いつかどこかできっとまた。
「いつかどこかできっとまた」そういった彼は、もういない。
「いつかどこかできっとまた」そういった彼は、私だけを置いて。
「いつかどこかできっとまた」そういった彼は、行方をくらました。
『第一章』
あれは、冬の名残を見せた三月のこと。
私は初めて失恋をした。原因は彼の浮気だった。人を信じて疑わない人生だった故に私はひどく落ちこんだ。
別れ話をした帰り道は、足が鉛のように重く体が中々前に進んでくれなかった。おまけに今日は朝からのっぺりとした雲が重く空に漂っている。時折、舌打ちのような音と共に色々な人間が私を追い越していった。まるで私の人生のようだ。
体が休憩を求めていたので、通りすがりの公園に立ち寄った。古ぼけたベンチに座ると、一筋の涙が頬をつたった。それをいいことに涙たちはしきりに私の目から流れ落ちていく。
どうして泣くのだろう。別れを切り出したのは私なのに。この涙はなんなのだろうか。そう自分に問いかけてみたけれど答えが返ってくることはなかった。
彼は何度も引き留めてくれたのに。
私は、りんりんと泣いた。
すると、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。こんな時に雨だ。私の人生はこんな時に、の連続だ。
雨はだんだんと強くなっていき、あっという間に洋服をびしょびしょにした。下着まで濡れている。別れ話の切り出し方を考えて家をでたため天気予報を見るのをすっかり忘れていた。
でも、ちょうどいい。このまま感情までも綺麗さっぱり流してしまいたい。そうすれば私が涙を流す理由は何一つなくなるのだから。
どれくらいそうしていただろう。しばらく雨に打たれていると、体が悪寒を訴えていることに気がついた。
寒い・・・・
両腕で体をこすってみても意味がなかった。
「大丈夫、ですか?」
その時、雨の音に消えてしまいそうな声が頭上からした。
顔を上げると若い男性が浅葱色の傘をさして立っていた。
透明でも、黒でもない。雨の日に浮いてしまいそうな。でも、やさしい色だった。
「風邪ひきますよ」
柔和な声でそういうと、彼は私の隣に遠慮なく座った。
「あのお尻濡れますよ?」
私はようやくそれだけ口にした。
「もう濡れてます」
彼は私に微笑みかける。栗色の目が弧を描いた。
「ぼく、雨が好きなんです」
私が俯いたままだったので彼はつづけた。
「雨の匂いとか雨の音とか。それから雨の日に家の中にいると、なんか家が秘密基地みたいな感覚になったりするところとか。
彼はそこで、はっとした顔になり「変ですよね。初対面なのにごめんなさい。ぼくだけなのかな?」
私は尻目で彼を見た。
「いや、なんかわかります」
「ほんとですか?なんか嬉しい」
くしゃっと笑う彼が可愛くて、頬が緩んでしまった。
気が付くと彼は私が濡れないように傘をさしつづけてくれていた。
私の涙にも気がついているはずなのに、その理由を訊かずにただ他愛もない話で寄り添ってくれた。
私に少し笑顔が戻ってきたタイミングで彼が傘を差し出してきた。
「では、これを」
「え?そんな、受け取れません。あなたが濡れちゃうじゃないですか。私は大丈夫ですから、どうぞお気になさらず」
「ぼくは雨に打たれるのも好きなんです。ちょうど傘がいらなかったので」
笑いながらいう彼はどこまでが本気でどこまでが冗談なのかわからない。
彼は、私が困っている隙に傘を握らせ早々と腰を上げて歩きはじめてしまった。
「あ、あの!」
思わず立ち上がって後ろ姿に声をかけた。
彼は顔だけを振り返らせ、優しい笑顔で「いつかどこかできっとまた」と言って軽く手を振った。
早足になることもなく、雨の中へゆっくりと消えていった。
私の足はいつの間にか軽くなっていた。
彼は錬金術師なのかもしれないなと、ぼんやり思った。
『第ニ章』
平日の昼過ぎの喫茶店は、いつも閑散としている。私はハイエース三台分ほどの広さの店内で一人、テイクアウト用の紙袋にシールを貼っていた。このお店は喫茶店のほかにプリンのテイクアウトも行っている。
高校を卒業し、看護学校に進んだ私は、無事看護師になれたのだが一年たらずでやめてしまった。圧倒的な女社会、人の命を担う責任の重さ、その他残業や夜勤などが相まって耐えられなくなってしまった。そんな矢先にずっと支えてくれていた彼の浮気が発覚した。初めての彼氏だった。順風満々だったのに、私はどん底に突き落とされてしまった。
私の細かい性格が気に入らなかったのだろうか。例えば、シールを貼る作業では文字が傾かないよう目を凝らして、少しでも文字が傾いていると張り直したい気持ちになるところとか。
そんな風にシール貼りに没頭していると、誰もいないはずの店内から自分以外の声がした。
「こんにちは」
突然の声に私は手をとめ、肩をはねらせた。振り返ると、カウンターの前に一人の青年が立っていた。
作業に集中していたため来店のベルに気が付かなかったようだ。
「・・・いらっしゃいませ」
間延びした声が口から吐き出された。
顔を見た瞬間、思わず息をのむ。
あの時の・・・・
雨の公園。傘と詩的な言葉だけを残して立ち去ったあの人だ。
私の手元にはあの時の傘が今も家にある。
「プリンを一つください」
その声は、あの日と同じで静かな響きだった。どこか淡々としていて、でも冷たくはない不思議な距離感。
「えっと・・・この前はありがとうございました。あの、傘、ちゃんと洗って返したくて」
「いえ、大丈夫ですよ。あげたつもりだったので」
にこっと笑って、彼がいった。まるで私が言葉に詰まることを最初から知っていたような表情だ。
「でも、返せるきっかけがあってよかったです」
私はこのチャンスを逃したくなくて少し焦りながら言葉を紡いだ。
「もしよかったら今度食事にでも・・・」
「食事?」
「はい!・・・その私は今日とかでも全然いいんですけど」
彼が少し困ったように笑うので私は慌てて訂正に入る。
「あっ、ごめんなさい。いきなりすぎて・・・迷惑ですよね」
「あっ、いや、今日はピアノを弾かないといけなくて」
「ピアノ?」
「はい、夜のカフェで。こう見えてアマチュアピアニストなので」
彼の栗色の目が細くなる。そして彼はつづけた。
「もしよかったら、今度美術館に付き合ってくれません?」
「え?」
「ぼくの好きな画家の企画展、今ちょうどやってて」
「はい、行きたいです!」
私は食い気味にいった。
「はっ。よかった。断られたらどうしようかと思った。あっ、ぼく五月女かえで、です」
彼はぺこりと頭をさげる。
「私は南青空といいます」
「次のお休みは?」
「明後日の水曜日です」
「じゃ、明後日、お昼に美術館前集合で」
彼は一番人気のプリンを買い、あの時みたいにゆっくり遠ざかっていく。
あの時と違ったことは去り際に、「いつかどこかできっとまた」とは言わなかった。代わりに、「じゃ、明後日のお昼に美術館前で」といった。
扉が閉まった直後、この店の常連で中学からの親友のさえが入れ違いで入ってきた。
「おじゃまー。おつかれ青空!今誰かと話してた?」
「あっうん。男の人。私たちより少し年下だと思うんだけど。お店の外ですれ違ってない?」
「いや、お店周りは誰もなかったけど」
「え~。おかしいなぁ」
「ちょっと、青空。お化けでも見てんじゃないの~。やだやだ。それよりいつものちょうだい!」
「お化けとかやめてよ~。はいはい。アイスココアとプリンね」
私の違和感は幼なじみの対応をすることですぐに霧散した。
五月女かえで・・・
名前すら詩的に思えた。
『第三章』
待ち合わせ場所に着いたのは予定より十分早かった。美術館の門の目には、紫陽花が咲いていて私はその花の色に目を奪われていた。
「おまたせしてすみません」
その声で振り返ると、かえでくんがまるで最初からそこにいたみたいに立っていた。
「さっそく入りましょうか」
かえでくんの合図で美術館に入った。
駅から少し離れた路地に、それはひっそりと建っていた。看板も小さく、入り口も目立たない。『美術館』と名乗るにはあまりに控えめな佇まいだったけれど、その静けさはなぜか安心できた。
扉を開けると、展示室はひとつだけ。声をひそめる必要もないくらい誰もいなかった。
世界から少しだけ離れた場所のようだ。
展示室の中は、まるで誰かの夢の中みたいだった。いくつかの油絵が壁にかかり、額の中で色だけが呼吸をしている。
空調の風がふたりの間を通り抜けていった。壁に沿って並んだ絵画の前をゆっくり歩いた。ひとつひとつの絵に、かえでくんは特に反応を示さない。私もどこか黙っていた。
けれど、その沈黙は自然と心地よかった。
私は、ある一枚の絵の前で立ち止まる。
作品名は『不在のしょうめい』
そんなタイトルの抽象画は、まだ途中のように見えた。色も形も曖昧で、答えが置かれていないみたいだ。
「これ、何が描かれているんだろう」
ぽつりと呟いたその声に、かえでくんが応える。
「いないことを、確かめたいんだと思う」
「・・・いないこと?」
「うん。いるように見えるものって、どこかで不安になる。でも、最初からいないって思えたら、それってもう安心なんだよ」
言葉の意味を掴めないまま、だけど、それがどこか遠くの自分に向けられた言葉のように感じて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「あのね」
かえでくんは絵の前で足を止めたまま、私に顔を向けた。
「描いても、描いても、自分の思っている色にならないことがあるんだ」
少し笑ってから、つづける。
「それでも筆は止められない。余計こわくなるから。置いていかれているみたいで。」
私は言葉が出なかった。ただその声だけが、空気の中にやさしく響いていた。
「・・・それでも描き続けるのが好きなんだけどね」
私は控えめに笑って、「もしかして、この絵かえでくんが描いたの?」
「さぁ~?」
かえでくんも私に倣って笑ってみせた。
出入り口近くに、ひっそりと絵葉書が不造作に並んでいる。私は記念に一枚とってポケットにしまった。
美術館を出ると夏の始まりを感じさせる風が頬をなでた。
歩き出した矢先、かえでくんが足を止めた。
「あ」
小さな美術館の隣に、それよりもっと小さなパン屋さんがあった。
柔らかいクリーム色の壁、木の扉、そして看板に書かれた文字。
『空のたね』
「・・・たねって、蒔いたら何が咲くんだろう」
ふいにそういった私に、かえでくんは微笑んで言った。
「焼きたてのメロンパン・・・じゃない?」
二人は笑って、メロンパンが咲くパン屋の扉をくぐった。
扉を押すと、どこかで誰かがそっと鍵を巻いたように、オルゴールの音がふわりと鳴りはじめた。どこかで聞いたことのある、でも思い出せない旋律。
「このお店いいね」
かえでくんが足元を確かめるように歩きながら言った。
かえでくんの提案でメロンパンを一つだけ購入する。
お店を出て美術館の裏手にあった、テラスのベンチに腰掛けた。
私は、膝に置いた紙袋からメロンパンを取り出して半分にちぎる。
半分をかえでくんに渡す。
かえでくんは、袋の上からパンの表面を指先でそっとなぞっていた。
なにかを確かめるように。あるいは愛でるように。
「・・・かえでくんって、ひとりでいるの平気?」
言葉が、呼吸のようにこぼれる。
「うん、平気だよ。むしろ、ひとりって風の音がよく聞こえるんだ」
かえでくんは空をみた。雲がゆっくりと、午後と夕方の間を渡っていく。
「みんな、ちゃんと誰かといなきゃって思うんだよね。恋人とか。友達とか。それが正しい生き方みたいに言われてさ、ひとりだと間違ってる気がしてくる。」
「間違ってるって、誰が決めたんだろうね」
私は咄嗟に、「社会、とか?」
かえでくんは空に小さな雲が浮かんでいるのをじっと見ていた。
「ぼくね、小さい頃、雲は誰かの忘れものだって思っていたんだ。あのふわふわで形の決まらないやつ。何者かになれなかったまま、空に漂ってるって」
私は、黙ってかえでくんを見た。
「でもね、それって悪いことじゃないんだよ。何者でもないから、何にでもなれるんだ。誰かの隣にいなくても、風に乗ってどこにだって行ける」
「自由って・・・少しさびしいね」
かえでくんは笑った。風の音みたいに。
「そうだね。でもさみしいってことは心があたたかい証拠だよ。冷たくなっていたら、きっと何も感じなくなるから」
沈黙がふたりの間をゆっくり渡っていく。
やがて、「青空さん。ぼくらは誰かに許されなくても生きていいんだよ。咲き方も。歩き方も。決めなくていい。ただ、生きてるだけでちゃんと世界の一部なんだ」
かえでくんは時計を見て、「そろそろ行かなきゃ。ピアノの時間だ」と言って立ち上がった。
袋の中に残った小さなパンを一つ取り出し、それを私の手にそっと乗せた。
「いつか、どこかで、きっとまた」
そう言って歩き出した背中は、夕方の茜色の光に溶けていく。
ほんのすこし、雨の匂いがした気がした。
『第四章』
最近は季節通り、雨が降る日が多くなった。ふたりは、雨がやんだあとの道を歩く。
川沿いの道。濡れたアスファルトが、うっすらと空を映していた。
「湿気がまだ残ってる」
私は雨あがりに木の葉が落とす雫のように言う。
「季節が息しているんだよ」
風が抜ける。
どこまでも続いていく道を、かえでくんは全身で自然を感じながら歩いているようだった。小さな橋の真ん中で、SLが通りすぎるのを待った。
「どうして人は色んな事に悩むんだろう。人間関係や自分の容姿のこと将来のこと」
かえでくんがこちらに顔を向けたのが目尻でわかった。
「それは、生きようとしているからだよ」
「え?」
「大抵の悩みは、明日地球が終わるってなったら解決するものばかりじゃない?だから悩むって生きることに真剣に向き合っている証拠だよ。それってとっても素晴らしいこと」
ぼやける視界の先でSLが汽笛を鳴らしながら通り過ぎていく。
やがて煙だけがそこに漂っていた。
「はぁ。色んな事が思い通りになったらいいのになぁ」
かえでくんは声をひそめるように笑いながら、「真理だね。ぼくもそう思う」と言った。
ふたりは来た道を戻ることにした。交差点までやってきたところで、かえでくんは足を止める。
「今日はここまで。ピアノ弾きに行かなきゃだ」
「うん、またね」
手を振って、足音がすぐに雨の名残に溶けていった。
ひとりになった私は、足を公園に向けた。濡れたベンチにハンカチを敷いて、腰かける。
なにもない時間。でも何かが足りている気がした。
そこへ、ふわりと白い影。サモエドが雲のかけらみたいに近づいてきた。
「・・・こんにちは」
話しかけてみると、ちょっと首を傾げておすわりをした。濡れた鼻が私の手の甲を少しだけ押した。
あたたかい体温。あたたかい生き物の重さ。
「・・・どこの子?」
問いかけたとき、後ろから優しい声がした。
「その子、うちのなんです」
振り向くと、淡い色の服を着た青年が立っていた。髪に少しだけ寝癖があって、でもその無造作も似合っていた。
あたたかい午後がはじまった。
『第五章』
夕方になると風が少し冷たくなる。夏の終わりの気配が風の端っこにぶら下がっているようだった。私は今日の任務を終え、お店の外のベンチに座っていた。
「動かないで」
かえでくんがそういって、スケッチブックを取り出す。私はそれに従って、斜めの視線を夕日に向けた。かえでくんの絵を描く姿を見るのは初めてのことだ。その貴重な姿を凝視したい気持ちを抑えながらモデルに従事した。時折、風のいたずらで髪の毛が揺れる。鉛筆の芯が紙の上で走る音だけが、かすかに聞こえた。
しばらく、沈黙がつづいたあと、私はひとり言のように呟いた。
「最近、ちょっとだけ・・・いい感じの人ができたの」
かえでくんは鉛筆を止めなった。そのままの動作で目だけを私の方に向ける。
「その人、サモエドを飼ってて、おかしいんだけど寝癖が似合うんだよね」
「そっか」
かえでくんの「そっか」は不思議な温度をしていた。喜んでいるような、少しだけ寂しそうな、でもどこか肯定しているような。
描き終えたスケッチブックをそっと閉じ、かえでくんはその表紙に手を添えた。
ペンを取り出して、淡いインクで小さく文字を書く。
Kaede‘s
「それは?」
「ぼくのサイン」
少し間を置いて、かえでくんはつづけた。
「青空。どこかに行くのは逃げるのとは違うよ。向かいたい方を選ぶっていうだけ。誰にも間違いなんて決められないよ」
「うん」
「だから大丈夫。青空がこれから出会うこともきっと大切な時間になる」
その声は、静寂で幽玄だった。
「じゃまたね」
かえでくんはカバンを持ち上げて、「いつかどこかできっとまた」といい軽く手を振った。
雨なんて降っていないのに、その後ろ姿は雨に打たれているようだった。
一瞬、すごい風が横切った。
目を開けると、そこには誰もいなかった。
「いつかどこかできっとまた」
それは別れの言葉だった。
『第六章』
ベッドの上に仰向けになって、天井をぼんたり見ていた。風がカーテンをそっと揺らしていたけれど、それは音もなく、まるで夢の続きみたいだった。
枕元には、かえでくんが描いてくれた一枚の絵。
夕日と横顔。
すこし褪せて見える。
今日はお休みで、夜には親友のさえと食事の約束がある。
私は机の引き出しを開けた。小さな封筒の中から以前訪れた美術館で配られていた絵葉書が出てくる。どこか懐かしい風景。空の色、風の筆跡。その片隅に小さな文字を見つけた。
Kaede‘s
目を凝らさないと見えない小ささだ。
胸の奥がきゅうとなる。思わず体を起こして絵葉書を握ったまま部屋を飛び出した。
その場所を見つけるのに、少し迷った。地図を頼りに歩いているはずが、なぜが風景が違って見えた。角を曲がるたびに、思い出が遠ざかっているような気がした。
ようやく辿りついた先に美術館はなかった。そこには『焼き菓子と紅茶のお店』という、かわいらしい看板がぶら下がっていて、白いカーテンのかかった窓からは甘い匂いが流れていた。
あのとき、かえでくんの絵が並んでいた白い壁も、陽だまりの差し込む廊下も、小さなパン屋さんも見当たらなかった。
あれは夢だったのかなと私は思った。けれど、手の中にはたしかにあの日もらった一枚の絵葉書が残っている。
裏には「Kaede‘s」のサイン。
あれだけは、たしかに現実だった。
この世界には、ほんとうにあったのに、いつの間にかもう存在しないものがある。
それは優しかった午後と、静かな目をした人と、名前を呼ぶ前に去ってしまうなにか。
私は、いつの日かメロンパンが咲いていたお店の前で少しだけ立ち止まり、そのまま絵葉書をポケットにしまった。
夜、さえと待ち合わせていた小さなイタリアンのお店で、ふたり向いあってパスタを食べた。話題は仕事や昔の話、最近の出来事。
私はワインを少し口に含んだあとで、ぽつりと言った。
「最近まで、ちょっと不思議な人と過ごしていたんだ」
さえはフォークをとめて、「不思議な人?」
「ピアノを弾く人で絵を描いてて・・・あのね、最初は雨の日だった。傘を貸してくれたんだけど」
間を置いて、「名前は、かえでくん」
名前を言ってみると、急に彼の姿が遠くなったように感じた。さえはしばらく考えるような顔をしていたけど、やがてこう言った。
「それって、青空自身なんじゃない?」
「え?」
「いや、なんていうか。誰かのようで自分自身みたいな存在。そういう人、いるでしょう?出会っているようで、心の中を歩いているような」
さえは一度、ロゼのワインで唇を湿らせて再び口を開く。
「かえでくんって、もしかしたら青空の心だったのかもしれないね。泣いてばかりの青空に、雨の日に傘を差し出してくれたのは青空自身だったのかもね」
その夜、帰り道の風がやけに心地よくて、私は遠回りをした。通いなれた道のはずなのに、月の光が照らす影が少しだけ違って見えた。
『第七章』
夕暮れ時の公園は今日も小さな子どもたちの笑い声であふれていた。
今日はいい天気だ。空は泣いていない。
私だって泣いていない。
ふと思いついてポケットから折りたたみ傘を取り出してみる。
「・・・あの人の傘って、ちょっと重かったんだよね」私の声はすぐに子どもたちの声にかき消される。
少しだけ、笑ってみる。ほんの少しだけ。
『いつかどこかできっとまた』
それは、さようならじゃなくて再会の約束だったと、私はようやく思えるようになった。
「ワン!」
「青空~!」
私は寝ぐせが似合う人と真っ白な毛並みのかわいい犬に軽く手をふって応える。
もう傘はいらない。
でもさ、また会えるよね。
今日も街のどこかで詩的な言葉を並べながら絵を描いてるんでしょう?
最後に私から祈りをこめて。
『いつかどこかできっとまた』