第三十三話「斬魔」
ジジジッ。
痛ってぇ……ッ!
鋭い痛み。
腹下に視線を下げると──
シャツの下に、小さな紋様と羅列した文字が浮かび上がっていた。
里を出る時、緑髪の少女エルフに施してもらった刺青。
それは淡く、脈打つように光を帯びている。
おまじない──
たしか、リーリーはそう言っていた。
そして俺は、いつの間にか白い布団の上にいた。
嫌な予感が背筋を這い上がる。
体を起こそうとする──
が。
動かない。
首を少し持ち上げるのが精いっぱいだ。
痺れている。
体内のマナが、逆流するように乱れている。
気持ち悪い。
そこで、気づいた。
左手に、
繋いだ手の感触だけがある。
ゴリゴリ……。
ずっと、左側で音がしている。
恐る恐る、視線を向けると──
シグリが、
銀刃の包丁を研いでいた。
「あれ。起きたんだ」
少女は、にこりと笑った。
「薬の配合、間違えたかな」
「何、してるんだよ……」
「何って」
シグリは、包丁の腹を指で撫でる。
小窓から差し込む月明かりが、横顔を照らした。
「今から、邪魔なものを消しに行くんだよ」
「何を言って……」
「あいつらがいると、緋色は行ってしまうんでしょう?」
「離せっ……」
「だめだよ──手を、繋いだじゃない」
繋いだ掌を、愛おしそうに頬へ寄せる。
その仕草だけは、ひどく丁寧だった。
「繋ぎは、契約の証」
声が、ふっと低くなる。
「契り破りは禁忌だよ……神罰が下る! 異端は許されない!!」
言葉が激流のように溢れていた。
薄緑の片瞳は、焦点を失っている。
「ようやくだ。みんなに──蛇樹羅に認められる」
恍惚に笑んだ。
「あなたのことは、よく知らない。でも……嫌いじゃない」
体を起こされ、顔が近づく。
頬を撫でる指は優しい。
耳元、吐息。
「子供を作るのも、悪くないわ」
身体の力が抜ける。
「あぁ……手を、離しちゃダメ」
ぎゅっと指が絡む。
「もっと、強く」
「くっ──」
「大丈夫。ずっと、一緒にいようね」
シグリは、俺の頭を撫でた。
「緋色……」
小さな唇が近づく──
拒むように、顔を横に振る。
その弾みに、少女の眼帯が外れた。
「もう……痛いなぁ……」
その下は──
骸、だった。
眼球は無く、空洞。
樹の小枝が、屍にたかる虫のように這っている。
「これから夫婦になるっていうのに、ひどいじゃない」
「──ッ」
この少女は、人ではない。
「蛇樹羅」
祈るように、シグリは呟いた。
すると──
華奢な体の内側から、細い樹枝が飛び出した。
ブシュリ。
ブシュ。
背が、
横腹が、
湿った音を立て、裂け続けた。
皮膚の下から、刃のように樹が突き出ていく。
それは肉と骨を押しのけ、絡み合い、形を成していった。
体は樹に覆われ、新たな木の手が生える。
小柄な少女は、四本腕の“何か”へと変わっていた。
繋がれた手と、背に生えた手が俺を持ち上げる。
俺を抱えながら、シグリは外へ出ていく。
小さな集落の中に、異形が闊歩していた。
りんっ──
鈴の音が、響いた。
「誰だっ!」
シグリが、顔をぐりんと横に向ける。
そこには──
「ザンマ……さん」
ざり、ざりと。
刀の先で地面を探りながら、彼女はゆるりと歩いて来た。
「緋色殿。無事……なのか?」
「俺は大丈──」
「お前! 何故ここにいる!」
俺の声を遮り、シグリは甲高く叫んだ。
「……毒には、耐性があってな」
「母さんたちは、どうした……!」
「母さんたち?」
ザンマは、不思議そうに首を傾げた。
「ああ」
淡々と。
「あの、木偶人形たちか……」
ただ、淡々と。
「供養したよ」
「──蛇樹羅!!」
シグリの叫びと同時、枝は凶器となった。
尖り、穿つ、無数の槍刃。
放たれた先──
ザンマは、ただ身を揺らしていた。
ゆらり、揺れ、手で流し受ける。
一歩さえ動かぬ盲目の女。
頼りないその細身に、凶刃は触れすらしない。
「お前……見えているのか!」
ゆらり。
ゆらゆら。
近づいていた。
「見えないさ」
刀を使うことなく、彼女は歩いていた。
「来るな……ッ!」
そして──
刀の柄に手をかけた。
閉じた瞳は薄く開き、細い白濁が覗く。
「視えるのは……お前だけだ」
静かに低いその声は、夜に落ちた。
紡ぐ。
「身に咎を受け、幾星霜」
息を吐くように。
「汝は鬼を斬れと縋り泣く」
言葉は紡がれていく。
「魔を祓うは我が天命」
刀が“抜け”と、震え鳴く。
「進む道に迷い無く……我が身は、刃と成す」
固く封された秘が、
いま、暴かれていく。
「起きろ」
──抜。
「斬魔」
その抜刀に、夜が鳴いた。
美しい、雷鳴の波紋。
斬るためだけに在るそれは、一切の無駄を持たない。
「何だ……何なんだよお前ッ!」
震えた少女の叫びが夜に散る。
「私は、ザンマ」
彼女は、刀を正面へ構えた。
「ただの……一振りの、刀だ」
そう告げ、
踏み飛んだ──ッ!
「月詠第一剣」
宙。
音もなく。
月の光に波紋が揺れる。
「斬沙羅戯」
一閃。
月光が、墜ちた。
天地縫う一本の白。
「ああっ……!」
悲鳴と同時、怪樹の腕が崩れ斬れた。
ザンマは地に足をつけ、回し斬る。
気づけば、裂かれた腕ごと俺は抱えられていた。
一瞬の出来事に、思考が追いつかない。
「私のだ……、それは……私の……ものだっ……!」
繋がれた手は、切断されてなお、硬く握られていた。
一本ずつ、指を解いていく。
「返せっ! 返せよっ……!」
離れた先で、少女は狼狽していた。
「無事か?」
「俺は……大丈夫です」
軽く動ける程度には、痺れは抜けていた。
「フィオナは──」
「心配めされるな。向こうで寝かせてある」
言うと、ザンマは視線を戻す。
シグリは吐き捨てるように、
「バケモノめ……ッ!」
そう言うと、背を向け駆け出した。
「大人しく、身を潜めていればよかったのだ。そうすれば、斬ることはなかった」
刀を握り直す。
「月詠の掟はただ一つ……影を断ち、鬼を斬る」
表情無く告げる。
刃が流れるように弧を描き、下段へと落ちていく。
「移ろう世の中で、そこに心はなく、道理もない」
少女は止まることなく逃げている。
行先は、町の外──。
「悪く思うなよ」
ザンマは追うように、駆け飛んだ。
──二人の後を、遅れて辿る。
行き着いた先には、うねるように枝を伸ばす、異様な大樹。
「助けて、助けて……ッ」
ザンマに追い詰められた少女は、縋りつくように、その大樹の根本に崩れ落ちていた。
地に垂れた根へ、指を突き立てる。
爪が剥がれ血が滲んでも、シグリは必死に引っ搔き縋った。
「蛇樹羅……ッ!」
その名を、強く呼んだ瞬間──
空気が、腐った。
重く粘つく魔が噴き上がり、吐き気を催す瘴気が、周囲を満たす。
ざわり。
大樹が、応えた。
根が地を割り、枝がねじれ、意思を持った生物のように、少女の体へと絡みついていく。
「ひっ……!」
少女の短い悲鳴。
直後、
骨が鳴った。
ばき、ばき、ばき。
腕が人の形を保ったまま、無理やり引き延ばされていく。
皮膚の下が盛り上がり、濡れた樹皮が内側から突き破った。
胴が、締め上げられる。
ばき。ぐちゃ、ばき。
肋骨が砕け、内臓が潰される音が、はっきりと夜に響いた。
「あッ、が……ッ……」
それはもう、声ではない。
白目を剥いた少女の喉奥から、泡立つ呻きだけが漏れている。
大樹は、シグリを抱き締めるのではなく、
喰らっていた。
肉を、
骨を、
形を、
信仰を、
その魂を。
人の輪郭が、凄惨な音を立て削ぎ落されていく。
少女は削られ、砕かれ、奪われていった。
そして、
地に降り立ったのは──
信仰の成れ果て。
茶色い樹皮と蔦に覆われた、呪蝕の怪蛇。
中央の樹皮の隙間には、かつて“顔”だったものが、押し潰されるように埋もれている。
その歪んだ顔は、助けを求めているように見えた。
「……なるほど」
ザンマが静かに呟く。
「それが、お前の正体か」




