第二十二話「醜悪鬼」
「ニンゲン、ニンゲンだ……グッグッグ」
暗闇の底から、湿った息が漏れた。
現れたのは──苔むした緑岩のような巨体。
皮布一枚。半裸の上半身は、鎧めいた筋肉で覆われていた。
デカい……背丈は俺の二倍以上だ。
額には短い角が二本。猪を彷彿とさせる口端の牙。
赤い瞳が舐めるようにこちらをなぞった。
醜悪な鬼の形相──書館の図鑑で見たことがある。
こいつは、緑悪鬼だ。
「……お前……喋れるのか」
侵入者を感知したかのように、小鬼が暗がりからぞろりと湧く。
「ギァアアアアー!!」
緑悪鬼は、長い爪の指で顎をぽりぽり掻いた。
そして小鬼たちを、まとめて鷲掴み──
「ウルサイ」
喰らった。
「ギァッ──」
バリッボリッと、骨肉の破裂する音が砕け響く。
冷たい風が頬に触れた。
……動けない。
濃厚な死の気配が、そこにあった。
──巨体の咀嚼音が止む。
「ゥグップ……ソレ、欲しい」
汚らしく喉を鳴らし、緑悪鬼は人差し指を上げる。
その赤眼は俺ではなく、背にいるフィオナを見ていた。
図鑑の一文を思い出す──“緑悪鬼は他種族のメスを好み、奪い喰らう”。
長命の個体ともなれば、高い知能を有し、言語すら操るに至るという。
「グッグ、グググ。ソレ、よこせ。女、女。グッグッグ」
低い重声が、腹の底を圧した。
本能で感じる──こいつは危険だ。今まで遭遇した、どの敵よりも。
「グァガァアアア!!!!!!」
咆哮に床石が震え、空間が唸った。
緑悪鬼の体表から、どす黒い魔力が濃霧のように噴き上がる。
肌がひりつく。
巨体が裂けるように隆起し、腕が倍ほどに膨れ上がっていく。
そして──
長い舌をだらりと垂らし、いびつに並んだ歯を覗かせた。
「アァ。グッグッグ……」
この塔の魔素を、どれほど吸い続けたのか──
緑悪鬼は、醜悪なる“剛腕の魔獣”へと変貌していた。
「……」
じわりと汗が滲んだ手で、フィオナの脚を握りしめる。
相手の腕は俺の二倍。距離を取れば、確実に不利だ。
──フィオナを抱えたまま、戦える相手とは思えなかった。
逃げるか。
腰下に魔力を集中させる。
「身体強──ッ……!」
ビキ、と半身が悲鳴をあげた。
限界が、近い。
水晶の扉に目をやる──あれは、果たして開くのだろうか。
試練の塔。その名の通り、今まで俺たちに“試練”を与えて来た。
目の前の障害を解決しない限り、あの扉は開かない──
そんな予感がしていた。
「──ッ!」
緑悪鬼が、豪快に前跳んだ。
床石は加速に砕け、巨体が大きく迫る。
「ヌァン!」
撃ち出す剛腕。速い──ッ!
身を捻り避けると、背後で石柱が吹き砕けた。
空気は轟と悲鳴をあげ、散った石粒が頬を裂く。
「身体強化!!」
叫ぶように痛む足を黙殺し、全力で石床を踏み抜いた。
水晶の扉へ──ッ!
ぶち破る勢いで腰を回し──
「おッらぁ!!!!」
飛び蹴りを叩き込むッ!!
ガンッ!!!!!!!!!!!
衝撃が体芯を貫いた。
それは分厚い鉄板のようだった。
「やっぱ、開かないよなぁ……!」
背後に獣圧が迫る。
「ガァア!!」
反射で横へ飛んだ。
ガァアン!!!!!!!!!!!!!!!!!
水晶の扉に、緑悪鬼が腕を突き立てていた。
大腕の筋は裂け、鮮血が噴き出している。
「オォー。イデェ……」
──魔獣の怪腕ですら破れないのか。
蹴りでどうにかなると思っていた自分が、少し恥ずかしい。
距離を取る。
遠く、さらに遠くへ。
「グッグッグ。逃げろ、逃ゲろ」
緑悪鬼から最も遠い壁際──石柱の影に身を寄せた。
背嚢とフィオナを、壁際に手早く下ろす。
「……待ってろ」
鞘から短剣を抜く。
正面突破は愚策。
余力もない。短期決着しかない。
「身体強化」
闇へ身を溶かす。魔力を絞り、気配を断つ。
柱から柱へ。低く、影の底を走った。
狙いは首筋。可動部は外皮が薄いはず。
緑悪鬼の背──死角へ。
一気駆けだ──ッ!
ガァン!!!!!!!!!
金属の悲鳴。
全力の刃は、片腕の側面で受け止められていた。
即座に飛び退く。
「グッグッグ……」
浅く裂けた皮膚を、緑悪鬼はぺろりと舐めた。
鈍い痺れが、じんと手骨の奥に残っている。
──やはり斬れないか。
膨大な魔素が、甲殻のように両腕を覆っている。
筋肉などではない。それは刃を通さぬ鋼の外皮──不壊の鎧装だった。
「オデの番」
緑悪鬼が石床を蹴り抜いた。
横薙ぎの一蹴──ッ!
真横に迫る死に、咄嗟に屈んだ。背後の石柱が轟音に爆ぜる。
「ふっ──!」
石柱にめり込んだ膝を狙い、振り下ろす。
ガァン!
刃が跳ね返る。
「──どいつもこいつもッ!」
剛腕が視界いっぱいに迫った。
「硬ぇんだよッ!」
後方へ跳ねると、剛腕が宙を斬った。その勢いのまま巨体は流れ、緑悪鬼はよろけていた。
さらに小さく跳んで間合いを空ける。
捕まれば即死だ。
「ンァァー。動くな」
距離が開いたその時、緑悪鬼は大掌を突き出した。
「大重地縛!」
「ッ!?」
俺の足元、石床が盛り上がる。それは太い鞭となり絡みついた。
足が地へ縫い付けられた。動けない──ッ。
すぐに足へ魔力を叩き込み、石縛を砕く。
豪拳が迫る。咄嗟に腕を交差する。
ゴッッッッッ!!!!!!!!!
もはや重機。轢き潰す轟撃に身体が弾ける。
視界が激震に明滅し、背ごと石柱を打ち抜いた。
ドンッドンッ!!!!
ドンッと、三度の衝突でようやく止まり──
「ぐっ……ハ、ぁ……」
赤黒い吐しゃ物が、胸元に零れ咲いた。
逆流する吐き気。喉奥から錆びた臭いがせり上がる。
肋骨の下が刺すように痛い。
身体強化では内蔵まで守れなかった。
「この野郎……卑怯だ、ぞ」
迂闊だった。魔法のことは塵ほども頭になかった。
この筋肉ダルマ、繊細そうな技使いやがって……!
「グッグッグ……お前、ヨワイ」
のそのそと歩いてくる。
醜悪な笑み──勝ちを確信した顔だ。
「舐めやがって……うっ……」
咳が喉を焼く。口を抑えた左手が赤に染まった。
浅く呼吸をしながら、懐に右手を伸ばす。
黒銃──ジューダスへ。
シリンダーを開け、銀弾を六発、しっかりと込めた。
「装、填。回転……異常なし」
壊れかけの石柱を背に、銃口を前へ突き出す。
「──とっておきだ」
引き金を握り潰す。
黒い銃身が胎動する。
飲み込むような震動に、ぐっと全身に力を込めた。
頼むぜ。黒銃!
「喰らいやがれッ!!!」
ガチン──ッ!
ダァアアアアアアンッ!!!!!!!
体が引きちぎれそうだ……!
「グッ!?」
バァンッ!!!!!!!!!
耳が裂けるほどの爆撃に、脳が揺れた。
「まだだ……!」
ガチン──ッ!
ダァアアアアアアアアン──ッ!!!!!!!
──さらに三発。
「ぐぅうッぁああ……!!!!」
撃鉄を握り叩くたび、骨を削る万力が全身を襲った。
最後の一発に、指をかけようとしたところで──
右手は震え落ちた。
──硝煙が晴れていく。
黒銃の貫通弾は、俺が行使できる最大火力。
魔獣ホーンウルフの体に風穴をあけた切り札。
もし、これが通じないのなら──
「…………これを……、」
緑悪鬼は、両腕を前に組んでいた。地面には体を引きずり堪えた跡。
皮膚は焼け焦げ、穿たれた五つの穴から骨が突き出ている。
「耐えるかよッ……!」
「ゥググ……グゥゥ……!!」
全身から血が吹き出し続けている。
銀弾は……残り七発ある。可能性はある。
大丈夫だ──
殺せる。
「ウウウウガァアアアアアアアアアアッ!!!!!」
絶叫。緑悪鬼が天を向く。
紅の狂眼が、血走り見開いた。
「卑怯者めが!!!!」
「お前がそれを言うのかよ」
失笑した瞬間、緑悪鬼は壊れた柱を持ち上げ──突き投げたッ!
「思考加速──!」
大丈夫だ。頭はまだ動く。
限界を越えたのか痛みは鈍い。
スロウに動く世界で、進む道がたしかに視える。
まだいけると心が叫ぶ。
飛翔する柱へ跳び乗り、前駆け──
俺は飛んだ、高く。
緑悪鬼の顔が左右に揺れ、ゆっくりと、上を向いた。
もう遅い。
顔前に迫る──
「ゼロ距離だ!」
黒銃を両手で構える。
シリンダーには最後の一発。
撃鉄を──引き締めた。
ダァアアアアアアアアアアアアアアン!!!!!!!!!!
空中で撃った反動で、俺は飛び転がった。
「ぐッ、うッ、くぅッ──!!」
体を小さく丸め、勢いよく転がり──
近くの柱に、バンと叩きつけられた。
「いっ、てぇ……」
緑悪鬼は──
顔が弾けていた。
内側から花が咲くように、脳がぐちゅりと漏れ落ちている。
口はだらしなく開き、折れた歯牙は震えていた。
「──グ、ガァギィイイイアアア!!!!!!!!!!!!!!!」
声帯が生む音ではない。
甲高い不気味な惨音に、両手で耳を覆った。
「っ……嘘だろ……」
赤黒に染まった肉体が、バキバキと音を鳴らす。
あれで生きてるのかよ。
皮膚が裂け、極太の白骨が突き出るように芽吹いていく。
変身している。
ドス黒い魔力が溢れ出す。息苦しいほど濃密な空気に、呼吸が浅くなった。
肋骨が脇腹に突き出る。肩の骨は外へせり出し、角のように伸びた。
醜悪な鬼の血肉は泡立ち、剣山のような“何か”に作り変えられていく。
緑悪鬼・第二形態が解き放たれようとしていた──。
「……勘弁してくれよ……」
半ば泣きそうな声で、俺は天を仰いだ。
*
戦場の隅、石柱の壁際。
遠く揺れる轟音と、皮膚を刺す異質な魔力。
深い闇の底──
エルフの少女は、静かに瞳を開いた。




