第十四話「一つの後悔」
フィオナ旅立ちの翌日。
自然と目が覚めた。
寝つきは浅く、胸の奥が妙にざわついていた。
窓辺を見ると、朝の光が床を照りつけている。
ああ──
彼女が俺を起こすことは、もうないのか。
頭がぼんやりしている。
鉛のような体を引きずり、窓を開けた。
風はやけに冷たく、ぶるっと背筋が震える。
何もする気になれない。
風牙隊の訓練を休んだことはない、のだが──
俺は大人の秘奥義、“ズル休み”を使うことにした。
ライルにはあとで謝ればいい。
今日はリーリーと、昼食を一緒に食べる約束があった。
それまで何をしよう。
……気晴らしに、書館でも行くか。
今はただ静かな場所で、落ち着きたかった。
書館に入ると、ほんのり暖かい空気が迎えた。
俺は近くの本棚から、表紙も見ずに歴史書を一冊抜き取った。
窓辺の端に歩くと、いつもの椅子に腰を下ろす。
ボロボロの古い本を開いた。
タイトルは──
『魔術師と堕神の禁書』
創生期。
魔法を極めた者たちは、男は魔術師、女は魔女と呼ばれていた。
男は身体を操る術に長け、女は外的魔法を得意とする──そんな記述が続いている。
なるほど。いまだに俺が身体強化しか満足に使えないのは、才能だけの問題ではないようだ。
適当に取った本だが、なかなかに興味深い。
──さらに男の魔術師は短命であり、極致に至る者はほとんどいない。
その時代、魔術師と呼ばれた者は、十人しか存在しなかった。
魔法界において男は弱者だった。
だから力を求めた。より強い力を。
十人の魔術師は、七日七晩の間、寝食もせず祈り続けた。
そして命を削る詠唱の果て──
ついに成し遂げた。
人の身に、神を降ろした。
だが、歓喜は束の間だった。
一人の魔術師に憑りついたその存在は、虚ろな目で前に手を伸ばし、ただ拳を握った。
それだけだった。ただ、握っただけ。
それだけで、二人の魔術師は肉塊となった。
理を捻じ曲げるほどの力を持ったそれは、残る七人を拘束し、更なる邪悪を降ろした。
世の全ての悪意を身に宿したかのような──八柱の神が、世に解き放たれた。
果てなき破壊と憤怒。
神たちは大陸を焼き尽くした。
やがて、人々は彼らをこう呼んだ。
混沌と破滅をもたらす堕ちた神、“堕神”と。
永劫に続くと思われた地獄は、後に“英雄”と呼ばれる者たちと、幾人もの魔女の手によって終わりを迎える。
多くの犠牲を払い、魔女と英雄たちは、堕神を八冊の書に封じた。
それらは“原罪の禁書”として世界に散らばり、その行方は人知れない。
無限の地獄は、こうして幕を閉じた。
過ぎた欲望は身を滅ぼす。ゆめゆめ、忘れてはならない。
筆者の名は記されていなかった。
──壮大な話だ。
まぁ、俺には関係のない話である。
しばらくすると──
本棚の影で、銀の長髪が揺れた。
「山田さん。この時間に来るのは、珍しいですね」
司書イリナだ。
「あ~……サボりです。はは」
俺は苦笑いした。
彼女はゆったり歩いてくると、俺に手を伸ばした。
長い指が優しく頬に触れる。少しの冷たさが、どこか気持ちいい。
「──随分と、顔色が悪いですね」
「ぁ……えぇ。なんだか眠りが浅くて」
「何か、お悩みでも?」
「いやぁ、そういうわけじゃ……ないんですけど」
「話せば楽になることも、ありますよ」
俺は頭の後ろをかいた。
「……フィオナのことで、ちょっと……」
歯切れが悪くなる。
何に悩んでいるのかも、正直わからない。
できることなど何もない。そのはずなのに。
イリナは、ずれた古金色の眼鏡をかけ直した。
「なるほど……山田さんは、フィオナのこと、好きですか?」
「えっ! す、好……きなのかな。わからない、ですね」
目は泳ぎ、頬には熱がのぼった。
わかりやすく動揺する俺をみて、彼女はふふっと笑った。
「そんな顔をするほどには、大切だと思っているのでしょう?」
「そう……ですね」
「大切な人を失うのは……いつだって、恐ろしいことです」
ああ──そうか。
俺はきっと…………怖いんだ。
大切なものは、いつだって壊れてきた。
大切にすればするほど、好きになればなるほど、痛みは大きかった。
死ぬことが怖いんじゃない。
誰かを必要以上に大切にすることが、何よりも怖いんだ。
「……闇に怯えていては、光は見えませんよ」
「……」
──本当にいいのだろうか?
このまま、この里で一生を終えて。
何がやりたかったのか、なぜここに居るのかも、分からないまま。
「俺は……」
変わりたいんじゃなかったのか。
ずっと過去に縛られ、後悔しながら死ぬのか。
「自分のことしか、考えられないやつで……」
フィオナの泣き顔が、いまだに離れない。
いつのまにか頭の中は、彼女で埋まっていた。
「もう、大切な人は、作らないって……」
彼女の笑顔は、もう見れないかもしれない。
……。
嫌、だな……。
「それなのに」
俺はまた、きっと後悔する。
「あれ、おかしいな」
頬に、一筋の雫が落ちていた。
悲しいわけじゃないのに。
心はずっと、痛かった。
「……三百年生きてきて、私は一つだけ後悔していることがあります」
濡れた頬をつうっと指で拭うと、イリナは目を細めた。
「大切だった人を、追いかけなかったことです」
「……」
「もしあの時に戻れるなら……身分も、里も、全てを捨ててでも──私は……あの人を追いかける」
灰色の瞳の奥に、深い海のような情と、焦がれるほどの熱を見た。
彼女のこんな顔は初めてだった。
「自分に、正直になってみてはいかがでしょう」
何も無かったように、イリナはもう微笑んでいた。
書館を出ると人の気配がした。
左に顔を向けると、壁際でリーリーが背もたれていた。
緑の横髪を指先で触りながら俯いている。
「あ~。訓練、休んで悪かった。ご飯食べる約束だよな。今から迎えに行こうと思ってたんだ」
「……行っちゃうの?」
書館での話を聞いていたのだろう。
「うーん……まだ、わからない……悩み中かな」
「──き」
彼女はぼそっと呟くと、勢いよく走り去ってしまった。
「あっ、おいっ! ご飯っ──」
小さな背中は、すぐに遠くなっていく。
「店の予約、してあるんだけど……」
うそつき──彼女はそういった気がした。
昼下がりの三十二歳。
ボッチ飯、確定。




