、三人の夢魔が腰かけていた。
まず目に飛び込んだのは、ゆるく流れた金髪と、惜しげもなく晒された白い谷間。
長いまつ毛の奥で、悪戯めいた視線が揺れた。
その隣には、白銀の髪をカールさせた、小柄な夢魔。
黒いビスチェを指先で整え、柔らかい笑みを浮かべた。
そして最後に、紫黒の短髪を揺らす、豊満な夢魔。
むちりとした脚を組み、余裕の笑みでこちらを見下ろしている。
「この子たちは、セラティス三姉妹よ。似てるでしょ?」
雰囲気はまるで違った。
だが……
顔の造形、濃紫の瞳、羊のような角、背の艶やかな翼。
造形の芯は、同じように見える。
「似てる、かなぁ。失礼します」
俺は、彼女たちの前に座った。
エラが、机に置かれた黒いメニューを開いた。
「ダーリン、飲み物はどうする?」
「……じゃあ、この、“紅魔の誘惑”ってやつで」
「はぁい。すぐ戻るから、いい子にして待っててね」
彼女は俺の頭を撫で、垂れ幕の向こうへと消えた。
紫短髪の夢魔が、目を細める。
「見ない顔ね。はじめて?」
「そうなりますね」
金髪が、左からずいっと身を乗り出した。
「お兄さん、かわいい~。あたし、ミーラ! どんな子が好き?」
「もちろん、胸が大きい女でしょ。私はルクレツィア。長女よ」
「それだと、姉さんが勝っちゃうじゃん」
「ぼ、僕は……」
白髪カールの夢魔が、おずおずと胸に触れた。
「小さいけど……形は、良いと思います……三女、セイナです」
なぜか、胸が好きな前提で話が進んでいる。
「いや。俺は、ぜんぶ良いと思います」
トンッ!
黒い丸机に、グラスが強く置かれた。
深紅の酒が、蜜のように揺らめく。
「だめよ」
エラはぴしゃりと言い放ち、俺の隣へと滑り込んだ。
「ダーリンは私の先約。そうよね?」
紫がかった桃色の瞳が、妖しく煌めいた。
細い指が、俺の手を絡め取る。
ひやりと冷たい。なのに、心地いい。
「……ああ。そう、だな」
「あーっ!」
金の長髪を弾ませ、ミーラが立ち上がった。
「ママずるい! 魔眼つかった!」
「私が連れてきたんだから、私のダーリンなの」
「まぁ、仕方ないわね」
紫の短髪をかき上げ、ルクレツィアは肩をすくめた。
セイナは上目遣いで、ちらりと。
「ぼ、僕は……ママと、三人が良い」
「よしよし。今度、呼んであげるからね」
「ママは、セイラに甘すぎ!」
「女に必要なのは、愛嬌なのよ」
笑い声が、遠い。
視界の端が、ゆらりと溶けている。
エラが、顔を寄せてきた。
「ダーリン。お酒飲んだら、お部屋に行きましょ」
吐息とともに、とろける花の香り。
行っては、いけない。
「ああ……分かった」
酒を、ぐいと煽る。
熱い。喉が、胸が。
立ち上がったはずなのに、床の感触がない。
三人に見送られ、奥へと歩いた。
「ダーリン。こっち、こっちよ──」
柔らかい声が、糸のように絡みつく。
なぜだろう。
抗う気が起きない。
廊下を歩いていると──
「あぁッ!」
扉の隙間から、女の呻き。
「ぎっ、ぅっ、ァガッ……!」
部屋の奥。
鉄の十字架。
赤い目隠しをされた、黒髪の女。
じゃら、と鎖が鳴った。
唇の端から、透明な糸が垂れる。
正面には、仮面をつけた黒スーツの男。
「こら。覗いちゃだめよ」
ぽん、と頭を叩かれた。
「あれは、何を……」
「時として、苦痛は娯楽になる」
エラは俺の手を取ると、自身の短い角へと導いた。
「私は、優しい方が好きだけど」
撫でる。
頭の横から垂れた角は、ほんのり温かい。
「ふふ。ただのゲームよ……楽しみましょう」
赤い絨毯の上を歩く。
足音がやけに遠い。
しばらくして、小さな部屋に着いた。
蝋燭だけが灯る、薄暗い空間。
中央には、純白の天幕付きベッド。
「ダーリンは、彼女いるの?」
「彼女、というか……エルフの連れがいて……」
「ふぅん……好きなんだ?」
好き──
好き?
誰を。
あれ、
俺は──
誰と一緒にいたんだ?
「いけない人。なんて罪深い」
エラは、俺の頬を両手で包んだ。
「でも、良いのよ……好きな人は、多い方が楽しいもの」
「そういうものか」
「そうよ。そしてダーリンは、私を好きになる」
「すごい自信だな」
「ふふ。だって私、最高の女だもの」
妖艶な瞳が、じっと俺を射抜いた。
小さく首をかしげ、片眉を上げた。
「困ったね?」
白いドレスを、するりと脱いだ。
中は、黒いキャミソールにレースのパンツ。
「とっても、刺激的な夜になりそう」
「な、なにを」
ドンッ。
華奢な腕が、ベッドに俺を倒した。
「ちょ、待っ……」
そして。
エラは、俺の上で馬乗りになり──
「くっ──あぁッ!」
筋肉を、丁寧にほぐし始めた。
肩回り。
上腕。
胸。
腹部。
これ、
ただの、
マッサージや!!!!
「いだっ、痛たたたたっ!」
「すごい体! お兄さん、鍛えてるのね」
「ちょ、押しすぎ。痛っ、痛いッス」
「ふふ。本当は……この先も、したっていいんだけど」
エラは、俺の首筋に口を寄せ──
ふっと息を吐いた。
「ふぁっ」
「分かるのよ。軽い女は、嫌いだって」
胸元に、つぅと、細い指が伝った。
「それとも……もっと、する?」
ジジッ。
下腹部に、わずかな痛み。
旧友が刻んだ小さな刺青が、微かに光を帯びている。
その時。
脳裏に、水色の長髪が浮かんだ。
そうだ。
俺が、一緒に居たのは──
「いや……大丈夫です」
一切の迷いなく。
いや──
少しだけ迷って、
「肩こってるんで、マッサージお願いします」
そう告げた。
「ふぅん……一途なのね。魔王様に、すこし似てるかも」
エラは、つんっと俺の肌をつついた。
「魔王?」
「ええ。急にフラれちゃったのよ。ひどいと思わない? 突然、“我は想い人が出来た!”とか言って。その相手もエルフでね──」
魔王の話題になると、彼女は止まらず喋った。
その夜、俺たちは長く話した。
エラは魔界出身で、軍属だったこと。
大魔戦争が終わってから、引退したこと。
戦争の話になると、少しだけ声が低くなった。
深くは、語らなかった。
終戦後は、夢魔の孤児を集め、エンバータウンへ越してきたらしい。
俺も気づけば話していた。
異界人であること。
地球のこと。
なぜか、彼女には何でも話せる。
この数時間で、俺とエラは友達になった。
館の外へ出ると、月はもう見えなくなっていた。
サキュバスラウンジ、夢桜。
刺激的な場所だった、はずなのに。
何があったか、ほとんど覚えていない。
「じゃあね、ダーリン。絶対また来てね」
「ああ。また、遊びに来るよ。友達としてさ」
「ええ。友達として……次は、もっとイイことしましょ♡」
エラは、ちゅっとキスを投げた。
……友達の意味、分かってるんだろうか。
夜道を歩きながら、自分の体を嗅いだ。
薔薇の香りがする。
きっと、臭いと言われるだろうな。
その日。
フィオナは、宿に帰ってこなかった──。
夢桜、オリジナルテーマソング。
「Dream Blossom」
ぜひ聴きながら、話をお楽しみください。
▼リンク
https://youtu.be/nZEtVuX7W3M?si=l_RF6n6E_k4deSWM




