第四十五話「深淵の悪魔」
「嫌、やめて!」
少女の悲鳴が、湿った鉱道に反響した。
薄暗い細道を、奥へと進んでいく。
視界が、開ける。
崩れた支柱の向こう──
小鬼の群れに囲まれ、地に押さえつけられている影があった。
長い耳に、桃色から黄へと溶ける二色のツインテール。
赤い十字を宿す聖衣は無残に裂け、土に汚れている。
背の小さな羽は、弱い微光を震わせていた。
あれは──
ギルドで見た、妖精の子だ。
「お願い。もう……」
抗っていた少女の動きが、徐々に鈍る。
小鬼たちは容赦なく、彼女を追い詰めていく。
下卑た笑いが、洞内にこだまする。
「あぁっ……!」
「オレがっ」
ポーニャは声を上げた、が。
「思考加速──」
俺はすでに、踏み込んでいた。
小鬼は五体。
狙うは首。
鋭く。
正確に。
刃が疾る。
静寂の一瞬。
黒ずんだ血が弾け、少女の白い頬を汚した。
俺は、彼女へと右手を伸ばす。
「大丈夫か」
「やめてっ……来ないでっ!」
少女は俺を振り払うと、がぶりと嚙みついた。
差し伸べた手から、血が滴る。
「ッ……よく見ろ。俺は……人間だ」
桜色の瞳が揺れた。
「あ……」
「大丈夫。もう、大丈夫だ」
少女の細い体から、ふいに力が抜ける。
かすかな体温が、俺の胸へと沈んだ──。
「癒しの神よ──水癒の女神、アレインよ。いと高き御身に願う。迷える魂を救いたまえ」
少女の両手に、淡い神光が灯る。
「光よ、我が手に──治癒」
温もりが、傷口に染み込んだ。
滲んだ血は止まり、裂けた傷が閉じていく。
ポーニャの猫耳が、ぴくりと動いた。
「回復術師か。見るのは久しぶりだ」
フィオナが身を乗り出す。
「珍しいの?」
「ああ。癒しの女神の契約は、特に難しい」
クラリッサは両腕を振る。
「回復術師ってだけで、引っ張りだこだよぉ~」
「浅い傷しか治せない、役立たずだけどね……」
少女は俯いた。
「本当に、ごめんなさい」
「いいんだ、もう治ったよ。気にするな」
俺は右手を軽く握り、無事を示す。
少女は、ほっとしたように笑った。
「わたしは、妖精族のピピ・アンベル。あなたたちは──」
俺たちは、順に名を明かした。
「んー、ちゅっ!」
フィオナがキスを投げた。
「って、やってたのに。今日はなんか、雰囲気ちがうね」
「うっ。見られてたの……あれは……ただの、営業よ。ああすると、馬鹿な男は喜ぶの」
頬を染め、ピピは視線を逸らした。
アイドルも大変そうだ。
ポーニャが口を開く。
「なぁ。お前もしかして、“破断の槍”か?」
「……そうよ。私は……うぅ……」
ピピは泣きだした。
「お、おい」
クラリッサが声をあげる。
「あ~! ポーニャンが泣かしたぁ!」
「ち、ちがう。オレはっ」
──。
「破断の槍は、みんな強かった。順調だったの」
ピピの声は揺れた。
「こんなことになるなんて。初めての冒険だったのに……」
ポーニャが鋭く問う。
「何があった」
ひと呼吸。
「あいつに、やられたの」
「あいつ?」
「白髪の、悪魔」
空気がぴんと張り詰めた。
「わたし、必死に回復したのよ。でも……」
ピピは両手を見ながら、震えあがる。
その手は、赤錆に染まっていた。
「C級パーティが、壊滅したというのか」
「……そうよ。リアンが、早く逃げろって……」
その時。
同時に、ポーニャとクラリッサが動いた。
双剣を抜き、戦斧を構え、闇の中へと向けた。
「ポーニャン……」
「ああ……死の、臭いだ」
重苦しい、沈黙。
ガツン、ガツン──。
闇の奥で、鈍い銀が光った。
大槍だ。
螺旋を刻む、ドリル状の槍。
それを杖代わりに、緑髪の青年が歩いてくる。
黒マントなびく銀鎧はひび割れ、顔は苦渋に歪んでいた。
ピピが踏み出す。
「リアン!」
「待てッ!」
ポーニャが、ピピの腕を掴んだ。
「後ろに、なにかいる……」
息を、飲んだ。
瞬間。
ぶしゅり──ッ!
「っ……ぁ……」
貫かれた。
青年の胸が、背後から。
紫色の、“何か”が突き出ていた。
岩のような、しかし指の形をした凶手。
ぼとり、ぼとり──
どす黒い血が、指先から滴った。
「なんだ……あれは」
影より這い出たのは、薄汚れた白の長髪。
顔を覆うほどの白髪の中に、赤い瞳がうっすら見える。
人型の全身は岩で覆われ、胸の中央には赤い小核。
黒い瘴気が、滲むほどに漏れ出していた。
両手には、なにか鷲掴んでいる。
それは──
人、だった。
右手には、紫の長髪の女。
ローブ姿の身体には、下半身が、無い。
ずるりと、腸が地面へ垂れている。
「っ……」
もう一方の手には、黒髪の頭、だけ。
目は見開かれたまま、焦点を失っている。
──濃密な魔気。
指先が震える。
体が訴えている。
逃げろと。
座せば死ぬと。
全身が、警鐘を鳴らしている。
俺は、岩魔人を思い出した。
試練の塔で立ちはだかった、無感情の怪物。
似ている。
だが──
違う。
こいつは。
痛いほどに肌刺すこれは……
感情。
明確な殺意。
憤怒。
憎悪。
狂うほどの激情。
何をどう恨めば、これほどの殺意を向けられるのか。
世の悪意を閉じ込めたような赤眼が、俺たちを捉えて離さない。
悪魔がいるとすれば、きっとあんな目をしている。
それは、手に持った肉塊を、顔へと運んだ。
がばりと口が開く。
歪んだ牙が、覗いた。
喰らった。
ぐちゃり。
ぐちゃ、べちゃ。
まるで菓子のように。
人だったものを、喰らっている。
そして、俺たちを見た。
「あ……」
ピピは後ろへ転んだ。
彼女の股下から、黄水が広がる。
空気が重い。
一歩も、動けない。
溢れるような威圧感。
ぶわりと汗が噴き出る。
魔獣なんて生易しいもんじゃない。
こいつは、悪魔だ。
「山田」
ポーニャの声がする。
「……」
「山田、しっかりしろ」
前から目を離せない。
「逃げるぞ」
「逃、げる……?」
「ああ。見ればわかる……あいつは強い。もしかすれば、オレよりも」
ポーニャの頬に、汗が伝った。
「時間を稼ぐ。皆を、連れて行け」
「そんなこと──」
ダンッ!
悪魔の足元、地が割れた。
「なにッ!?」
刹那。
ポーニャの前に、影が降りた。
紫岩の豪腕を横へ、腰を回す。
横一線の、炸撃──ッ!
ダァンッ!
「かっ……!」
ポーニャの体が、くの字に折れる。
闇へ、弾け飛んだ。
壁が爆ぜる衝撃音が響く。
「……!」
一歩退く俺の横で、クラリッサが戦斧を回転させた。
「はぁぁあああッ!」
振り抜く。
轟撃──ッ!
しかし。
岩石甲亀の硬い装甲を引き裂く大斧、
重戦斧ラングランを──
白髪の悪魔は、片手で受け止めた。
「うっそぉ……!」
クラリッサの体が、宙に浮く。
「わぁあああっ~~!」
ぶんと振り回され、遠くの岩壁へと叩き込まれた。
俺は、短剣を引き抜いた。
「身体強化──ッ!」
狙うは胸、赤核。
刃が走る。
ギィンッ!
弾かれた。
刃を返し、叩き込む。
ガギィンッ!
白髪の中で、赤眼が揺れた。
こいつ。
斬撃の軌道を、読んでいる……!
だが、時間は稼いだ。
背後で、炎熱が渦巻く。
待ってたぜ……魔法使い!
「どいてぇ!」
重圧が満ちる。
世界が、熱に跪く。
俺は、横へ飛んだ。
「断ち砕けろッ!!!!」
フィオナの怒声に、紅髪が揺れた。
腕を引き、一歩踏み込む。
前へ。
殲滅の業焔が、放たれる──ッ!
「≪紅牙断天焔裂砲≫!!!!!!!!」
極大の炎熱線──ッ!
地を噛み砕く龍炎が、悪魔を呑み込んだ。
視界が白に焼き切れる。
ダァアアアアアアン!!!!
黒煙が、ゆらりと天へ昇る。
焦げた風の臭いが、鼻をつく。
朱色に染まったフィオナは、掌をふっと吹いた。
「魔法使ったの、黙っといてよね」
おかしい。
焔熱の炎が、途中で断たれている。
硝煙が晴れていく。
フィオナの紅眼が揺れた。
「えっ……」
炎の奥で、空間が丸く歪んでいる。
白光のヴェールが、悪魔を囲うように脈打っていた。
灼熱の中にありながら、その内側だけが侵されていない。
「効かないのか……!?」
その時。
闇の奥で、金眼が煌めいた。
「──がって……」
唇の端から、血が一筋。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
牙を覗かせるその貌は、もはや獣。
「このオレを、舐めやがってッ!」
獣人ポーニャ・レレは、鋭い牙を剥いた。
瞬。
消えた!
「春姫忠乱ッ!」
速い──!
「≪双華乱舞≫!!」
燃え盛る炎を裂き、二閃の白刃が狂い舞う。
怒涛の連撃。
紫岩の体表が削げ落ちる。
二剣同時の横薙ぎ。
悪魔の巨体が弾け、一直線に粉塵が走った。
硝煙の中──
押し殺す低声が、響く。
「哭ケど笑ェど不変の浄地」
悪魔は、右手を挙げた。
「サれど歩みは止メず、我が覇道に曇りナし。正義よ、傅け」
「詠唱、だとッ!?」
挙げた手が、直線に振り下ろされる。
「≪魔空断≫」
黒き半円刃が、斬り放たれた──ッ!
ジャッ!
殺断の黒刃。
ポーニャは咄嗟に身を反らす。
その背後で、岩盤が真っ二つに裂けた。
瞬間。
「ぐっ──」
ポーニャの右前腕が、断たれ落ちた。
遅れて、どす黒い血が噴き上がる。
「ァ゛ァ゛ァァアアア゛!!!!」
痛烈な叫びが、洞窟を震わせた。
悪魔は、再び右手を挙げた。
「フィオナッ!!」
「うん!」
腕を押さえ、もがくポーニャをフィオナが抱え下がる。
逃げられるとは思えない。
魔法も通らない。
これしか、ない。
──停天光輝。
制御は不完全。
一分持つかどうか。
前方で、重圧が増していく。
深く、息を吐いた。
「ふぅ──」
両手で、剣柄を握り締める。
「いくぞ……」
ありったけの魔力を、剣に──ッ!




