第四十六話「破魔の天秤」
ぽんっ。
強張った俺の肩に、誰かの手が触れた。
「ちょい、まちぃ」
陽気な女の声。
「えっ」
明るいその声に振り向いた。
そこにいたのは──
奇妙な装いの小柄な少女。
丸く平たい黒帽を被り、赤い天面から毛房が尾を引いている。
黒い三つ編みが左右に垂れ、肩口で揺れた。
円形サングラスが光を弾き、奥は見えない。
白い細棒をくわえた口元だけが、笑っている。
八重歯が、ちらりと光った。
「兄ちゃんら、よぉ頑張ったな」
紺の長衣には、赤金の縁取り。
その裾は短く、引き締まった腹が覗いている。
赤い腰帯が風になびいた。
ちゅぽん。
少女は、くわえていた白棒を抜いた。
先端には、艶やかなピンク色の飴玉。
それを、俺の口に押し込んだ。
「ご褒美。あめちゃんやで」
甘い、桃味。
「だ、だれ?」
少女がサングラスをずらすと、切れ長の茶色い瞳が覗いた。
ばちん、とウィンク。
腰をくねらせ、両指を頬に当てた。
「通りすがりの、セクシーお姉さんや!」
セクシーとは程遠い、華奢な体である。
「正義よ、傅け」
裏では、悪魔の詠唱が終わっていた。
まずい……!
「≪魔空断≫」
黒き半円刃が、岩を裂きながら迫る。
瞬きひとつ。
俺の前には、自称セクシーお姉さん。
半円の黒刃。
その断滅の波動に、
「ほっ」
ただ、触れた。
パンッ。
乾いた音。
黒刃は砕け、霧散した。
──。
何が起きた。
「ほな、邪魔やから。あっち行っといて~」
少女は、俺の体をぐいぐい押した。
紫岩の悪魔が迫る。
ドンッ。
俺は突き飛ばされた。
少女の背後で、悪魔が両手を振りかぶった。
岩槌が、打ち下ろされる。
「実はなぁ」
少女はくるりと体をひねった。
紫岩の腕に指を滑らせ、さらりと受け流す。
横で、地岩が弾けた。
「うちは、あんたが好きやった」
紫岩の拳が唸り、脚が大地を薙ぎ払う。
少女は流れ、空は震え、地が穿たれる。
悪魔の鋭い攻撃は、掠りもしない。
「千剣のカイゼル。金髪が鼻につくキザ野郎。軽口の多い、愛すべきバカ」
薄ら笑みのまま。
ゆらり、くらり。
爆ぜ荒れる空地の中で、少女はただ、揺れていた。
「十七年……探したで」
にぃ、と八重歯が覗く。
丸いサングラスを、外した。
瞬間。
じわり。
少女の体に、青魔の波動が滲んだ。
澄んだ圧が、静かに広がっていく。
悪魔の暴的な魔力とは、違う。
例えるなら──
清流。
雄大な山を削り続ける、不変の流水。
その底知れぬ覇気が、少女を纏っていた。
「知っとる? うち、もう三十二歳やで!」
声が落ちるや、悪魔は腕を振りかぶった。
正拳一閃──ッ!
女の姿が、消えた。
いや。
太い紫腕の上に、片足で立っていた。
その上で、ひょいとしゃがむ。
「ウケるやろ?」
悪魔の眼前まで顔を寄せ、白い長髪に指を絡めた。
「白髪なってもうて……かわいそうになぁ」
「ググ……」
「うちのこと、ほんまに覚えてないん?」
「ガァッ!」
紫岩の手が宙を切る。
女はすでに、空を舞っていた。
くるりと一回り、音もなく降り立つ。
「あーあ、がっかりや。せやったら……しゃあないな」
女は右足を引き、重心を落とした。
左拳を前へ。
指がわずかに開く。
その掌には、金鎖で繋がれた古金のギルドタグ。
黄金の天秤が、刻まれていた。
「異端魔女審問局──『破魔の天秤』、特別執行官ユンファ・キサラギ」
手のタグをつまみ、ゆっくりと顔の前へ。
裏返る。
タグに見えた文字は──S。
「四大原理神・光天のレクリア。その名において……理より外れた魔を、これより鎮魂する」
金のタグを、ピンと弾いた。
浮いたそれを、顔の前で掴んだ。
祈るように、呟く。
「光あれ」
ユンファの笑みは、消えていた。
ぴり、と空気がひりつく。
悪魔は体を低く落とし、腰に手を添えた。
居合の構え。
腰に剣は、ない。
「百界歩キて幾千理──魔伏せ地伏せ、果てナき信念サれど誓ィに沈ム」
低い詠唱に応えるように、大気が歪んだ。
十、二十、数えきれない。
歪みは光を帯び、虚空に並び立っていく。
やがて──
形を成したのは光の剣。
洞窟の闇は、光剣に塗りつぶされていた。
「畏れよ」
悪魔が、腕を振り抜く。
「≪百空剣≫ッ!」
無数の光刃が、放たれた──ッ!
寸分の狂いなく、剣雨がユンファへと降り注ぐ。
ダン、ダン、ダンダンダンダン!!!!
落剣の嵐に洞窟が震えた。
爆煙が巻き起こる。
その中で。
「むだむだ~」
明るい声が煙を裂いた。
「あんたのことはもう、理解ってんねん」
白煙が引くと──
ユンファの周囲だけが、円形に抉れていた。
「ほな、いくで」
踏み込む。
悪魔の紫岩体へ、一直線に。
「如月柔断流・奥義!」
腰を捻り、右腕を引いた。
左足で地を噛み──
「≪心落掌≫ッ!!」
叫びと同時、右足が前へ出た。
抉るように回転する掌底が、悪魔の胴へと撃ち出される。
パァンッ!
派手な音は、ない。
にやりと、ユンファは笑った。
そして──
「痛っだァ!」
彼女はその場にしゃがみ、呻いた。
「ちょ、硬すぎ! うちの可愛いお手々が壊れたら、どうすんねんアホ!」
──。
「ァガアアア゛ア゛!!!!」
悪魔が絶叫した。
両手で頭を抱え、体を震わせる。
紫岩の装甲が、音を立てて崩れだした。
亀裂の奥から魔力が霧散し、闇へ溶けていく。
「あ、そういや……あんたに勝つん、これが初めてやな」
「ガ……ァア……ッ」
悪魔は足を引きずった。
震える拳を、前へ。
もはや攻撃ですらない。
ユンファは、その拳を弾いた。
「グぅ、ゥッ!」
「もうええて」
「ユルさヌ……魔ジョ……おまえた、チを……」
悪魔は膝をつき、呻いている。
「誰と間違えとんねん、アホ」
ぱん、と白髪の頭を叩いた。
ドスン。
紫岩の体は、床に沈んだ。
「あんたの仇は、うちが取ったる」
茶目が細まった。
深いスリットから、しなやかな脚がすっと伸びる。
迷いなく、高く。
「ほな……さいなら」
その声は、優しかった。
踵が落ちる。
ダンッ!
深淵の悪魔は、やがて塵へと還った。
舞い上がった残滓だけが、宙を漂っている。
──強い。
俺は、前へと踏み出した。
「あの、ありがとうございます」
「おっ? ええよええよぉ。世の中、助け合いってな!」
丸いサングラスをかけ直し、彼女はにかっと笑った。
「あ、うちユンファ。よろしくな! そや、あめちゃん好き? 蜜りんご味あるで! うちのおススメはこのパイナッポォ味でぇ」
言葉が止まらない。
喋り続けるユンファの後ろで、何かがきらりと光った。
「あめは、大丈夫です。それより……」
砕けた紫岩に歩み寄り、光るものを拾い上げる。
指先に冷たい感触。
長方形のタグだ。
こびりついた土と血を払うと、錆びた紅色が露わになった。
浮かび上がったのは、天秤の紋章。
裏には、Aの文字。
「……ギルドタグ?」
「あっ。それ頂戴! ギルドに報告せなあかん」
差し出すと、ユンファは両手で受け取った。
彼女は何も言わず、大切な宝のようにそれを眺めている。
丸いサングラスの奥は、何も見えない。
見てはいけない気がして、俺は目を逸らした。
ふと視線をやった先、岩肌の上に──
どす黒い結晶。
「これは……」
ただ転がっているだけ。
なのに、空気が歪む。
ユンファがひょいと拾い上げた。
「魔力核やね」
「なんですか、それ」
「ん~……都市の動力やら、魔法の媒介やら。便利な石ころやね」
彼女は黒い結晶をかざした。
内部で、血のような赤が揺らめく。
「言うてええのか分からんけど、まぁええか」
気楽な声が、わずかに沈んだ。
「これは別格や。魔女が作った一級品……魔獣を生み出す──“魔狂核”」
一拍。
「でな。可哀想なうちの友達、カイゼルくんはこれ埋められて、実験体にされたっちゅーわけ」
さらりと。
あまりにも、さらりと言った。
魔女の人体実験。
噂に過ぎないと、ポーニャは言っていた。
ただの噂。
どこにでもある、陰鬱なお伽話。
だが……
夢物語で済ませるには、あまりにも生々しい。
黒い結晶は、どろりと歪んだ魔素を吐き続けている。
たしかな狂気を孕んで──。
その時。
「ポーニャン、ポーニャン……!」
背後で、クラリッサの悲痛な声が響いた。
駆け寄ると──
ポーニャを囲うように、三人が膝をついていた。
ピピの手が、緑光に包まれている。
震える指先で、裂けた腕を必死に繋いでいた。
「大丈夫なの!?」フィオナが言った。
「腕は、何とか……でも、血が足りないわ……」
「ポーニャン~!」
クラリッサが喚いた。
その腕の中で。
「……もう、黙れ……傷に響く……」
「生きてたぁ~!」
クラリッサは、ポーニャをぎゅっと抱いた。
「っ……締めるな、アホ……」
ゴゴゴゴゴッ!
地の底が蠢いた。
ガラガラッ!
天井から、巨石が落ちてきた──ッ!
その直下には、悠々と歩くユンファ。
「ほっ」
さらりと、落石を受け流す。
バァンッ!
次々と崩壊していく岩盤。
背後で、出口が轟音とともに塞がれた。
「あ~。これ、あかんやつやぁ」
ユンファは呑気な調子だ。
クソ、どうする……!
「しゃあない。奥の手、出しますかぁ」
にやりと、彼女は笑った。
控えめな胸の懐を、ごそりと探る。
金のギルドタグを取り出すと、耳に当てた。
「もしも~し! しもしもぉ~!!」
「……」
「おーい。聞こえますぅ~!?」
さらに声が大きくなった。
「聞こえますかーーーー!!!!」
「……はぁ」
不機嫌そうな女の溜息がした。
「営業時間に電話かけないでって……あたし、言ったわよね?」
「え~? うちと姐さんの仲やぁんっ」
「切るわよ」
「えちょ、ちょ待ってぇ!」
泣きそうな声で。
「いやほんま、姐さん助けてや!」
「洞窟が崩れそうなんですぅ。このままじゃ生き埋めなってまう~!」
「そのまま死になさい」
「後生ですぅ! 神さま、女神さま、マリエッタ・ベルさまぁ!」
「……」
「お店のアイテム、いっぱい買いますからぁ!」
「……高くつくわよ」
「おおきに~!」
ちりん。
崩れゆく洞窟に、澄んだ鈴音が落ちた。
どこから現れたのか。
黒猫が、歩いている。
とことこと、フィオナの膝へ座った。
「あっ。この猫……ミミちゃんだ!」
街にいた黒猫か。
なぜ、ここにいるのだろう。
黒猫は、わしわしと頭をかいている。
ブォンッ。
低い振動が、空気を震わせた。
直後。
空間が、丸く歪んだ。
薄紫の波紋が、何重にも広がる。
ユンファが小刻みに跳ねた。
「キタキタァ~!」
歪みは大きな渦となり、人ほどの大きさになった。
その奥は、底の見えない黒。
暗い底から、人影が滲み出した。
「いよっ! 待ってましたっ!」
境界を踏み越えて現れたのは──
“魔女”。
深い紫の大きな帽子。
その縁から零れるのは、艶やかな黒紫の長髪。
中央で浅く分けられた前髪が、左目の端をかすめている。
上衣は胸下で分かれ、中央が縦に開いた構造だ。
夜を思わせる深色の布地に、繊細な金の縁取りが走る。
張りのある胸とへそを、迷いなく晒していた。
トン、トン。
腕を組んだまま、ゆるく歩み寄ってくる。
腰の金装飾が揺れ、そこから長い外套がふわりと広がった。
フリル付きの短パンと、濃色のストッキングの間に、白い太腿がちらりと覗く。
横では、先端に白いオーブを宿す大杖が、ひとりでに浮いていた。
紫水晶のような瞳がこちらを捉え──
口角が、にっと緩んだ。
歪んだ渦は、音もなく消えた。
「あんたねぇ! 魔女狩りのくせに、魔女に頼るのやめなさいよ」
「マリー姐さんは、異端ちゃうや~ん」
ユンファが抱き着く。
それを押しのけながら、
「マリエッタ・ベル。マリーでいいわ」
彼女は、ポーニャへと視線を落とした。
呼吸が荒い。
「……って。言ってる時間、ないみたいね」
ぱん、ぱん。
手を二度打った。
「ミミ」
一声。
黒猫が、前足で地面をポンポンと叩いた。
ブォンッ。
再び、紫の渦が開いた。
これ、猫が出してるんだ……。
「ほら、早く行くわよ。お店、空けてきたんだから」
俺たちはマリーの後を追うように、亜空間へ踏み込んだ──。




