第三十四話「救い」
怪蛇・蛇樹羅は身をよじらせる。
崇め祀られた神木だった面影は、どこにも無かった。
枝と根を絡めたその巨体が動くたび、霧夜が歪む。
中心の樹皮の裂け目に埋もれた少女──
シグリの顔は、ただ、虚ろに沈んでいた。
「ギィイイイイイイ!!!!」
軋むような低音が、地の底から湧き上がる。
全身を潰すような魔力に、空気が圧された。
「ッ身体強化……ッ!」
背に持ってきた短剣に、無意識に手が伸びる。
──今からでも、フィオナを起こすべきだろうか。
「緋色殿。下がられよ」
ザンマが、ばっと手で制す。
「俺も戦えます!」
「助けは無用。任せてくれ」
「一人でやる気ですか!?」
「一人が、良いんだ」
閉じた瞳に、表情は読めない。
だが、声に迷いはなかった。
「ッ!」
考える間もなく、
「下がっていろッ!」
月天より──
無数の樹槍が降り注ぐッ!
刺突の嵐が、命を散らせと狂い降った。
理性のない殺意が奔流となって押し寄せる。
大地は叩き砕かれ、足場が崩れ消えていく。
凶樹は流れるように軌道を変え、逃げ場を塞ぐように突き抜ける。
樹槍の雨が、なおも乱れ落ちた。
止まない豪雨。豪撃を、躱し、避け、飛ぶ。
「くっ……!」
人の心配をしている場合など、なかった。
「下がりなさい!」
ザンマは言うと前跳んだ。
「人を巻き込んでは、寝覚めが悪い」
確かにそう言って。
脅威など存在せぬように、彼女は進んでいく。
黒い着物の裾、白足が踏み出る。
タンッタタンッタン。
夜舞う紅花。
三味線のような、小気味のいい足取り。
ザンマの歩術は、もはや舞踊。
踏み込み、かわし、撫でるように刃が走り、奔る、疾った。
斬るのではない。
刀に触れた邪悪が、削ぎ落ちていく。
腰を回し、斬り、舞う。
彼女は魔を斬るために在る、芸術だった──。
樹蛇を喰らうように、ザンマは舞い進む。
だが。
怪蛇は、無限に枝を生やし続ける。
斬れど、裂けども、終わりが見えない。
押されている。
──削り負けている。
そして、なぜか、ザンマは刀を収めた。
走る。樹の刺突に沿うように、ただ走る。
ぴりと、空気が肌を刺す。
「雨を待てど、晴れは来ず……地割れ、海裂け、後悔先立たず」
遠くにいるのに、言霊だけが届く。
あれは──
居合の型だ。
「故に我あり序破の槍」
詠唱。
「御雷神にかしこみ、かしこみ申す」
侍であり、剣士であるはずのザンマが。
「祓え清めたもうて、ここに坐す世界」
詠唱している。
「祈りに非ず、赦しに非ず。喝采したりて笑いあれ」
刀が、鳴いた。
着物の裾は逆巻き、全身に紫電が這い上がる。
赤かんざしが弾け、黒い長髪が後ろへ吹き舞う。
前進──
「幕引きだ」
加速ッ!
彼女を中心に、魔素が渦を巻く。
世界は、ザンマに頭を垂れた。
「──月詠第二剣」
今、
鞘走る──ッ!
「≪鳴 神 万 雷≫ッ!」
刹那。
抜き放たれた一振り。
それは万の雷牙となり爆ぜ進む。
蒼雷の抜刀が、樹槍の嵐を焼き消していく。
天裂く鳴神。
光が奔り、雷音が遅れて鳴った。
ほんの寸刻。
樹の怪蛇・蛇樹羅の巨体は──
その大半を失っていた。
──強い。
膨大な魔力がザンマから、いや、刀の中から渦巻き出ている。
それは、決して清らかなものではない。
禍々しい──言うなれば、妖気。
あれは、まともな武器ではない。
喉が鳴る。
俺は安堵していた。
彼女が、味方であることに。
──ごろり。
何かが、地面に転がり落ちた。
──シグリだ。
蛇樹羅の残骸に包まれ、息絶え寸前ながら、まだ生きている。
残ったのは頭と胴。
焼け焦げた樹に包まれ、そこからずるりと出た左腕を前に、少女は土の上を這っていた。
逃げるように、ずるずると、大樹があった裏へ──
追うと、その先には墓地があった。
「助けて、みんな……助けて……」
無数に並んだ墓石に、少女は手を伸ばす。
暴かれた墓は三つ。
その一つには、シグリ・ハノイと刻まれている。
他の二つは、名は掠れて読めない。
「嫌だ……死ぬのは、嫌だよ。お母さん、お父さん……サヨ……」
そこにいたのは、怪物ではなかった。
──死を恐れ、泣き縋る、ただの少女だった。
ザンマが、少女に刀を振り上げる。
「助けて……緋色……緋色っ……!」
仰向けになったシグリが、懇願するように俺を見た。
蒼刃が、振り下ろされる──
「ザンマさん!」
刃が、ぴたりと止まった。
「待ってください」
「……しかし」
「大丈夫です。彼女は、もう……」
歩み寄る。
少女の、目の前へ。
「緋色……」
やっと認められる。
シグリは、そう言っていた。
事情は知らない。
だが。
この少女は間違いなく、救いを、求めていた。
「独りは、嫌だよ……」
掠れた声。
薄緑の片瞳から、雫がこぼれ落ちた。
俺は少女の右手を取った。
握り、
──繋いだ。
何を言えばいいか、分からない。
「……大丈夫だ。ここに、ここにいる」
正解かどうかも分からない言葉を、ただ告げる。
そう言わずには、いられない。
「お前は、一人じゃない」
シグリは、わずかに目を見開いた。
それから、ゆっくりと、口元を緩めた。
一呼吸の後に、みるみると姿が溶けはじめる。
少女の身に宿った魔力が、沈むように消えていく。
最期には──焦げた骸だけが、そこに残っていた。
「ザンマさん……」
繋いだ白骨の手を、撫でた。
「これは一体、何だったんでしょうか」
「……さぁな」
かんざしを無くした黒の長髪が、なびく。
「一つだけ、確かなことがある」
霧は、もう晴れていた。
「ここには……最初から、人などいなかった」
「……」
「あまり気を落とすな。闇というのは、弱った心に這い寄るのだから」
雲間から、光が差し込む。
ザンマは微笑んだ。
「朝焼けだ」
容赦のない眩い光が、墓地を照らした。
俺の心だけは、ついぞ晴れそうにもなかった。




