神の御業と賢者の代償
王都を救うため、ついにその力の全てを解放したレクス。彼が放った超位魔法は、魔王の汚染を浄化し、世界を救う奇跡となる。しかし、神の領域に触れた代償は大きかった。三歳の幼児の身体は、その絶大な力に耐えきれず、彼は人々の前から姿を消してしまう。
王都アストリアの上空、その中心に、一人の子供が浮かんでいた。三歳の幼児、レクス・フォン・アルストロメリア。彼の小さな身体から放たれる魔力の奔流は、天候を操り、大地を震わせ、世界そのものを、彼の存在に、ひれ伏させているようだった。
地上では、エリアーナをはじめとする魔術師や騎士たちが、無限に湧き出る魔物たちを相手に、絶望的な戦いを繰り広げていた。しかし、彼らは皆、天に浮かぶ、その小さな神の姿を、畏怖と、そして、かすかな希望をもって、見上げていた。
レクスは、静かに、目を閉じていた。彼の意識は、もはや、一個人のものではなかった。それは、王都全体、いや、この大陸に広がる、全ての魔力と、生命の流れと、一つに、溶け合っていた。彼は、今、この世界の理そのものに、アクセスしていたのだ。
(…見えた)
彼は、魔王の魂に汚染された、地下水脈の、全ての流れを、完璧に、把握した。それは、まるで、人体の血管のように、複雑に、そして、緻密に、この都市の、生命を、支えている。そして今、その血管の中を、死をもたらす、黒い毒が、巡り始めている。
通常の浄化魔法では、間に合わない。部分的に浄化しても、すぐに、また、汚染が広がるだけだ。
やるべきことは、ただ、一つ。
この都市に存在する、全ての「水」という、概念そのものを、一瞬で、聖なる属性へと、「転変」させること。
それは、もはや、魔法というよりは、神の領域の御業。「創世」に等しい、奇跡だった。
前世の、大賢者であった時でさえ、これほど、大規模な因果律操作魔法を、試したことはなかった。
ましてや、今の自分は、三歳の、幼児の身体。
(…耐えられるか、この身体が…?)
一瞬、不安がよぎる。しかし、地上から聞こえてくる、人々の悲鳴と、エリアーナの、必死の叫び声が、彼の、迷いを、断ち切った。
(…やるしか、ないだろうが)
彼は、覚悟を決めた。
そして、その小さな両手を、天に、掲げた。
「《――原初の光よ、万物の霊水よ、我が声に耳を傾けよ》」
詠唱が、始まった。それは、現代の魔法言語ではない。世界が、まだ、形を成す前の、混沌の時代に使われていたという、古の、「言霊」だった。
彼の声は、不思議なことに、王都にいる、全ての人々の、心に、直接、響き渡った。
「《――穢れしものを祓い、淀みしものを清め、死を退け、生を祝福せよ》」
詠唱が進むにつれて、レクスの身体から放たれる光は、さらに、輝きを増していく。彼の金色の髪は、まるで、太陽のように、輝き、その青い瞳は、星空そのものを、宿しているかのようだった。
地上で戦っていた、エリアーナは、その神々しい姿に、涙を、流していた。
(…ああ、やはり…。あなたは、人では、なかったのですね…)
彼女は、全てを、理解した。
そして、レクスは、最後の、言霊を、紡いだ。
「《――我が名において命ずる。この地に在る全ての水よ、今、その理を変え、聖なる癒しの雫と、なれ!――【大浄化】!!》」
瞬間。
世界から、音が、消えた。
王都を覆い尽くすほどの、巨大で、複雑な、黄金色の魔法陣が、空に出現した。
そして、その魔法陣から、光の雨が、降り注いだ。
それは、暴力的ではない。ただ、ひたすらに、優しく、そして、温かい、慈愛に満ちた光だった。
光の雨は、地上で暴れ狂っていた、魔物たちに、触れた。
すると、魔物たちは、苦しむことなく、まるで、霧が晴れるように、その姿を、消滅させていった。
光の雨は、黒く、汚染された、水溜りに、触れた。
すると、黒い水は、瞬く間に、その穢れを失い、水晶のように、透き通った、清らかな水へと、変わっていった。
光の雨は、戦いで傷ついた、騎士や、民衆に、触れた。
すると、その傷は、瞬く間に、癒え、失われたはずの、体力が、漲ってくるのが、わかった。
王都は、救われた。
たった、一人の子供が起こした、たった、一つの魔法によって。
人々は、武器を、下ろし、天に浮かぶ、小さな救世主の姿を、呆然と、見上げていた。そして、やがて、その呆然は、熱狂的な、歓声へと、変わっていった。
しかし。
その奇跡の中心で、レクスは、限界を、迎えていた。
(…が…はっ…!)
絶大な魔法を、行使した代償。三歳の幼児の、未熟な肉体は、その、神の御業に、耐えきれなかったのだ。
彼の身体の、内側から、魔力の回路が、焼き切れていく。骨が、軋み、筋肉が、悲鳴を上げる。
視界が、白く、染まっていく。意識が、遠のいていく。
「…レクス様!」
地上から、エリアーナの、悲痛な叫び声が、聞こえた。
彼女は、いち早く、レクスの異変に、気づいたのだ。
(…ああ、クソ…。やっぱり、無茶だったか…)
レクスの身体から、輝きが、失われていく。彼は、もはや、空中に、留まっていることさえ、できず、まるで、糸の切れた人形のように、地上へと、落下し始めた。
(…まあ、いいか…。これで、ようやく、静かに、眠れる…)
彼の意識は、そこで、完全に、途絶えた。
平穏なスローライフを、求めたはずの、彼の二度目の人生は、皮肉にも、世界を救う、英雄として、その幕を、閉じようとしていた。
人々が、悲鳴を上げる中、レクスの小さな身体は、王城の、一番高い塔へと、吸い込まれるように、落ちていった。
エリアーナが、必死の形相で、その塔へと、駆けつける。
しかし。
彼女が、塔の最上階に、たどり着いた時、そこに、レクスの姿は、どこにも、なかった。
ただ、彼が着ていたはずの、小さな、熊の飾りがついた服と、そして、床に落ちた、一枚の、羊皮紙だけが、残されていた。
エリアーナは、震える手で、その羊皮紙を、拾い上げた。
そこには、子供の、拙い文字で、こう、書かれていた。
『――あとは、よろしく。すこし、ねむる』
その日、王都を救った、幼き英雄は、忽然と、姿を消した。
人々は、彼を、「光の御子」と呼び、その奇跡を、永く、永く、語り継いだ。
だが、彼が、どこへ消えたのか、そして、彼が、何者であったのか、その真実を、知る者は、誰も、いなかった。
ただ、一人、エリアーナ・フォン・ヴァレンシュタインだけを、除いて。
彼女は、その小さな、書き置きを、胸に、強く、抱きしめ、天を、仰いだ。
「…ええ、お任せください。…必ず。あなたが、安心して、眠れる、平和な世界を、私が、守ってみせます。…だから、いつか、必ず、帰ってきてくださいね。…私の、ただ一人の、先生…」
彼女の、新しい、そして、永い、戦いが、始まろうとしていた。
大賢者の、本当の、平穏なスローライフは、まだ、もう少しだけ、先の、話。