第四十七話「錬金術師」
魔女マリーの後を追うように、俺たちは暗い闇を進んでいた。
トン、トォン。
足音が反響する。
だが、地面はない。
確かに歩いているのに、足裏の感覚がない。
次の瞬間、白い光が視界を焼いた。
鼻を刺す、焦げた薬品の匂い。
古びた石壁に、低い天井。
壁一面の棚には燭台が吊るされ、丸底や細首、胴の膨らんだガラス瓶が並んでいる。
青や紫の液体が炎を受けて、ゆらりと煌めいた。
ここは、研究室だった。
「なっ……」
若い男の声。
その先には、長身の青年。
黒縁の丸眼鏡に、淡い灰銀の髪。
右へ流した前髪だけが長く、深紫の瞳の片方を覆っている。
黒紺のロングコートが、足の先で揺れた。
「おい……マリー。不法侵入だぞ……それに、何だこいつらは」
「急患よ、クラウス」
「せめて玄関から来い」
「先生~、お茶ができましたよ」
扉を開ける音とともに、穏やかな声がした。
そこには純白のナース。
柔金色の低いポニーテールが、ふわりとそよいだ。
衣には、桜色の細いラインが走っている。
短いスカートの裾が揺れ、健康的な太ももにガーターベルトが覗いた。
「……えー、っと?」
──。
「リエル、状況を教えろ」
リエルと呼ばれたナースは、ベッドに横たわるポーニャに触れた。
「生体検知──敗血症の症状が出ています。血液型GBマイナス。茶褐色の立ち耳、内側は桃と白の耳毛。金色の瞳に、半月の虹彩……月虎族かと」
「チッ……珍しい型だな」
フィオナとクラリッサは、不安そうに見ている。
男は、棚から分厚い書物を抜き取った。
「月虎族の血液はγ因子……0.18に補正……RBC 4.9×10⁶……霊素結合率1.21……ヘモグロビン鎖β-Λを再結合。酸素運搬効率94%で……」
本をめくりながら、式のような言葉を吐き出している。
何を言っているのか、さっぱり分からない。
ユンファは眉をひそめた。
「大丈夫なん、この人」
「心配ないわ──錬金術師、クラウス・ヴァルケイン。あたしが知る限り、街一番のヤブ医者よ」
「ヤブは余計だ」
リエルの灰青い瞳に、わずかな焦りが宿る。
「血圧低下! すぐに輸血と抗菌薬が必要です。先生!」
「分かってる……いま、作る」
クラウスは棚の引き出しを滑らせ、透明なパックを取り出した。
紺の手袋をはめた手をかざし、人差し指を伸ばす。
指先がやわらかく灯った。
宙をなぞっていく。
光は線となり、文字へと変わる。
書き殴っている。
否、刻んでいる。
描かれたのは、数式。
x=(R,W,P)ᵀ
Hb_{β-Λ}:ℝ³→ℝ³
B = Hb_{β-Λ}( diag(γ,λ,1) · x )
Φ(B)=0.94
複雑怪奇な演算式が、宙に静止していた。
透明パックを両手で包むように掲げ、クラウスは目を閉じた。
「叡智の神よ──賢神ロルフィンよ。我は敬虔なる神のしもべ。愚かな定命に、慈悲の光を──」
祝詞が紡がれていく。
「万象構文・第二章三節、“全は理に帰し全と成す”」
数式が内から輝きだす。
瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
両の瞳に、深い紫が光を返す。
「≪似て非なる完全≫」
低く、言葉が落ちた。
その一言で。
数式が崩れだした。
それは細かな粒子となり、透明パックへと流れこんでいく。
魔の奔流が、渦まいた──ッ!
びゅうッ。
黒紺のコートはためく烈風に、俺は目を閉じた。
風が収まり、目を開けると──
とぷん。
袋の内側が、赤い液体で満ちていた。
「リエル」
「はい!」
リエルは腰についていたポーチから、注射器を取り出した。
針をポーニャの細腕に刺し、管を繋いでいく。
「輸血完了。鎮静剤投与……拒絶反応、なし」
「……よし。あとは寝かせておけば、問題ないだろう」
無から有を作り出す、理外の所業。
クラウス・ヴァルケイン──
彼は紛れもなく、“錬金術師”だった。
「よかったぁ~!」
クラリッサとフィオナは、手を合わせ跳ねた。
俺の隣にいたピピは、胸に手をあて小さく息を吐いた。
マリーは腕を組み、薄く笑う。
「さすがね。引きこもりにしておくには、もったいないわ」
「余計なお世話だ。はやく俺の部屋から出ていけ」
治療が終わり、ポーニャは別室へと移された。
窓からオレンジの光が差している、夕暮れだ。
気づけばポーニャの傍らで、クラリッサとフィオナは寝息を立てている。
窓際に座るピピは、羽の光を細く沈めたまま、目を閉じていた。
純白のナース、リエルは微笑んだ。
「抗菌薬も投与したので、数日で良くなりますよ」
「ありがとうございます」
つんつん。
マリーが俺の腕をつついた。
「はい、これ」
彼女が差し出したのは、黒い名刺。
そこには、“マリエッタの魔具工房”と書かれていた。
商業流通区にあるらしい。
「裏通りの小さい店よ。気が向いたら遊びに来てね。ちょっとだけ高いけど」
「ありがとうございます」
「やめとき……回復薬ひとつ、百万するで」
小声で言うユンファの頭を、マリーがはたいた。
「あだっ」
「営業妨害よ。それじゃ、あたしは行くから」
「姐さん、おおきに~! あっ。ついでに、ギルドまでつれてってぇな~」
「あたしは、便利屋じゃないのよ……」
マリーは呆れるように言った。
何はともあれ──
生きて帰れた。
それだけで十分だ。
俺は、ようやく肩の力を抜いた。




