第二十七話「お母さん」
夏の夜だった。
蒸し暑さに目覚めると、隣にあるはずの温もりがなかった。
「お母さん?」
何かとてつもなく嫌な予感がした。
熊のぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめた。母から貰った誕生日プレゼントだ。
私の体は考える前に動いていた。
家の木扉を開け放って、外へ飛び出す。
木が生い茂る林道を抜け、水辺に沿った土手道を駆けていく。
やがて、里の外へと繋がる大門に辿り着いた。
夜の闇に、金色の長髪が揺れた。
おばあちゃんだ。
月光を受けたその佇まいは、少女と見紛うほどだ。
彼女の前には、青水色の長髪を腰に流す──お母さんがいた。
「セレナ、早く──誰も届かない遠──のよ──」
遠すぎて、言葉がよく聞き取れない。
「でも──」
母はひどく動揺している。
祖母は腰の短剣を抜くと、横を向いた。
その先には、古びた緑のローブを纏う老エルフ。
長老だ。
「掟を破れば──、──だぞ──」
彼は険しい視線を、祖母に向けていた。
胸の奥が冷たくなる。
それでも、私はおずおずと前に進んだ。
「……お母さん」
声をかけると、三人が一斉に振り向いた。
母は、とても苦い顔をしていた。
「……なんで……」
近づくと、彼女は私の頭を撫でた。
母のこんな顔は、初めてだった。
「早く寝ないと、だめじゃない……」
「寂しかったんだもん」
母は、私を強く抱きしめた。
「ねぇ、フィオナ。お母さん……ちょっと、お出かけしないといけなくなっちゃった」
「一緒に行く!」
「それは……だめなの」
「なんで?」
「とにかく、だめなの……お留守番、できるよね?」
「嫌……嫌だよ」
ぐずっていると、祖母が近づいてきて、母から私を引きはがした。
長老は無言のまま、下を向いていた。
「あとは、お願いします」
母は祖母に向かってそういうと、
「フィオナ。ごめんね……」
ゆっくりと歩き出した。
「お母さん……お母さん!」
祖母は私を抱きしめ離さない。
「離して! 離してよおばあちゃん!」
母は闇に吸われるように、大門の外へと消えていった。
祖母は、最後まで何も言わなかった。
私を抱いた力強い腕は、少し震えていた。
──翌日。
大広場には、里中のエルフが集められていた。
「セレナ・レスターは、英雄としての義務を果たさず、逃げ出した。
よって──里長として、永久追放の処分を科す。
掟破りは重罪である!
みな、己が責務を果たし──」
母は、里を捨てたことにされていた。
ほどなくして、祖母は戦争へと旅立っていった。
何一つ、語ることなく。
──。
はっと、目が覚めた。
「ここは……」
木の匂いが薫る。
青いベッドの感触に、見慣れた木目の壁。
私の、家だった。
ベッドから立ち上がると、世界が低く感じた。
壁際に置かれた鏡を覗き込むと、水色の長髪を下ろした、小さな少女が映っていた。
目の縁は赤く、涙の跡が残っている。
何度も見ている顔なのに、どこかよそよそしい。
「……」
左手で、頬に触れた。
小さな手。細い指。
薬指に、銀の指輪が淡く光った。
トントントン──
部屋の奥で、板を叩く音が聞こえた。
誰かいる。
スープの温かな香りとともに、姿を見せたのは──
私と同じ、青水色の長髪をした女性。
「フィーちゃん。おはよう」
「おかあ、さん……」
「なぁに」
胸の奥が、きゅっと締まった。
「まだ眠いの? もうご飯できるよ。座ってて」
中央の木机に腰掛けると、すぐに料理が運ばれてきた。
鶏肉と野菜が豊富に入ったスープ──
お母さんがよく作っていた、いつもの自信作。
スプーンでよそい、口にいれた。
まろやかで、どこまでも優しい風味が、喉奥を撫でる。
「美味しい……」
「でしょう! 今日のは自信があってね──」
他愛もない話を、いつもしていた。
延々と。
永遠のように。
「それでね~、おばあちゃんは昔は──」
「お母さん」
母を呼び、話を切った。
たどたどしく、言葉を紡いでいく。
「私ね。友達が、出来たんだ」
「……そう」
「里外れにいる男の子と、これから里に引っ越してくる、小さな女の子」
「……」
「里のみんなは、私を姫様って言うけど……その二人は、“フィオナ”って呼んでくれるの」
母は何も言わずに、穏やかな顔で私を見ていた。
「最近は人間にも会ってね……男の人なんだけどさ。指輪を貰ったんだ」
左手、薬指を見る。
エバーウッドに咲く白花を象った、美しい銀環。
「すごく、変な人でね──」
視界の端が滲む。
声が、震える。
「私……お母さんがいなくても……もう、大丈夫、だよ」
母は、時が止まったように、
ただ、微笑んでいた。
「もう、行かなきゃ」
わずかに濡れた頬を、腕でぬぐった。
小さかった手は、もう大きくなっていた。
母が座る向こうで、見慣れた部屋の扉が、音もなく開いていく。
黄金の柔らかな光が、零れるように漏れている。
私は席を立った。
「さようなら──お母さん」
一歩、踏み出す。
部屋の景色を、懐かしむように踏みしめる。
一歩、また一歩。
椅子に座ったまま笑う母を、越えていった。
いってらっしゃい──
声が、聞こえた気がした。
私は、振り向かなかった。
迷いなく。
光へと進んだ──。
*
「っ──!」
目を覚ますと、俺は仰向けになっていた。
暗い石造りの部屋だった。
腰を起こすと、大きな鏡がそばにある。
横を見ると、フィオナが倒れていた。
「フィオナ、フィオナ──」
「うっ……」
彼女の肩を揺する。
「……緋色」
「起きたか」
「なんだか、夢を見てたみたい」
「ああ……本当に……酷い夢だった」
彼女はまぶたをこすった。
「大丈夫か?」
「私、は──」
一瞬の無表情。
そして、すぐに彼女は笑みを浮かべた。
「全然、大したことなかったよ」
瞳の下には、赤い跡が残っている。
「そうか……」
一体、どんな夢を見ていたのだろう。
俺はその問いを胸に沈め、手を差し伸べた。
「行こう」
「うん!」
フィオナを起こし、暗い部屋を後にすると──
岩石が散らばる大広間に出た。
床のあちこちから、炎が小さく噴き出している。
遠い先には、大きく内開きした鉄門があり、外の光だけが強く滲んでいた。
終わりは近い。
根拠はないが、そんな気がした。




