外交会議と赤子の戯言
秘密結社の刺客を撃退した一件で、レクスの異常性は王宮中枢の知るところとなる。そんな折、緊張状態にある隣国との重要な外交会議に、レクスは国王の計らい(という名の監視)でマスコットとして同席させられる。相手国の使者が仕掛けた巧妙な論理の罠を、レクスが「偶然」と「赤子の戯言」を装って看破し、結果的に莫大な国益をもたらしてしまう。
秘密結社「賢者の探求」の刺客を、おもちゃの羊で撃退した夜。あの事件は、俺の人生に、またしても大きな転換点をもたらした。
気絶した刺客たちは、駆けつけた衛兵によって拘束され、エリアーナが王宮へ報告したことで、事の次第は国王陛下と宮廷魔術師長の知るところとなった。
三歳の幼児が、手練れの魔術師二人を、おもちゃだけで無力化した。
その事実は、あまりに荒唐無稽で、にわかには信じがたいものだった。しかし、現場の状況と、これまでの俺の「奇跡」の数々が、その異常な出来事が紛れもない事実であることを、権力者たちに認めさせた。
結果として、俺、レクス・フォン・アルストロメリアは、「国の至宝」から、国がその総力を挙げて守り、そしてその力を管理・分析すべき「最重要機密」へと、そのランクを格上げされることになった。
屋敷の警備は、王家の近衛騎士団が担当することになり、俺の周りは常に屈強な騎士たちが固めている。エリアーナの監視はもはや言うまでもなく、俺がスプーンを落としただけで、その落下角度と初速を記録する勢いだ。
(…完全に、鳥籠の中の鳥だな)
平穏なスローライフは、もはや夢のまた夢。俺は、日に日に重くなる溜息を、ぷくーっと頬を膨らませることで、何とかごまかす毎日を送っていた。
そんなある日、国王陛下直々の使者が、アルストロメリア家を訪れた。
「レクス様を、王城までお連れするように、との勅命にございます」
またか。今度は一体何だ。そう思いながら、父の腕に抱かれて王城へ向かうと、そこには国王陛下だけでなく、宰相や大臣たちが勢揃いしており、極めて緊迫した空気が漂っていた。
「よく来たな、レクス君」
国王は、疲れた顔で俺に微笑みかけた。
「実は、君に、同席してもらいたい会議があるのだ」
同席?三歳児の俺が?
話を聞くと、どうやら、西に国境を接する軍事大国「グライフ帝国」との間で、外交問題が勃発しているらしい。問題となっているのは、両国の国境に広がる、広大な未開の森林地帯「沈黙の森」の領有権だった。
これまで、その森は、魔物が多く住み着く不毛の地として、どちらの国も領有を主張してこなかった。しかし、最近になって、その森の地下に、極めて質の高い魔晶石の鉱脈が眠っていることが発覚したのだ。魔晶石は、魔法文明における石油のようなもの。その鉱脈をどちらが手に入れるかで、国の未来が大きく左右される。
両国は、戦争を避けるため、外交交渉によって、この問題の解決を図ろうとしていた。そして、今日が、その重要な会議の当日なのだという。
「なぜ、俺が…?」とは、もちろん言えない。俺は、「あう?」と首を傾げるに留めた。
国王は、俺の疑問を見透かしたように言った。
「君の持つ、人知を超えた『何か』が、この膠着した状況を打破する、一筋の光になるやもしれん。エリアーナ君から聞いているよ。君は、いつも『偶然』、物事の本質を突く、と。それに…」
国王は、少し声を潜めた。
「…君を、この国の『守り神』として、帝国の使節団に見せつけてやる、という意図もある。赤子の君が、これほどの魔力を秘めている。我が国の底力を、思い知らせてやるのだ」
(なるほど。マスコット兼、人間核弾頭、というわけか…)
俺は、もはや反論する気力もなかった。こうして俺は、国の運命を左右する、極めて重要な外交会議の席に、マスコットとしてちょこんと座らされることになったのである。
会議室は、重苦しい沈黙に包まれていた。片側には、ユリウス国王と、我が国の宰相や大臣たち。そして、もう片側には、鷲の紋章を掲げた、グライフ帝国の使節団が座っている。
帝国の代表は、銀髪をオールバックにした、切れ者そうな初老の男、宰相ゲルハルト。その隣には、鎧に身を包んだ、いかにも歴戦の猛者といった風情の将軍が控えている。
俺は、エリアーナの膝の上に座らされ、テーブルに並べられたクッキーをもぐもぐと食べていた。会議の内容など、俺には関係ない、というポーズだ。
会議は、冒頭から、帝国のペースで進んだ。
宰相ゲルハルトは、理路整然と、そして極めて巧妙なレトリックを駆使して、自国の主張の正当性を語った。
「『沈黙の森』は、歴史的に見ても、文化的に見ても、我が帝国の影響下にありました。古い文献にも、我が帝国の民が、森の資源を利用していたという記述が残っています。よって、その地下資源の所有権もまた、我が帝国に帰属すると考えるのが、自然の理でしょう」
彼は、証拠として、何冊もの分厚い古文書を提示する。我が国の宰相も、必死に反論するが、ゲルハルトの周到な準備の前には、どうにも分が悪い。
(…なるほど。古典的な詐術だな)
俺は、クッキーをかじりながら、ゲルハルトの提示した古文書を、魔力探査で「スキャン」していた。羊皮紙の年代、インクの成分、そして、そこに込められた魔力の痕跡。俺の目には、その全てが、手に取るようにわかる。
そして、すぐに、彼の仕掛けた「罠」に気づいた。
彼が提示した古文書のほとんどは、本物だった。しかし、その中に、たった一冊だけ、巧妙に偽造されたものが紛れ込んでいる。それは、一見すると数百年前に書かれたものに見えるが、使われているインクは、まだ十年も経っていない新しいものだ。そして、その偽の古文書にだけ、「帝国が、森の所有権を正式に主張した」という、決定的な一文が書き加えられていた。
彼は、大量の本物の情報の中に、たった一つの嘘を混ぜ込むことで、その嘘を、さも真実であるかのように見せかけているのだ。我が国の学者たちが、今からその偽造を見抜くのは、不可能に近いだろう。会議は、このまま帝国の勝利で終わる。それは、我が国にとって、莫大な不利益を意味した。
(…さて、どうやって、この茶番をひっくり返してやるか)
俺が、この場で「あの本は偽物です!」と叫べるはずもない。また、エリアーナにサインを送るか?いや、それでは、彼女がどう動くかわからないし、外交の場で、彼女が突然「その本は偽物です!」と叫んでも、ただの言いがかりと取られるだけだ。
もっと、自然な形で、誰もが「偶然」だと思い込む形で、あの偽の古文書を、無力化する必要がある。
俺は、エリアーナの膝の上で、もぞもぞと動き始めた。そして、クッキーを食べてべとべとになった、小さな両手を、テーブルの上へと伸ばす。
目標は、ゲルハルトが最も拠り所にしている、あの偽の古文書だ。
「だー…、ぶー…」
俺は、意味不明な赤子の戯言を発しながら、手を伸ばした。
「おっと、レクス君。いけないよ」
エリアーナが、俺の手を止めようとする。だが、俺は、その制止を振り切り、ついに、指先が、その古文書の端に触れた。
そして、俺は、ごく微量の、しかし、極めて特殊な魔力を、その古文書に流し込んだ。
それは、物質の「時を、加速させる」魔法。
ごく短い時間、対象物のエントロピーを増大させ、強制的に風化、劣化させる禁断の魔法だ。
俺の指先が触れた瞬間、数百年の時を偽装していたはずの、その真新しい羊皮紙は、本来の「十年分」の経年劣化を一気に飛び越え、さらに数百年分の時を強制的に経過させられた。
すると、どうだろう。
ぱらり、と。
古文書は、まるで乾ききった枯れ葉のように、ゲルハルトの目の前で、音もなく崩れ始めたのだ。初めはページの端から、やがて、本全体が、茶色い塵となって、テーブルの上に、はかなく散っていった。
会議室は、水を打ったように静まり返った。
ゲルハルトも、帝国の使節団も、そして我が国の大臣たちも、何が起きたのか理解できず、目の前の塵の山を、ただ呆然と見つめている。
その静寂を破ったのは、俺の、間の抜けた一言だった。
「あー…、こえちゃった(あー、壊れちゃった)」
俺は、悪びれる様子もなく、自分の指先を見つめている。
ゲルハルトの顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。最も重要な証拠が、目の前で、赤子の戯れによって、完全に消滅してしまったのだ。しかも、その劣化の仕方は、あまりに自然で、まるで、本当に数百年経った古文書が、その寿命を迎えたかのようだった。魔法が使われた痕跡は、どこにもない。
彼は、俺の方を睨みつけた。その瞳には、信じられないという驚愕と、そして、得体の知れないものへの、純粋な恐怖が浮かんでいた。
我が国の宰相は、この千載一遇の好機を見逃さなかった。
「ほう…。ゲルハルト殿。貴殿が、我が国の領有権を覆す、最も重要な証拠としてお示しになった古文書が、どうやら、その永い年月に耐えきれなかったようですな。これでは、その本に、一体何が書かれていたのか、我々には、もはや確かめようがありません」
その言葉は、事実上の、勝利宣言だった。
決定的な証拠を失った帝国は、もはや強く出ることはできず、その後の会議は、完全に我が国のペースで進んだ。
最終的に、「沈黙の森」は、両国による共同管理、そして、地下資源の利益は、折半、という、我が国にとって、望外の、極めて有利な条件で合意がなされた。
俺は、会議の途中から、エリアーナの膝の上で、すやすやと眠ってしまった(フリをした)。
歴史的な外交的勝利の瞬間も、俺には関係ない。
しかし、会議が終わった後、国王陛下は、俺の小さな頭を、優しく撫でて、こう言った。
「…レクス君。君は、やはり、この国の『守り神』だ。君が、我々に、莫大な利益をもたらしてくれた」
(違う。俺は、俺の平穏なスローライフを守っただけだ)
そう心の中で毒づきながらも、俺は、この国が豊かになることが、巡り巡って、自分の平穏に繋がるのかもしれないな、と、少しだけ、本当に少しだけ、思ったのだった。