第三十二話「少女とクナシ村」
「キリガミ山は……少し、危険なんです」
木のカウンター越しに、店主が声を落とした。
「最近じゃ、魔素が荒れちまったのか、昼間でも霧が濃くなる場所が増えてましてね」
「夜が危ないって話は聞きましたけど、日中もですか」
「……森の中で、たまに人が消えるんですよ」
俺の表情を見て、店主はすぐに言葉を継ぐ。
「もっとも、今でも通ってる人は大勢います。メインの道を外れなければ、問題はありません」
「山越えまでは、どれぐらいかかりますか」
「順調に歩けば、関門まで二日ってとこでしょう。道中に小さい村がありますんで、一日目はそこで休んでください。日暮れ前には着くはずです」
念を押すように。
「旦那。くれぐれも、道を外れないようにしてください」
「……分かりました。ありがとうございます」
宿屋を出ると──
「それじゃ。ザンマ、行こう!」
フィオナが手を伸ばす。
ザンマは編み笠をかぶると、その手を取った。
盲目である彼女の歩みに合わせ、俺たちはゆっくりと街を後にしていく。
ほどなくして、キリガミ山の麓に辿り着いた。
フィオナが、ひょいと屈んだ。
「んっ! 背中、乗って!」
「……山道を、抱えて進むのか?」
閉じた目が、見開かれそうな表情だった。
「大丈夫。鍛えてるから!」
「俺が背負おうか?」
「えぇっ! ザンマを、独り占めする気!?」
「何を言ってるんだよ……」
どうやら、ザンマを気に入ったらしい。
何を言っても聞きそうにない。
「では……甘えさせていただこう」
そう言って、彼女はフィオナの背に身を預けた。
そうして俺たちは、深い山へと足を踏み入れた。
小一時間ほど歩き──。
「いやはや、エルフというのは凄いな 」
「何が?」
「気が遠くなるほど、鍛錬を重ねたのが分かる。凄まじい魔力が、背から伝わって来るよ」
「ええーっ。隠してるのに! 分かっちゃう?」
「うむ。フィオナ殿は、熟練の戦士のようだ」
「へへ」
この短期間で、フィオナはすっかり名前も教えていた。
俺よりも打ち解けるのが早い。
……なんか、ちょっと悔しい。
「ザンマは、どこから来たの?」
「私は、東の海の向こう──東嶺大和ノ国から来た」
「あっ、人間がいっぱい居るとこ!」
「そうだ。私がいた島……ユーマ島は、その中でも小さな島国でな──」
明るい声と、静かな返答が繰り返される。
静と動。
正反対の二人だった。
「しかし、本当に素晴らしい体だ。どう鍛えればこうなるのか──」
ザンマは確かめるように、フィオナの体にそっと触れていく。
「ひゃっ。くすぐったいって〜」
……犯罪的な触診だった。
山の道中。
遠くを見渡せば、確かに霧が深くなっている場所が点在し、白く濁っている。
森に一度迷い込めば、戻れない気がした。
──ガラガラッ!
岩崩れの音。
きゃぁ──!
「今のは……」
小さいが、はっきりと聞こえた。
少女の悲鳴。
「俺、少し見てくるよ」
「あっ、緋色!」
音の方へ駆ける──
進むにつれ、霧は一段と深くなっていく。
──いた。
少女が、崩れかけた崖にしがみついている。
茶色いボロ布をまとい、肌には無数の刺青。
黒短髪の頭や首には、縄のような装飾が絡みつき、手には赤い布。
どこかの部族のような装いだ。
近づき、手を伸ばす。
「つかまって!」
片目には眼帯。
薄緑の瞳が揺れる。
「っ……」
少女は、手を伸ばすのを躊躇っていた。
「何してる。早く!」
一瞬、迷うように──
それでも、手が伸びてきた。
──繋いだ。
引き上げる。
そして、小柄な少女は静かな声で言った。
「……何で、助けたの」
さぞ迷惑そうな顔。
余計なことをしてくれたと、言いたげだった。
「えっ……」
「助けなくて、よかったのに」
予想外の反応に、俺は言葉を失った。
「私は、大丈夫だった」
「そう、か……すまない。助けを求めているように見えて、つい……体が動いたんだ」
眉を下げた迷惑そうな顔とは裏腹に、握られた手は強く、痛いほどだった。
「──もー! 緋色っ! 道外れちゃダメって言ってたじゃない!」
遅れて、フィオナが追いついてきた。
ザンマが静かに問いかける。
「その子は?」
「ああ。崖で落ちかけてたんだ」
ちら、と少女を見る。
無表情。
何を考えているか、まるで分からない。
「えーと、名前は──」
「シグリ」
被せるように、短く答えた。
「シグリは、こんなところで何を?」
「山菜、とってた……落ちちゃったけど」
視線の先、崖下は霧に沈んでいた。
ザンマが言う。
「何はともあれ、無事で良かった」
「ああ、心配させて悪かった。シグリは、この辺に住んでるのか?」
「この近く──私の村がある」
少女は、崖下へと続く細道を指差す。
さらにその先、霧が深くなる方角へ。
「でも……進む道、反対じゃない?」
フィオナが、わずかに眉をひそめた。
「この辺には、私の村しかないよ」
瞬間、握られた手に力がこもる。
「それに、こっちに進んだ方が早い。行こう……もうすぐ霧が濃くなる」
実際、周囲の霧はさらに濃さを増していた。
「まだ夜には早いのに」
「森の天候は荒れやすい。そういうこともある」
噛みつくような霧の濃さに目を細めるが、先は見えない。
「案内する」
「ああ、頼むよ。じゃあ、そろそろ手を──」
離そうとしたその時、
「ダメ!!」
「えっ」
「手……離しちゃ、ダメッ……」
少女は両手で、俺の手を掴んでいる。
離す気は、ないようだった。
「迷っちゃうかも、しれないから」
「……そう、だな。じゃあ、手を繋いだまま、行こうか」
その手は強く──強く、握られていた。
──夕暮れの気配に、霧が溶けていく。
獣道、枯れた花。
鳥も鳴かず、風もない。
「シグリは、ずっとここに住んでるのか?」
「私は……この森しか知らない」
生命が抜け落ちたような光景に、魔触の森を思い出す。
危険な気配はない。
それでも、身体は無意識に身構えていた。
「怖いの?」
「いや、そういうわけじゃ──」
「大丈夫、一緒にいる」
少女は手に力を込める。
「ちゃんと、手を握ってて」
微笑んだ。
なぜか、子ども扱いだ。
しばらく歩くと──
蛇のように、曲がりくねる大樹が姿を現した。
「うわ~! クネクネだ!」
フィオナが近づこうとすると、
「ダメ!!!!」
シグリが、鋭く声を張り上げた。
「わっ!」
「……村には、たくさんのルールがあるの」
軽く息をつき、
「これはその一つ。神樹に、近づくべからず……」
視線を大樹へと向けた。
「ここには、蛇樹羅が宿っているから」
「だきら?」
慣れぬ言葉を聞き返す。
「私たちを、見守っている神様」
「郷に入れば郷に従え。だな」
ザンマが言った。
「……ちぇ~」
フィオナは、面白くなさそうに口を尖らせていた。
──大樹から数分すると、寂れた集落に辿り着いた。
家々はあちこちボロボロで、黒焦げた跡が残っている。
農作業をしている人が居なければ、廃村と見違えるほどだ。
フィオナがザンマを降ろすと、畑仕事をしていた二人の男女が、こちらへ近づいて来た。
黒長髪の女と、黒短髪の男。
シグリと同じく、どちらも汚れた茶色の布服をまとっている。
なぜか──
彼らも、手を繋いでいた。
女が声をあげる。
「シグリ、おかえりなさい」
「ただいま。紹介する、母と、父だ」
「こんにちは」
シグリの父がそう言うと、俺は会釈し返した。
「この人たちは──」
「道で会った。旅をしているらしい」
「そう……」
二人の視線は、俺ではなく、握られた手元に向けられていた。
「ようこそ。クナシ村へ」
「じゃあ、私の小屋に行こう」
「シグリの家に、四人は手狭でしょう。
お侍様は、どうぞ私たちの家にお泊まり下さい」
「……かたじけない」
ザンマは、俺の耳元へ顔を寄せた。
線香のような、懐かしい香りがする。
「緋色殿」
「はい?」
小さく、耳打ちしてきた。
「ここは、何かおかしい」
「……」
「どうか油断せぬよう」
「何を、話しているの?」
シグリが低く尋ねてきた。
「いや。明日には、ここを出ようって話だよ」
少女の視線が、妙に落ち着かない。
俺は、その場から離れようとした。
「どこ行くの」
「用を足しに、行きたいんだけど」
「私もいく」
「えぇっ!?」
結局、シグリはついてきた。
手を全く離そうとしない。
仕方なく、片手で用を足す──
少女は草むらの前で、目をそらすことなく、じぃっと俺を見ている。
「……」
「大丈夫。別に、あなたの体に興味はない」
「そうですか……」
これ、なんて羞恥プレイ?
──四畳半ほどの小屋にて、俺たちは囲炉裏の前にいた。
鍋がことり、と音を立て煮えている。
シグリが鍋を混ぜると、土と若葉が混じったような素朴な香りがした。
手は、いまだに繋いだままだ。
「……少し嬉しい」
少女はぼそりと呟く。
「何がだ?」
「ずっと、一人ぼっちだったから」
「お母さんたちが居るじゃないか」
「でも……認められてなかったから」
どういう意味だろう。
シグリは、俺にお椀を差し出す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
良い香りだ。
一口、啜る。
──美味い。
野草の苦味はほとんどない。
出汁が驚くほど柔らかい。
身体の芯に、じんわりと染み渡っていく。
熱が、内側から満ちてくる。
肩の力がふっと抜ける。
もう一口。
……あれ。
囲炉裏の火が、なぜか滲んでいる。
まぶたが、恐ろしく重い。
──眠い。
「家族が増えて……本当に、嬉しい」
手が、握られた。
ぎゅうと力強く。
俺の横で──
シグリが、妖艶に笑っていた──。




