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寸竹亭主人

作者: 佐仁

 中村和隆の2022,10

 キリマンジャロの香りがあたりに広がった。それは記憶の中の墨の香りと結びつく。

 そして、僕は寸竹亭さんを思い出す。

「ねえ、カズくん」

 沙也香に呼ばれた。

 子供たちは新しくできた自分たちの部屋で遊んでいる。

 お湯を注ぎ終えるとガラスのコーヒーサーバーにゆっくりとコーヒーが落ちていく。

 沙也香がいる部屋に向かう。ダイニングに入りきらなかった食器の入った段ボールが廊下をふさいでいるし、持ってきた本も本棚に入らずに積まれたままだった。

 段ボールをまたぎながら二階の北向きの六畳の部屋に入った。そこは僕の部屋になる予定だ。空の本棚が壁にくっつけてあって、木製のデスクが隣においてある。

 部屋にはジャージを着た沙也香が、イスに座って古い木の箱の中身を見ていた。僕の硯箱だ。はげた漆と擦り切れた螺鈿がはめ込んである。寸竹亭さんからもらったものだ。

「ねえ、この硯箱はずっと持ってるよね」

 彼女が開けた箱の中には筆と硯が入っている。包んでいた風呂敷は机の上に置かれている。

「書道の先生からもらったんだよ。その先生もさらにその先生からもらったものみたい」

 箱の中から筆を手に取った。きれいに墨をふき取っておいたから固まってはいない。

 時々、家でも練習しようと思うから持ってきていた。

「じゃあ、今度何か書いてみてよ。百人一首の歌とか古今和歌集とか」

「なかなか難しいものをリクエストするね。いいよ。書いてみるよ。何がいい?」

「そうね。あれがいいな。ちはやぶるってやつ」

「業平ね。いいよ。手本が確かあったはずだし」

 僕は段ボールに入っているだろう手本を探しに行った。入れたであろう段ボールを片っ端から開けて、散らかった廊下にさらに本が積み上げられていく。二十冊くらい本を広げるとようやくかな書きの百人一首の手本が出てきた。

 ぺらぺらとページをめくっていると僕の肩越しに沙也香がのぞき込んできた。

「何が書いてあるか読めるの?」

「うーん、ある程度。まあ、それなりの時間やってきたから。すらすらは読めないけど」

「すごいね。長くやってたんだね」

「ブランクがあったりするけどね」

「でもすごいわ。この箱はいつもらったの?」

「十一、二年くらい前だよ。結婚する前に一人で松本に行ったことあるだろ?そのときだよ」

「確かにあったね」

 僕はコーヒーのことを思い出して、沙也香をダイニングへ誘った。二人分のコーヒーカップに注いで沙也香に一つを渡す。

「でもさ、あの硯箱もかなり年代物だよね。それをもらうなんてその先生にかわいがられたんだね」

「そうだね。その先生にお世話になっていたのは小学校から中学校にかけてだったよ。」

 ひとくちコーヒーを飲んだ。すこし冷めてしまっている。

「きっとカズくんがいい生徒だったからじゃない?」

「そうかな」

「そうだよ。どんな先生だったの?」

「ふつうのお爺さんだったよ。近所の会社をやってた昔からのお金持ち。その人には最初、授業の発表のための話を聞きに行ったんだよ。みんな寸竹亭さんと呼んでたから、僕も同じように呼んでいたよ」

「すんちくてい?」

「うん。広い庭に離れを作って、寸竹亭って名前を付けたんだよ。本名は斎藤善次さん」

 僕は今でもその建物のことを思い出す。四畳半の小さな離れで社会科の話をしたし、習字もした。今はもう更地になってしまって跡形もなくなっている。

 僕は壊されたことは残念だと思った。寂しい気分になったけれど仕方がない。寸竹亭さんの息子たちは彼の趣味に理解はなかったから。

「その寸竹亭さんがどんな人だったか聞かせてよ。カズくんそういったことをあんまり話してくれないから」

「そうだね。長いよ。多分」

 彼が話をしてくれたことは今でも記憶している。通っていた時は楽しかった。

 今でも荷物にはその時の手本があるはずで、今ではそれは宝物だ。硯箱と一緒に入れていたから、口が開いた段ボールの中から封筒を出した。畳んだ紙が入っていた。いい紙ではないから時間がたって陽に焼けて茶色が濃くなっている。

 手本と一緒に僕が書いた寸竹亭と書いた紙も出てきた。それは手本の文字に追いつていないことを教えてくれている。


 中村和隆の1993,6

 僕は困っていた。社会科の課題としてこの街の歴史で興味のあるものを一つ選んで、発表する課題を課せられたからだ。

 何も興味のある事柄が思い浮かばなかった。クラスメイトは、グループを作って、身近にある農産物や商店や交通事情を調べられるように準備を進めていった。

 しかし、一緒に研究をするようなクラスメイトは居なかった。だから一人で僕は図書館へ行って、地域の資料のあるコーナーへ行った。しかし、そこへ立っても古くて分厚いそして挿絵のない本が並んでいるだけで、何を調べるべきかわからなかった。僕はそこであきらめたのだ。

 仕方なく祖父に相談した。すると、僕に寸竹亭さんについて発表すればいい、といった。その時は寸竹亭さんのことなどほとんど知らない。近所にある大きなお屋敷に住んでいて、市内に大きな工場を持つお金持ちくらいの印象だった。

 そして、遠慮もなく上がりこんでいる間は、ずっと話好きのおじいさんだった。きっと、周りの大人は父母や祖父母やそれを見ている人たちは、何をそんなに呼ばれていると思っただろうし、寸竹亭さんの邪魔をしないか心配していたはずだ。今になればそれも考えが及ぶ。

 当然いきなりそんなところに行けるわけもないと思っていた。僕が祖父に返事をあいまいにした後にはすぐに寸竹亭さんに電話をかけ始めている。祖父の後ろで電話のやり取りを聞いているが、向こうからも歓迎する大きな声が聞こえる。祖父は年をとってから町内会や様々な会の旅行に参加していた。多くは日帰りだったが、ときどきは一泊するものもあった。祖父と寸竹亭さんのつながりはその場で作られたもののようだった。

 約束の日に寸竹亭さんの家に行くと奥さんの案内で大きな門から母屋に通されることなく直接茶室に導かれた。庭は隅々まで手入れがされていて落ち葉も雑草もなかった。季節が移り変わってもいつでも緑や花を楽しめるように木の植え方にも工夫がされていた。庭の隅には山が作られ、そこから池へと水が流れるようにされていた。

 いつもは塀の上から見える部分しか見たことがなかったが、見慣れた街に僕の全く知らない場所があって、新鮮な気持ちでいた。

 寸竹亭という凝った作りの茶室で、そのそばに女竹を植えてあった。それは彼の先生から名前を拝借したとも言っていた。その人の写真も見せてもらったことがある。セピア色で輪郭もほとんどぼやけている人物の写真だった。

 そして案内をしてくれた奥さんは僕を茶室の前においてどこかへ姿を消してしまって、どうしようもなく突っ立っていた。

 きれいに手入れをされた竹が青々とした葉を茂らせていて、細工のために切った竹が新聞紙の上に並べて干してあった。

「それはこれから筆にする竹だよ」

 そう声をかけられ僕は誰が見ても分かるくらいびっくりしていただろう。漫画のキャラクターの様に。

「中村といいます。こんにちは」

 恰幅のいい、和装のおじいさんが僕の後ろに立っていた。形のいい頭にはわずかばかり白い髪の毛が生えている。でっぷりとしたおなかは和装姿にとてもマッチしていた。僕は、子供ながらにお坊さんとしか思えなかった。

「竹は満月の日に切るといい竹になる。満月に向かってきっと水分が上へ上へと上がってくるからかもしれない。昔、私の先生に言われたことだよ。三日前が満月だったから、切ったばかりだよ」

 挨拶も僕はまともにできなかった。小学三年生であったが、実に無作法な子供に映ったかもしれない。しかし、寸竹亭さんはにこにこ笑いながら僕の頭を撫でた。そして、肩を軽くたたきながら、庵へと案内してくれた。 

 茶室の中は古めかしい陶器の花瓶や使い込まれた棚板があった。僕はかしこまった気持ちになって、座布団の上に正座をした。

「名前は何だったかな」

「中村カズタカです。カズは和風の和で、タカは西郷隆盛のタカです」

「そうか。ちゃんと挨拶もできていい子だな。中村さんのお孫さんだ。それで、何を聞きに来たんだ?」

 寸竹亭さんは優しく僕に話を聞いてきた。

「えっと、町の歴史です。それを発表するんです。」

「この町のかい? どんな件について?」

「なんでもいいんです。でもテーマを一つ決めなさいって先生からは言われています」

「そうか」

 そう言って彼は腕を組みました。たくさん知っていることを頭の中から探しているようでした。

 僕が知りたいことを寸竹亭さんがすべて教えてくれた訳ではなかった。僕は寸竹亭さんが見せてくれた古いアルバムを見ながら、話をしてくれたことをメモしていった。

 寸竹亭さんが話しをしてくれたことはとてもたくさんあった。だからその日一日だけでは終わらないようだ。発表までは二週間の期間があったから、一週間毎日来るように言ってくれた。

 それから彼は僕に自分で淹れたコーヒーを出してくれた。

「あいにくジュースの買い置きがなくて。抹茶なんて堅苦しいのよりもこっちのがいいだろう」

 茶室でコーヒーは合わない気がしたけれど、

 熱くて苦くて飲めなかったから、たくさんのミルクと砂糖を入れた。香りも味も変わってしまったが、おいしいと言うと寸竹亭さんはにっこり笑った。

 話を聞いて次の週はまとめて模造紙に書いていく週に決まった。次の日も同じように寸竹亭さんの家に通うことになった。

 彼が話をしてくれたことは個別的な特殊な出来事だった。いつからこの町に電気が通って、いつから汽車から電車に変わったのか。それにお金を出したのは誰だったのか。

 寸竹亭さんからすればそれは同業の先輩であったり友人であったりしてその話しぶりはとても近しい人の言葉だった。でも僕にとってはその人たちは全く知らない、縁もゆかりもない人で、僕の距離感で文章にするのはとても苦労した。

 寸竹亭さんから写真を数枚コピーしてもらいこの町で鉄道がどのように進展して衰退して今に至ったのかという発表をすることができた。それを作った商売人の伝説や、その人たちを生んだ町の歴史。この城下町の発展の経過をすべて寸竹亭さんは拾い上げて、教えてくれた。寸竹亭さんは発表を聞いてみたいと言ったけれど、公開していない授業を外部の人間が見ることはできなかったからとても残念がっていた。

 代わりに発表に使った資料や原稿を渡すことにした。そうすると寸竹亭さんはことのほか喜んでくれていた。

 そうしてお礼を言った日に、彼に書道をやらないかと言われた。その場で「うん」と答える。それから寸竹亭さんは先生になった。

 寸竹亭さんはよく古い書を見せてくれた。コピーとか本になったものではなくて実際に書かれたものだった。掛け軸になっていたり、切り取って本の形になっていたものだったり。それは寸竹亭さんの先生が彼にあげたもので、いつも「これは宝物だ」と言っていた。筆の動きがわかるくらい力強く書かれていた。寸竹亭さんは筆の動きを示しながら書き方を丁寧に教えてくれた。

 そして寸竹亭さんはしばしば時間が過ぎるのを忘れてしまうくらい話をしてくれた。話を聞くのが面白かったし、疲れることも苦にならなかったので、日が落ちてから僕の家から電話が掛かってきてようやく夜の七時を過ぎていることに気がついたこともあった。

 暗い道を一人で帰すのは危ないからと寸竹亭さんは一緒に帰ってくれた。家に帰ったとき寸竹亭さんは僕の母親に頭を下げてくれた。

 それがあってからも寸竹亭さんの家に通った。彼の書道は塾とか学校とは違う、実践的に書いていくものだった。彼は僕が書いたものをじっくりと見てから、直すべき箇所を指摘する。

 どれくらい上手な筆文字が書けるようになったのか客観的な数値はない。級も段もない。感覚ですこしずつ難しい文字を書いていったし、細字のかな文字も書いた。

 書道が終わるといつも彼は僕にコーヒーをごちそうしてくれた。

 寸竹亭さんは何枚かの手本を書いた。それを同じように書いていく。そうやって少しずつ寸竹亭さんを受け継いでいくことになった。


 斎藤善次の一九二五、四

 桜が咲き始めるころです。外から帰ると私は父から呼ばれ応接間に行くと、ひょろりとした男が父の対面に座っておりました。

「義次、ここへ座りなさい」

 父は自分の隣を指さしたので、私は隣の畳の上に正座をして神妙にして座ります。

 帝国大学を卒業したばかりの青年が私の家庭教師になりました。父は私が中学校から帝国大学へ進んでいくことをずっと望んでいるのを知っていましたから、そのような人が来ても驚きはありませんでした。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ。私はあなたのお父様の願いをかなえるために力を尽くします。ですからあなたもくじけずに努力してください」

 次の日から週に二回自宅にやってきて、学校の授業とは別に一通りの教科を教えられました。

 その家庭教師は非常に自信のある態度でいつも接してきました。彼が父とどんなやり取りをしていたのかはわかりませんが、必ず私を大学へ入れようと力を注いでいました。

 十二歳の私から見ると二十歳過ぎの家庭教師はとても大人に思えました。

 私は彼のもとで、父の要望に応えるように努力しました。

 父は私に自分のことをよく話をしてくれました。血のつながりはあるけれど、遠く離れたよその家からやってきた自分がこの斎藤家で認められるために努力してきたこと。だから、父が私に期待していることはよくわかっていました。


 斎藤義次の一九三一、三

 私が大学へ入るために上京した時にも隣には父がおりました。その時は二等の客車に乗りました。およそ一日中機関車に揺られていたと思います。

 私は父の横に座って、流れていく景色を見ていました。父は私を大学に入れて、跡取りとしてふさわしい教育を施したいと考えていました。

「これからは学問がもっと大事になる」と常日頃から口にしていました。

 確かに、先祖のおかげで今の生活がありましたが、いつまでも遺産だけで食っていけるとは考えてはいないようでした。それに、父自身ときどき話を聞く外国の生活様式や学問に対して日本がひどく遅れているともよく言いました。

 父も東京で学問をしていたこともあり、跡取りである私に同じように進ませたかったのです。

 私は、決して学問が嫌いではありません。むしろ、学問が私を作り上げる道だと考えていました。  

 東京へ着いてから私と父は、上野の方面へ行きました。長照寺という寺に連れていかれました。右も左もまだわからないころなので、田舎から出てきた私ははぐれないようにぴったりと背中について行きました。

 しばらく歩いた後、山門をくぐり境内の中へ入っていきました。さほど大きくはない曹洞宗の寺であったと思います。私は宗教についてそのころはよく知っていませんでした。

 実家の宗派と違う寺に行ってもその違いはよくわかりませんでした。雲水たちがせわしなく掃除をしたり、お勤めをしたりしている姿があります。

 境内には桜が何本も植わっていました。まだ、茶色く固いつぼみが枝にくっついていました。

 若い雲水の案内で庫裏に入ると、父と同じくらいの男が出てきました。茶色くわずかに日焼けした頭に、外からの日差しが反射して天井の模様も映るのではないかと思われるくらいきれいな頭をしていたことを思い出します。

「お忙しいところ申し訳ないです」

 と父が頭を下げたので私も頭を下げました。それから、

「遠路はるばるようお越しいただきまして」

 と、優しい口調で返事がありました。住職は私たち二人を陽当たりのよい六畳ほどの応接間に通しました。

 その部屋は畳敷きの和室だったところに無理やり洋式のソファーとテーブルを置いたなんともちぐはぐな部屋でした。

 南側にわずかに隙間のある障子があって、向こう側にはよく手入れされた狭い庭が見えます。

 植え込みには住職の作務衣よりももっと粗末な作務衣を着た男が向う側を向いて草を抜いています。 

 私たちは住職が、どうぞ、と勧めるままソファーに腰を下ろしました。手に持った荷物がようやく離れた私の腕はずいぶん楽になりました。

「どうも。これは倅の義次です」

 父が紹介すると同時に頭を下げます。すると、僧侶は私を値踏みするかのようにじっくりと眺めてきました。

「なかなか利発そうなお方ですな。私の弟子のひとりにいかがです?」

「それは勘弁願いたい。これでただ一人の跡取り息子ですよ」

「冗談ですよ。それにしても、わざわざ東京に送り出して。御心配でしょう」

「そうですな。わたしよりもずっと物を知らん子供ですからな。しかし、いつまでも籠の中に入れといたのでは知らんまんまです。まあ、ここならばしっかり目があると思っておりますので、どうかよろしくお願いします」

 父はもう一度深々と頭を下げました。それから、私の方を見やります。

「この方はここの住職の遥玄さんだ。東京に来るときによくしてもらっている。」

「先代のころからですね」

 それから父は私にこの寺のあらましを話しました。しかし、それはほとんど記憶に残りませんでした。 

 とにかく父も祖父からここへ預けられて大学へ通ったらしいのです。それ以来のつながりがあるということでした。

 一通りの話が終わると私にあてがわれた部屋へ案内されました。庫裏から北側の薄暗い渡り廊下を歩いて行くと、陽の当たらない離れに通されました。

 平屋の安普請の離れでした。

 部屋は東西に二つありました。四畳半の部屋が廊下を挟んで向かい合っています。

 私は東側の部屋に通されます。東側には墓地が並んでいて、風に流された線香の香りが充満して、私は自分が仏像にでもなったような気分になりました。

 畳は茶色く日焼けをして長い間新調された気配はなく、窓ガラスには割れた跡を紙で貼って直してありました。つい最近まで誰かがここに住んでいたようで、空き家のような埃のにおいはしません。

 この下宿での生活は、半分修行僧でした。食事は三食きっちりつけられていました。朝と夕は雲水たちに交じって取りました。

 昼は、いちいち大学から戻ってきて、一人で広い食堂で食べました。ラジオもレコードもない静かな食堂の中は山奥に一人で修業をしている修験者の様に感じました。

 私はこの下宿が嫌いではありませんでした。寺とはいっても俗世間とは何も変わりがありません。 

 庫裏には遥玄さんの奥さんと二人の子供が住んでいました。

 その奥さんは、三十過ぎだったと思います。色が白く、もともとは何処かで芸者をやっていたと、私に声をかけた檀家の親爺の一人がいいました。

 それについて私はどう答えたらいいのかわかりませんでした。私は清廉な人間ではないし、坊主でも勝手にすればよいと思いましたし、奥さんがどこの出であろうと私の知ったことではありません。

 しかし、にやにやしながら面白おかしく言われてしまうと私も考えなくていいことも考えてしまうようになります。

 私の個人の部屋で酒を飲むことも禁じられてはいませんでした。しかし実家から送られてくる小遣い程度の金額では酒を買うのもままなりませんでした。

 また、ここでは数人の雲水と顔なじみにもなりました。彼らは私と同じくらいか、または年下の者が多くいました。

 すべてが望んでここへやってきた者ばかりではありません。東北やら北陸やらの百姓の次男坊以下で、実家には住めない者が多くいます。

 私は彼らに比べれば非常に恵まれた人間でした。しかし、その考えに行き着いたのはもっと後になってからでした。

 私の部屋はある意味サンクチュアリと言いますか治外法権と言いますか、遥玄さんがやってきて何かをただすことはしませんし、家捜しをすることもありません。

 そのため隙をついて若いものがたびたびやってきました。

 そして、私の大学の教科書や大衆小説など彼らの生活に縁の薄いものと触れ合っていました。

 私よりも若い修行僧のなかには時々姿を消す者もありました。それがなぜなのか、彼らの気持ちを知るすべはありません。

 そんな彼らが帰るところがあるのかと思いましたが、ときどき東京の町の中を歩いて行くと、窮屈な寺住まいを続ける気なぞ無くなってしまうことが、しみじみと感じられました。私はできる限り世の中に流されないようにそこで努めていました。

 大学の同級に鈴木清太郎という男がいました。彼は長野の上田の出身で、家は豪農でありました。生まれも育ちも長野でありましたが、非常に都会的な考え方の持ち主でした。

 彼は伝統やら因習やらを嫌っていました。彼のそういった考えを作り上げたのは彼の家族だと常々言っていました。

 私よりもひょろりとして、しかし決してひ弱な感じの青年には見えなかった彼は、自分の父親の家庭での振る舞いを嫌っていました。

 古いしきたりの多い家で、君主然として上からものを言い、家の動き一つとっても思うがままに動かしていたようです。

 一方で鈴木家の家長として周囲の尊敬を集めたいために、外の人間には結果が完璧に成就するように、家族の者に無理させていると鈴木は言っていました。

 彼はそのような姿の父親を見たくはないと言っていました。鈴木は非常に心の優しい男でした。弱い者には助けを出すことをいとわない男でした。  

 それでいて、助けた相手に、引きずり込まれてしまうような、弱さを持っていません。彼は、自分の芯の強さを持っていました。


 斎藤義次の一九三二、五

 そのころ私は神経衰弱を患っていました。いまさらながらなぜそうなったかをいいますと、もとより田舎者である私が都会の空気に慣れ親しみ過ぎたからだと思います。

 私は寺に出入りする女と顔なじみなりました。

 寺のことについて私は関わる筋合いではありませんでしたが、いつものようにすれ違ううちに私から声をかけるようになったのです。

 彼女は田所文子と言いました。山の手に家のある陸軍の軍人の娘でした。父親は陸軍大佐で私の父と同じように遥玄さんと懇意にしていたようです。しかし私は田所大佐を見たことはありません。

 文子は時々父親の代わりに寺へやってきていました。

 最初は私が彼女を誘いました。初めは恩賜公園を散歩しました。

 秋の夕暮れの涼しい風が心地よく、同じように散歩をする人たちの足取りも心なしか軽いように見えました。

 そうやって私たちは何度も逢っていました。彼女は私が三河の田舎者だと言うことを知っても離れては行きませんでした。

 私はいずれ文子を実家へ連れて行って親に顔を合わせたいと考えていました。

 鈴木も私が軍人の娘と交際を深めていることを知っていました。彼は私を応援しているようでした。 

 ある日、私が平日の学校が休みだった日に、遥玄さんの奥さんが私を訪ねてやってきました。

 このように奥さんが私を訪ねてくるのは初めてでした。遥玄さんも着いてきてはいません。周りに誰かいないか気にかけているようでした。

「どうかしましたか?」

 襖を開けて私が尋ねますと奥さんは言いました。「田所さんのことで、お伝えしたいことがございます。お部屋でお話しできますか?」

「はあ。どうぞ」

 奥さんを部屋の中に招きました。部屋は鈴木や雲水以外が尋ねてくることはありません。散らかったままでしたが、奥さんは散らかった部屋を気にすることなく、私が作った場所に腰を下ろしました。

「いかがしましたか?」

「はい。とても申しあげにくいことなのですが」

 それから奥さんは消え入るような声でこのようなことを言いました。

 それは、文子の父の田所大佐が先日寺にやってきたと言うことでした。田所大佐は娘が私と交際をしていることを知っておりました。それはどういうきっかけはわかりません。

 田所大佐は私が大学生であること、そして三河の工場主の息子と言うことも調べ上げていたことでした。

 遥玄さんは私のことを先代から世話をしている人間の息子だと言うこと、経済を学ぶ大学生としてなかなか将来有望な若者だと紹介したようです。 

 その場に奥さんは同席しませんでしたが、事が済んだ後で遥玄さんから伝えられたそうです。 

 しかし田所大佐は私を合格者とは見なせなかったようでした。彼は娘には陸軍の士官とめあわせたいという希望を話していたようでした。

 最後に大佐は遥玄さんに、私が文子から離れるように仕向けてほしいと言ったそうです。

 それから遥玄さんは直接伝えることができないので、奥さんにこのいやな役目を押しつけたようでした。

 奥さんは私に一通りのいきさつを話した後言いました。

「きっとこのままあなたがあのお嬢さんとご一緒になっても幸せにはなれないでしょう。ですからここはあなたから身を引いた方がよろしいかと存じます」

 頭を下げて部屋を出て行かれました。その日一日部屋に横になっていました。それから一通の便箋と封筒を買い求めました。いつも歩く東京の町がにくく思えました。

 私の手紙は三日後には文子の元に渡りました。二度と恩賜公園を二人で歩くことはありませんでした。

 それからしばらく、学校へも外への散歩にも私はいけなくなりました。

 まともに医者にかかったわけではありませんので、しばらく時間が経ってから思い返してみたときに、そうであったと思っているだけです。

 鈴木は勝手知ったる我が家のように境内を抜けて奥の下宿部屋までやってきました。

 初めてやってきたころは、住職やら若い雲水やらにいちいち断りを入れることがあったが、三度目くらいからはそんなこともせず、まっすぐやってくるようになりました。

 寺の者たちは鈴木を見ても何も言わず、出入りの商人のように頭を下げるだけでした。

 その日は珍しく手土産を持ってきました。いつもは手ぶらでやってきて、薄いお茶をすすって帰るか、浅草を冷やかしに行くのです。

 彼が持ってきたのはビールでした。しかし、瓶は一つだけ。つまみとしてあられを一人分持っていました。

 私の部屋にはコップはなかったので、さっきまでお茶を飲んでいた湯呑と来客用に在所から持ってきた伊万里の湯呑を出しました。二人ともせんべい座布団に腰を下ろし、小さな湯呑に並々とビールを注ぎました。

 ほとんど冷えていないビールでした。

 私は湯呑のビールを口にしました。ぬるいビールは苦味がきつく、何杯も飲めたものではないように思いました。しかしながら、久しぶりのビールは体に染みる心持ちでした。

「それでな」

 最初に口火を切ったのは鈴木でした。それからすこし間が開いて、湯呑を持たない左手で顎を触ると彼はこういいました。

「実は、国元の親父から電報を受け取った。それは俺の見合い相手が決まったからと来た。それでだが、俺は決して嫁を貰うことを否定はしない。しかし、俺は親父の言いなりになるのは好かん」

 そう言って彼は残りのビールを飲み干しました。彼は酒に弱いたちで、湯呑いっぱいのビールで顔が赤くなっています。

「君が父親をよく思っていないのは聞いているし、理解している。じゃあ、君はその見合いを拒否するのか?」

「いや違う」

 鈴木は私の言葉をすぐさま否定しました。

「俺は親父のいいなりになるのは好かん。しかし、それでも親父であるのは違いない。それに、俺自身親父にそっくりな部分があることも分かっている。君に親父の写真を見せたことはないが、写真を見れば何をどう間違えようもないくらい、俺が息子だということは分かるはずだ。そこで一番気がかりは、俺が親父と同じ道を歩むのではないかという危惧だ。知らず知らずのうちに親父と同じ道を歩かぬとも限らない。意識をして親父と違う道を歩かねばならんのだ。」

 彼は早口で言いました。私は彼の湯呑にビールを注ぎました。さらに彼は続けます。

「斎藤よ。君はこれからいうことは何か矛盾しているんじゃないかというかもしれない。俺は歩きたくもない道をいつの間にか歩いている。歩くつもりはなくても。それは決して臨んだ道ではない。しかし、不愉快と思わない道だ」

「わけがわからない。本当に嫌ならば避けて近づかない。君の行動は矛盾している」

 私がいう事に彼は頷いていました。

「そうだな。だがそれを俺はやる。そこで君にお願いがあるのだが。聞いてくれるか?」

「何を?」

「見合いは長野でやる。詳しい場所はよく知らんが。ただ、一人で行くのも心細い。こちらは一人、相手には俺の親父までついている心細くていかん。だから一緒についてきてほしい。むろん金は出す。まあ、在所からせびってやるがな」

 その提案は一体どういう魂胆から出されたものか初めは測りかねていました。ですが私はそれを断る理由はありません。むしろ、少しくらい東京を離れたいと思っていました。私にとって渡りに船でした。

 原因は文子でしたが、それを公にして東京を離れようとすることはできません。なぜなら妹から逐次届く在所の様子や父の様子、それに父の私に対する期待の高さを感じてきたからでした。私は決して落ちこぼれた人間とは思いません。

 ですが反対に優秀な人間とも思いません。井の中の蛙という言葉をこれでもかというほど感じる生活でした。

 よりよくしていこうという気持ちがないわけではないのですが、それも限度があります。いくら蛇が空を飛ぼうと願っても、蛇は高い木の上を這うのが限界であると同じです。

 かえって蛇が蛇たらんと開き直れれば楽なのでしょうが、私にはその開き直る性格はありません。むしろ、凡庸なのにそれを偽ることに苦しんでいました。鈴木はきっとそれをよくわかっていたのでしょう。

 彼が本心で見合いを受けることを私は否定はしません。ですが、私の様子を察して口実にした気もします。

 私は鈴木の案をうけいれることを伝えると、鈴木の相好も崩れます。よかったよかった、と言って彼は残ったビールを私と自分の湯呑に注ぎました。 

 その話をしたのはちょうど桜が咲き始めのころでした。私の部屋からは見えませんが、寺の境内には何本もの桜が咲き、近所の者たちが花見をしていました。騒ぐ声が私の部屋にも聞こえていました。

 それから松本へ行く段を整えました。彼が私に声をかけたのは桜が散って青々とした葉が広がり始めた頃でした。ようやく具体的な日和が決まったとのことでした。

 計画はそれから半月後だといいました。

 私はそのことを郷里にいる妹あての手紙に書きました。僕は鈴木としばらく松本へ行くこと。そして、鈴木が見合いをすることを書きました。

 松本へ行くために私と鈴木は新宿の駅から汽車に乗りました。その頃は、八王子までは電化されていましたが、それより先はまだずっと後にならなければ電化されませんでした。私たちは、はじめから汽車に乗りました。

 私は、どれくらいの日数向こうへ行っているのかも鈴木からは詳しく教えられませんでした。ですから、寺の遥玄さんにはしばらく留守にすることと、決して世を儚んで出かけていくのではなく、必ず帰ってくると言いました。

 彼は、決して無能な人間ではありませんでしたので、私の言うことにただ応答だけしてくれました。きっと、父にも私がしばらく東京を離れることを伝えたことでしょう。

 私は風呂敷に持っている分の着物を包みました。それから、本棚に入った本の中で二冊だけいっしょにいれました。市電に乗って東京の街をながめていましたが、ここ数日雨が全く降っていませんでしたので、街ゆく馬車や車が走るたびに砂埃が舞っていました。

 朝が早いので街は慌ただしさに満ちていました。私はその中で、慌ただしさとは無縁の生活を誇らしく感じました。七時発の汽車に私たちは乗る予定です。

 鈴木とは駅で待ち合わせをする約束で、予定よりも早めに着いたのですが、鈴木はすでに私を待っていました。

「ちゃんときてくれてよかったよ。心配をしていたんだ」

「なぜ?」

 私たちは二人で改札に向かいます。

「この見合いは君には全く関係ない。わざわざ他人の私事に巻き込みたくない気持ちが僕にはあったからね。多少は引け目があるんだ。それが伝わっていやしないか心配していたんだ」

「そんなことはない、むしろこうやって東京を離れる口実をくれた君に感謝したいんだ。どうせこちらに行くところは在所しかない。とはいえ今在所に行ったところで気持ちをすっきりされることなんてないからな」

 私が窓際に座り、鈴木は通路側に座りました。朝一番の下りの汽車は案外混んでいました。私には与えられた任務は何もありませんから、気楽に窓の外を眺めていました。

 鈴木は、私の顔をときどき眺めますが何も私にはしゃべりかけてきませんでした。私は、山梨から長野へ行くのは初めてでした。私の郷里は、高い山のない平野です。平野と言っても名古屋のように四方を見渡しても山の形すら見えないところではなくて、東には稜線のそろった低い山が並んでいるところでした。

 山梨から長野へ向かうあいだ、狭い平野に周りに高い山が囲うこの地域の景色は新鮮でした。

 甲府を過ぎると、私たちの乗る汽車の乗客が最初とはまるっきり入れ替わっていることに気がつきました。鈴木の向こう側、通路を挟んだ座席には、背広を着た男が煙草をのみながら、雑誌に目を通していました。

 私はここでようやく昼飯を食べ始めました。朝一番の汽車に乗るために朝飯を食べて来なかったので、昼時まで腹は減っていましたが、じっと我慢していました。

 私は隣の鈴木が弁当を広げていないのを気にとめました。彼は確か弁当を持ってきているはずでした。

「どうしたんだ?」

 私は鈴木に聞きました。鈴木はああ、とか、んんとかいう生返事をして、今の感情を教えてくれることはありませんでした。だから私はまっすぐに聞いてみました。

「見合いの件か?」

 しかし、私の問いに鈴木はそれに肯定する返事をしてまくれません。替わりに彼は私に質問で返してきました。

「君は、今どんな気分だね? 楽しいか?」

 と言うのでした。

 私は持っていた箸を弁当の上に置きました。それから、一寸だけ返答を考えました。

「東京にいる間は、あまり気分がよくはなかったが、こうやって君と一緒に出かけるというのは楽しい。松本には行ったことはないが、楽しみではある」

 そう言うと彼は急ににこにこし始めます。それから、そうかそうか、とつぶやきながらさっきまで手をつけていなかった弁当を食べ始めました。

 電車から見える景色は、明るい緑の山が増えていきます。それと青い空とわずかに白い綿をちぎったような雲が浮かんでいました。

「一つおまえに申し訳ないことがある」

 鈴木はもうすぐ松本へ着く頃に言いました。

「確かに俺は見合いがある。それは仕方ない。俺はそれを受けなければいかん。細かいことを省くが、俺の家はその相手の家の援助を受けた。それは時勢のためだ。俺の力でも親爺の力でもどうにもならなかった」

 そこまで言って、鈴木は持っていた茶を一口飲みました。

「それで、君をここまで連れてきたのは、別に見合いの場に連れて行こうということではない。俺は君がおかしくなっていることがわかった。東京にいては悪くなるだけだろう。さりとて、首を捕まえて君の田舎に連れて行くこともきっといやがるだろう。だから俺は見合いを口実に、君にしばらく静養をしてもらおうと考えたのだ。鎌倉あたりの海に行けば、気分も変わるだろうが残念ながらそんな別荘は持ってはいない。代わりに松本に親類のやっている宿がある。そこでしばらく東京のことは忘れるといいかと思ったのだ」

 私は鈴木がそこまで一気にしゃべるのを聞いているだけでしたが、汽笛が一回鳴るとようやく返事ができました。

「そうか。君がそんなことを考えているとは思いもしなかった。君の好意を受け取るとしよう」

 私は松本に汽車が到着すると駅におりました。鈴木は上田に向かうべくそのまま長野まで乗っていくとのことでした。

 私は一人で右も左もわからない松本駅のホームに立っていました。朝一番で東京を出て、もう空は日暮れ近くになっていました。

 駅を出ると私の名前を書いた紙を持った男が立っていました。声をかけるとそのまま彼は私を人力車に乗せました。

 男は私に何も話しかけることなくただ黙々と車を引っ張っていきます。私は見たこともない場所で、どこに連れて行かれるのかもわからず、なんだか心配になってきました。

 二十分くらいでしょうか、男は古い屋敷の前に止まりました。国道沿いで、開けた場所に建っている瓦葺きの屋敷でした。

 建物の東側は綺麗に整地がしてあり、一輪車やシャベルが置いてあって、今から新しい建物を建てる準備がしてありました。

 男は私の荷物を持って、その中に入っていきます。私は車を降りて着いていきます。玄関には『ホテル南洋庁』と黒々と墨で書かれた檜の一枚板の看板が掛けられていました。

 男について入っていくと、玄関には私の荷物を持った男のほかに、宿の主人が私を待っていました。主人は私よりも小柄でしたが、日に焼けて黒い肌をしていました。

「斎藤さまですね。お待ちしておりました。ご本家の清太郎さんからお知らせいただいている通りのお時間でございますね」

 そう言いながら私を宿の中へ案内してくれました。私は二階の東南の部屋に案内されました。宿と言っても部屋は三、四室しかないようでした。

 外観はずいぶん古めかしく部屋の中も同じように古く天井も畳も傷んでいるようです。

 私は窓際にあった椅子に腰をかけました。主人は私の荷物を置くとそのまま出て行ってしました。

 私はしばらく山しか見えない景色を眺めていました。

 食事を運んできたのは宿の主人でした。お膳を置くと私のために茶を入れ始めました。私はこの宿がどうしてあのような名前なのかを聞いてみました。主人は湯飲みを置くと私の質問に答えてくれました。

「昨年まで南洋の役所にいたんです。私は次男でして二つ上の兄がおりました、田畑も兄が相続します。ですから、何をするあてもなかったんです。それでちょうど南洋庁が役人を募集しておりましたので、下働きのつもりで行ったんです。二年ほど向こうで働いておりました。ですが、父から呼び出しがありまして、私に土地と建物をあてがうから帰ってこいと。この家は空き家になっていたものですから。ここは田畑も荒れ果てていました。私は畑仕事をするつもりもなく、もとの持ち主である本家も畑仕事をさせるつもりはないようだったので、私はここでホテルを作ろうと思ったのです。名前は、この地に合いませんが南洋庁と付けました。いずれ隣に役所に似せたホテルを作ります」

 主人は黒々と焼けている顔に笑顔のしわを作っていました。私はそんな主人の入れてくれたお茶を飲みました。

 そこで私は一人の人物と会いました。とても大切に思っている人です。私がここへきてから初めて会う客でした。先生は新聞ではなく古い和綴じの本を読んでいました。

 私が先生と今でも呼べる人は彼しかいません。心から師と思っているのです。

 私が先生と呼ぶのをなんだかこそばゆいもののように思っているようでした。彼は菅原泉竹という雅号を名乗っていました。本名は泉と書いてそのまま「いずみ」という読みでした。先生はいわゆる書壇には属していない人でした。

 彼はもともと高名な書道家の弟子でしたが、兄弟弟子とのそりが合わず、結局それが原因で師匠の元から去っていました。

 彼はずっと一人で書を続け、彼独自の書に行き着いていました。

 先生は一所に根を張って過ごすことができない人でした。日本のあちこちを旅しては、時々自分の家に帰る生活をしていました。私が先生とあったのもそんな旅の中なのです。

 私は松本に合計で三週間ほど滞在していました。鈴木は実家のある上田に残っていて、時々電話がかかってきては二言三言話をすると切れてしまいます。

 私は初めの一、二日はあまり落ち着きませんでした。鈴木の見合いがいつあって、彼がいつ自由になるかわからなかったからです。

 しかし、前にも言いましたが、これは私の休息のための旅であって、見合いなどというものが本当にあったのかと考えが今は浮かぶのです。

 私は宿泊賃を心配していましたが、宿の者は何も言ってこないので、しばらくすると私の心配事は何もなくなりました。

 そうして、四日も経つと借りてきた猫が自分の住みかと思うと急にふてぶてしくなるように、この宿の居心地がよくなりました。

 鈴木の使いが様子をうかがいにやってくる以外は一人で気ままに暮らしました。

 宿について落ち着いてから私は宿から散歩をするようになりました。宿は松本城から歩いて二、三〇分くらい離れているので、街の中をふらふらしながら松本城まで歩きました。

 宿代は鈴木が持ってくれたので心配はいらなかったのですが、金がないのは相変わらずだったので、茶店で茶を飲むこともできず、遠巻きに天守閣を眺めるだけで終わりました。

 私の松本での滞在のほとんどはそのような金を使えない散歩で終始しました。東京から二冊の本を持っていきましたが、途中飽きて、しおりが挟んだままにしてありました。

 三回目の日曜日は朝から雨でした。雨の日は本をぱらぱらとめくっては見ましたが、その日は特に気分が乗らず文字の上を視線が滑っていくだけで内容はちっとも入っていません。

 その時読んでいたのはアダムスミスの国富論でした。部屋の窓から黒く暗い雲から落ちてくる雨を眺めるだけは退屈でした。

 鈴木の使いが先週の帰る時には今日やってくると言っていましたが、その気配はありません。大方雨なので日を改めたのだろうと考えていました。 

 昼近くなって私は宿の一階へ降りていきました。いい加減飽きていたのと、新聞にでも目を通そうと思ったからです。急な手摺りの階段を下りていくと、滞在中にほとんど人の気配のなかった応接間に明かりがついていました。

 応接間と言ってもそれが独立してあるわけではなく、玄関と帳場に繋がる形で古いソファーとテーブルが置いてあるだけです。

 二つある一人掛けのソファーに一人の男が座っていました。それが先生でした。

「こんにちは」

 私が声をかけながら座ると、先生は一度私の頭の先からつま先までまじまじと見てから同じように「こんにちは」と返してくれました。先生はその時すでに五十八歳でした。そのころの先生は年齢以上に老けて見えました。

 私は先生とテーブルを挟んで反対側にあるソファーに新聞を手に取って座って座りました。その時先生がどんな本を読んでいるのか気になったので、新聞に目をやりながら、古いその本の表紙を見てみましたが、日に焼けた本は読むことができません。

 私はその人がどんな人なのかとても気になりました。ほとんど宿から外へ出ていなかった暇からきていたかもしれません。

 ちらちらと何度も先生を見ていたと思います。ですが私から声をかけることはできませんでした。

 それで、新聞の初めと終わりを何度も行ったり来たりしていました。主人が私と先生に湯気の立っているコーヒーを出しました。私はすぐにコーヒーを口にしました。しかし、先生は一度目を配っただけですぐには手を付けませんでした。

「君は学生かい?」

「ええ」

 とようやく先生から声をかけられて私はさっきまで考えていたことをすべて忘れてしまうようでした。

「そうですか。何を勉強されているのですか?」

「経済を」

 私はそれだけ答えるのだけで精一杯でした。先生の声は優しく緩やかな響きを持つ楽器のように聞こえました。

「ずいぶん難しいことを勉強されていますね。私はその道にはまったく疎い人間です」

「勉強しても何も身になっておりません。ところで、何を読まれているのですか?」

「これですか」

 本を私の方へ見せてくれました。それには、古い文字で漢字がいくつも書かれている本でした。私はそれがお経の文句にしか見えませんでした。 

 先生は私にその本を手渡ししてくださいました。表紙は黒ずんで読めませんが、かすかに王羲之と書いてあるのだけは読めました。

「私は書道をたしなんでおりまして、その手本と言ったところです。これ以外にも何冊かもっていますが、なにぶん旅をしていると重い物はおいてきてしまっています。持ってきているものは、紙と筆と墨くらいです。硯は小さなものが一つ。先ほども数枚書いてみたので、どうです?見てみませんか?」

 私は、二つ返事をして二階へあがっていく先生の後をついて行きました。先生の部屋は私のはす向かいの部屋でした。

 同じような広さの部屋にさっきまで書いていた作品が広がっていました。そして、閉めきった部屋には墨の香りが広がっていました。 

 私は紙に書かれた文字がなにを書いてあるのかわかりませんでした。読めないのでなくて、どころからの文章かわかりませんでした。 

 しかし、私はその漢字一字一字が紙の上で、生き物のように動いているのが見えました。

 魚が水の中で思い通りに泳ぐような、燕が五月の空を縫うように飛ぶような、それと同じものを墨で黒々と書かれた文字の中に見ました。

 その文字の書かれた紙を私は手に取りました。それをじっと見ていました。先生は何も言わずただ私が作品を眺めているのをじっと見ていました。 

 それから、どれくらいなのかわかりませんが、先生を見ました。先生は、私を優しく見ていたように思います。

「私を先生の弟子にしていただきたいです」

「弟子にですか?」

 先生は困っていました。それは、先生は弟子をとらない主義だからでした。おそらく今までにも私と同じように弟子になりたい人間はいたに違いありません。

「はい。私は、書の素養はありません。祖母が手習いをしていた残りを見たぐらいですし、小学校でやったきりです。ですが、私は先生の文字が動くのを見ました。こんな文字は見たことがありません。今、初めてこのような書に出会いました。そして、私はこのような書を書いてみたいと思いました」

 私は、畳の目の数を数えられるくらい床に頭を擦り付けました。すぐに先生から返事をもらうことはできませんでした。そのとき私は先生の家の住所が書かれた紙を渡されました。東京の住所が書かれていました。 

 雨は少し小降りになっていました。

 私はそれから毎日先生の部屋へ行きました。私は先生から古い筆を借りて、使っていない硯で墨を磨りました。

 私の書く文字は手本になる拓本には似ても似つかぬ文字ばかりでしたが、紙に文字を書くことは楽しくなりました。

 私は不出来な弟子でしたので、古の書家も技法も知りませんでした。ですから先生から渡してもらった手本について、一つ一ついちいち聞いていきました。

 松本から東京へ帰る時も鈴木はやっては来ませんでした。駅の改札にいたのはいつもやってきた鈴木の使いと鈴木の妹でした。

 鈴木の妹は私に東京までの切符を渡してくれました。

「兄がここへ来ることができずに申し訳ありません。なにぶん家の方が騒がしくて」

「かまいませんよ。ここまでよくしてくれたのですから。ありがとうございました」

 私が改札に入っていくまで二人は見送ってくれました。東京に戻ったのは行くよりも早い気がしました。


 斎藤義次の一九三二、七

 松本から帰ってくると私はまた学校へ通うようになりました。私がなすべきことは以前とは何も変わってはいませんが、心持ちそれらを受け取る私の側が心に余裕ができたように感じました。

 それから私は週に一回先生の家へ通うようになりました。先生の家は高輪の泉岳寺のそばにありました。

 田町駅から泉岳寺の境内を左手に見ながら歩いて行きました。私は普段上野や浅草の界隈しか過ごしていませんでしたので、芝区へやってくるのは新鮮で楽しい気分です。

 先生の家は平屋でした。古くからある家で、運良く関東大震災でもつぶれることも、燃えることもありませんでした。

 私は先生の家へ行くときは朝一番で行きました。そうして昼過ぎまで習字をして、時々昼飯をごちそうしてもらいました。

 私は田舎者の若造なので、世の中のしきたりやら常識に欠けたところがありました。挨拶の仕方から、贈り物の品物まで私は何にも知らずにずいぶん恥をかきました。

 先生はそんな私をしかることも、見下したりすることもありませんでした。 

 先生はひとつひとつ私がおかしい行動をしているときには、注意をして私に正しい行動を教えてくれました。

 先生の家の庭はさほど広くはありませんでした。隣の家の壁がすぐ近くまで迫っていて、季節に寄っては陽が当たらないときもありました。

 先生は一人暮らしをしていました。私から家族のことを尋ねたことはありませんでしたが、ときどき自分の身の上話をしてくれました。 

 先生には奥さんと息子さんがいました。しかし、二人とも震災で亡くなっていました。その時分一家は本所に住んでいたようです。

 先生は地震のあった日は高崎へ行くために朝早く出かけていました。被害を受けた先生は方々の体で帰ってきました。どれくらい経ったのかはわかりませんが、すでに家は燃えつきていて、家族とも二度と会うことはできませんでした。そのあとこの泉岳寺の方へやってきたようです

 狭い庭でしたが非常に綺麗に手入れがされていました。庭を眺めていると先生は家を空けることが多いので、散らかっていて、と恥ずかしがっていました。

 その庭は白い玉砂利が敷いてあって、石灯籠が三つありました。その庭には竹が植えてありました。それを使って先生は筆を作っていました。

 先生の元へ通うようになってしばらく経ってからのことです。その日は強い雨が降っていました。庭は水はけが悪いようで大きな水たまりができていました。

 雨漏りもひどく私が習字をしている四畳半の部屋には四つのバケツが雨垂れを受けていました。水が垂れてくる部分は色が変わり黒ずんでいました。

 先生はそれを見るたびに「困ったなぁ」といいながら頭を掻いていました。その日は、雨がいつまでもやみそうに無いので、持ってきた昼飯を先生の家で食べていました。

 食べ終わり帰ろうとしたときに、先生は私を呼び止めました。私は玄関の三和土の上で先生に方を向きました。

「いかがしましたか?」

「うん。きみにひとつ贈り物をしたい。こうやって雨の日でも休まずに来てくれる君になら、差し上げてもいいかと思ってな」

 先生の手には風呂敷包みがありました。

「何でしょうか?」

「硯箱だ。帰ってから開けなさい」

「高価な物はいただけません」

「使い古した硯箱だ。昔、私も先生からもらったものだが、如何せんこの雨漏り屋敷ではいつ雨にやられるかわからん。君が持っている方がきっと有意義に使ってもらえる」

 先生の言いつけを守って、部屋に帰ってからその包みを開けました。中には古い硯箱がありました。わずかに漆が残っていますが大半ははげて落ちてしまっていました。

 私はそのときこれがこの上も無く大切なものに思えました。後からわかったことはこの硯箱は、震災の当日に先生が持っていたために被害を受けなかったものだったということです。


 斎藤義次の一九三二、七

 長野から帰ってからの鈴木は見合いのことは多くを語りませんでしたが、彼は相手についてまんざらではない様子でありました。

 私はずけずけと聞くことをしませんでしたし、彼もすべてをさらけだすことはしませんでした。それに私は担当の教官から、ドイツで発行された経済に関する書籍の翻訳の手伝いをさせられていました。

 鈴木の方は結婚に向けての準備のために時間をとられてしまい、我々は東京に帰ってから没交渉になっていました。

 なかなか彼の問題が解決しなかったのは、見合いの相手の持っている持病でした。決して誰かに伝染するたぐいではありませんでしたが、彼の端々から漏れる話では遺伝的なものであることが後から推測されました。

 それを彼の父が問題にしたために話が大きくなってしました。彼はその見合いを無駄にはしたくない思いがあり、彼が全面に立って父親を説き伏せるために骨折っていたのです。

 私が松本から帰ってくると母から手紙が来ておりました。中身は、しばらく顔を見ていなかったので、顔を見て安心したい旨のことと、実家までの切符が入っていました。 

 私はそれを指でつまんで眺めていました。手紙には、来週父が大阪から帰ってくる日が書かれていて、その日に帰ってくるようにと追伸がありました。

  そのまま捨ててしまうこともできましたが、せっかく送られてきたので、私は帰ることにしました。 

 私はその手紙を再びたたんで封筒の中にしまいました。それから、財布の中身を見ていました。先日生活費が送られてきたばかりなので、いつもよりも豊富にお金が入っていました。

 それから私は持って帰る土産を買うために、浅草へ出かけました。その前の日には、初夏の陽気で非常に暖かく、私は気持ちよく店を物色することができました。

 仲店で私は、翡翠色と梅重色の石の入ったブローチを一つずつ買い求めました。店の親爺は私の顔を値踏みするように見てきました。 

 手に取ったブローチの石は本物の玉なのかどうか怪しいものでしたが、私には精一杯の土産でした。それから父へは小さな文鎮を買いました。

 私はその足で鈴木の下宿へ向かいました。先ほど述べたように私は彼と顔を突き合わすことをしていませんでしたし、手紙を書いて礼を述べることは他人行儀過ぎるので、この機会に彼に会いに行こうと思いました。

 彼が住んでいるのは根津でしたので、私は元来た道を戻り寺の横の土塀を左手に見ながら向かいました。

 何度も私は彼の下宿に行きましたが、下町の隙間なく家が建ち並ぶ道を歩いていくといつも道を間違えていました。

 まっすぐ向かえば小半時もかからぬ道のりを一時もかけて歩いていました。

 仕舞屋ふうの町家の二階へ上がると、散らかったままの部屋に鈴木は引きっぱなしの布団の上にごろんと横になっていました。ひげも剃らず逃げ出した囚人のような風体になっていました。

「ずいぶんやつれた感じがするね」

「感じではなくて実際にやつれているよ。向こうから来た話に蹴りをつけるためにこんなに骨を折るのは、初めてだよ」

 鈴木はのっそりと体を起こすと大きなあくびをしながら私に座る場所を作りました。

「この前の松本旅行は非常に有意義な物だったよ。礼を言わせてもらおうと思ってね」

「おおそうかい。それはよかった。あれから上田の妹も君のことを気にかけているようでね。いつ君が上田にやって来られる聞かれる始末だったよ」

「そういってもらえるのはうれしいね。僕もまたいけることを願っていると伝えてくれよ」

 私は部屋から持ってきた鈴木への手土産の煎餅を置きました。

「これはありがたい」

 鈴木はすぐに煎餅に手をつけました。

「で、急にやってきた理由はなんだい?」

「在所にしばらく帰るのでその挨拶だ。松本の礼も言えていなかったからな」

「そんなことはどうでもいいよ。俺はおまえさんが心配だったからな」

 煎餅の粉を膝の上にこぼしながら言いました。鈴木はあっという間に二枚の煎餅を食べてしまいました。


 翌週私は一人で汽車に乗って実家に帰りました。

 久しぶりの家は私にとってなんだか他所の家に来たような居心地の悪さがありました。

 帰ってきたときにはもう夕暮れはとうに過ぎていて、空は暗くなっていました。しかし、父は家にはいませんでした。父は大阪へ行っていて、次の日に帰ってくることでした。

 母と妹と女中の清子の三人が玄関で出迎えてくれました。家に上がると清子が私の荷物を預かるとそのまま持って行きました。

 私は居間に入ると、母は妹の百合子とお茶を飲んでいるところのようで、お茶の準備がしてありました。もう夕食は済んでしまっていたようでした。

「お疲れ様でした。遠路はるばる。東京からどのくらいかかるのかしら」

「半日かかりますよ。豊橋のあたりで日が暮れ始めていました」

「そう。東京はやっぱり遠いのね。一度は銀座にでも行ってみたいとは思うわ。でもやっぱり、そんな時間がかかっては行ってみようと思う気持ちもなくなってしまうわね」

 母はそう言いました。しかし、きっとそんな気持ちは全くないのでしょう。息子の私から見て彼女の性格はそこまで行動的な人間ではなかったのです。遠いところからきた私に共感だけしたかったのでしょう。

「それにしても、しばらく見ないうちに立派になりましたね」

「一年もたってはおりませんよ」

 私はいつも座っていた場所に腰を下ろすと、急須を手にとって入っていたお茶を自分で湯飲みに注ぎます。

「あら、お兄さまわたしどもにお土産はございませんの?松本にもいらしていたようですし」

 私は自分から出すつもりでいた土産のブローチを持って行かれた荷物の中にあることを思い出しました。

「土産は荷物の中だが、荷物は清子が持って行ってしまったよ。今すぐ取ってくる」

「じゃあ、わたしも一緒に着いていくわ」

 私はお茶を飲んでから立ち上がります。それから二人して私の部屋に向かいました。

 私の部屋は、母屋から伸びる北にある渡り廊下を渡った向こうにありました。離れには私の一部屋だけがしつらえてあり、家族からは離れた空間になっています。

 渡り廊下を渡るときには西にある庭が見えます。暗がりのなかにシルエットの黒松の木と周りよりも暗い池がうっすらと見えました。 

 私たちが歩く音に驚いたとみえる蛙が池の中に飛び込む音が聞こえました。

 私の部屋は東京に行く前と何一つ変わるところがありませんでした。住んでいたころと同じようにちゃんと掃除がされていました。

「さすが清だな」

 清子のことを私たちは清と呼んでいました。彼女は我が家の出入りの商店の次女でした。私は彼女の父親を何度も見かけていました。彼女には兄と姉がいて、兄の方は父親の後を継ぐために、修行に出ていました。姉は四つほど年上で、私が東京へ出て行く前に嫁に出たと思います。父がいくらかの祝儀を渡す姿を見ていました。

 彼女が女中に入ったのは、それよりも前からです。私よりも二つ上で、小学校を卒業と同時に我が家へやってきました。ほとんど個人的な会話はしませんでした。聞いているのか聞いていないのか区別が付かない様子ですが、しかしこちらのことはちゃんと聞いており、なすべきことと指示されたことはきちんとしていました。ですから私の家では、清にかなり大きな信頼を寄せておりました。 

 私は部屋の隅に寄せてあった使い慣れた座布団に尻をのせ、百合子は窓辺に置いてある文机に行儀悪く腰を下ろしました。妹はいつも私の部屋に来るとそこへ座っていました。何度も注意しても治らなかったので、もう注意することもしなくなっていました。

「父さんは元気なのか?」

「そんなの明日直接会えばわかるじゃない」

 百合子はつっけんどんに返事をしました。

「清には婿をあてがうって手紙にはあったが本当か?」

「ええ。お父様は庶務の石川さんを考えているようね」

 石川は私たちがよく知っている社員の一人でした。小学校を卒業して、清よりも早くに私たちの家にも出入りしていました。私たちは兄のように遊んでもらっていました。石川は非常にまじめの性格だったので、それは私も賛成できました。

 それから私の荷物の口を勝手に開け、中身を物色し始めました。妹は今年十六になりますが、両親の見ていないところでは、子供時分からの癖がぬけず、私に対しては特に遠慮などと言う言葉は存在しないように振る舞います。

 それでいて、両親や他人のいる前ではおしとやかな令嬢然として澄ましているのです。 

 私の荷物を物色している妹は、三つの包み紙を見つけ出し、私の前に示しました。桃色の包みと茶色い包みです。

「桃色のほうが私たちの物ね。こちらがお父様ね。何が入っているのかしら」

 聞くのが早いか包みを破ってしまっていました。中には翡翠色のブローチが入っている方でした。妹はそれを手にとってしがしげと見ていました。

「きれいな色ね。何色っていうのかしら。お母様と同じ物?」

「色は違うよ。どちらもブローチだけどね。色は翡翠色と店の親爺は言っていたよ」

「翡翠色ね。孔雀石か何かかしら。」

「さあね。石の材質まではわからないな」

「ふうん。お母さまの方はどんなブローチ? 開けていいかしら」

「お前にやる物ではないぞ。あとで持って行ってそこで見せてもらうがいいさ。色は梅重というらしい」

 妹はその包みを自分の膝の上にのせました。そうしてもう一つの父への包みも手にした。二人の包み紙に比べてざらざらした、質のよくない紙です。

「ずいぶん重いわね。何が入っているの?」

「文鎮だよ。何でも明の時代に作られた、青銅でできた物だ」

「ふうん。まあ、こちらはいいわ」

 ぞんざいにまた荷物の中へ戻してしまいました。それと同時に妹は私の鞄の中から風呂敷包みを出しました。

「これはなにかしら?」

「お習字の道具だよ。最近始めて、先生からいただいた物だ」

「見てもいいかしら?」

 どうぞというと、風呂敷包みはあっという間に開けられてしまった。

「蒔絵の箱ね。ずいぶん使い古したみたい」

「ああ。先生からいただいた物で、先生が長く使われていた物だ。大切な物だから慎重に扱ってくれな」

「大丈夫よ」

 妹は慎重に箱を開けました。その中には筆と墨と硯が入っています。使い古された道具でしたが、私にとっては大切な道具でした。しかし、彼女はそれほど道具には心が向かなかったようです。すぐにふたを閉じてしまいました。

「もうすこし綺麗な蒔絵のものを使えばいいのに」

「そういう物ではないよ。おまえにはわからないか」

「わからないわ」

 そう言って妹はスカートを翻しながら、二つのブローチを持って私の部屋を出て行ってしまいました。私は一人残されて、まじまじと蒔絵の箱を見た後、丁寧に風呂敷で包みました。

 妹が出て行ったあと、私は窓辺に座って団扇で扇ぎながら外を見ていました。風が少しあってどうにもならない暑さではありませんが、松本や東京に比べても湿度があり、何もしていないのに暑く感じました。

 母屋の方からは妹の笑い声が聞こえてきました。

 私はそれを聞きながら買ってきた土産が間違っていないことを実感しました。

 しばらく私は暗闇を眺めていますと清が私の部屋のふすまを開けました。風呂が沸いたというので私が最初でいいのか、と聞きます。

「奥様が最初に声をかけるようにとのことでしたので」

 といった。私はそれを遠慮する理由もないのでさっさと入ることにしました。長く汽車に乗っていたので今日は早く寝たい気分でした。

 清が入れてくれた風呂に私は入りました。白木の湯船も私が東京へ行ってからだいぶ傷んできたようです。白い湯気が立つ風呂場の中で、肩までつかりながら、私はしばらく松本へは行かないだろうなと考えていました。今の私にはそこへ行く必要がない気がしていました。   


 父は次の日の夕方に帰って来ました。私は母と妹が玄関で出迎えたのでそれについて行きました。父は私の顔を見ると「帰ってきたのか」とだけ言いました。

 遥玄さんは私に父にだけは例の件を伝えてあると言っておりましたので、このような反応をされるのは特段おかしいこととは思いませんでした。

 しかし、妹と母は父の反応がなんだかおかしいことに疑問を持っていたようでした。

 父は帰って来るなり自分の部屋へこもってしまいました。私は居間でそこへ行けばいいのか思案していました。妹は根掘り葉掘り聞いてもいいのかわからないようで、なんとも言えぬ時間を半刻ばかり過ごすと何処かへ行ってしまった。

 私は清にお茶を入れてもらうとそれを三杯ほど飲みました。静かな居間でいることがなんだかとても気詰まりです。そこにいろとは言われていませんが、何処かへ出かけていくことははばかれました。

 それから四杯目の茶を口に付けたときに、清が呼びました。父は私を自分の部屋へ呼ぶと自分の目の前の空いた座布団へ座るように言いました。

 黙って座りましたが、すぐに父は煙草に火を付けました。白い煙は風の無い部屋の天井にゆっくりと上っていきました。

 私はそれをじっと見つめていました。しかし、その煙には父の真意は表れていません。

 父は一本煙草を喫み終わって、灰皿に押しつけるとようやく口を開きました。

「田所さんの娘さんのことは聞いた。母さんには内緒にしてある。これは俺とおまえと長照寺さんしか知らん」

「全部を聞いたのですか?」

「ああ。田所さんを直接知っているわけでないが、名前は存じている。陸軍の大佐だな」

「はい」

「お会いしたのか?」

「いいえ。すべて間に長照寺の住職と奥様が入っておられました」

「そうか」

 父はまた煙草に火を付けました。私に煙草を勧めてきましたが、そのときは煙草を喫む気にはなりませんでした。

「陸軍の大佐殿だ。うちは確かにここらあたりではそれなりだと思っている。だが、所詮田舎の成り上がりだ」

 父は私ではなく自分自身につぶやいているようでした。私は父にもうそのことは忘れました、と言いました。

 それから何も言わずに父の部屋を出て行きました。隣の部屋の前には妹がいましたが、私は手で追い払い自分の部屋に戻っていきました。

 私が実家から帰ると二、三日して先生から手紙が届きました。その手紙には、あのホテルに自分の書いた掛け軸を一本贈呈したとしたためてありました。

 手紙には私にその書を見てほしいとも書いてありました。何を書いたのかはわかりません。

 しかし、その書を見に行くことはかないませんでした。世間はだんだん物騒になっていきました。


 斎藤義次の一九五〇、八

 私は通産省へ行くために上京しました。その時分私は父に代わって会社を継いだころです。

 中風で倒れ仕事をすることはままなりませんでした。自宅の部屋で布団のなかで横になりながら思い通りにならぬ体を呪っていました。

 世界では朝鮮半島で戦争が終わり景気が悪くなりはじめる頃でした。

 仕事上の新しい業務のためにどうしても役所を通さねばならなかったのです。

 一人で省線に乗りました。私は電車席から外の景色を眺めていました。大学を卒業して以来東京に行ったのは初めてです。

 役人と話しをすると考えるとずっと憂鬱でしたが、遠くに見える富士山を見ると少しばかり気分が楽になる気がしました。

 東京に着いたのは夕方で私は明日のために早く宿に泊まりました。窓から見える形式は私が記憶している町並みとは違っていました。

 次の日の朝一番に東京駅に着くなり地元の国会議員と落ち合いました。私は懇ろにお礼を言いました。太ったその男はゆっくり挨拶をする暇がないのか私をせかしてタクシーで通産省に行きました。

 私たちは一日役所に詰めたまま話をしました。彼らの話の運び方が私には非常に苦痛に感じました。もともと下準備で私たちの目標は達成できていたので、私は最後に印鑑を押すだけのような役目でしたが、それでも仕事は回りくどく形式的でした。 私たちが庁舎を出たのは夕方でした。しかし夏の暑さはまだ町の中に漂っていました。

 玄関には議員のために一台の自動車が止まっていました。太った議員はそれに乗り込みました。私は朝と同じように鄭重なお礼をいってその自動車が見えなくなるまで見送りました。

 それから九段下へ向かいました。皇居の堀を右手に見ながらぐるりと歩いて行きました。

 靖国神社へ着いたのは十七時頃でした。私は汗をふきながら黒い鳥居をくぐりました。私は鈴木が太平洋の藻屑になってしまってからもう七年も経つことに、時間の進みが早いことを感じました。 

 私が拝殿をあとにしたとき一人の女性に私は声をかけられました。通りすがりで私は気づきませんでしたが、もう一度声をかけられて振り向くと紺色で染め抜かれた和装の女性が日傘を差しながら私の方を見ていました。

 私はそのとき「あ」と言うしかありませんでした。それは、学生の時に会って以来顔を合わせなかった文子でした。

「おひさしぶりでございます」

 彼女は言いました。声は昔と変わらずか細い者でした。

「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 帽子を取って頭を下げました。私はなんと声をかけたらいいのかわかりませんでした。

 そうして私は声を振り絞って言いました。

「こちらへはいかがしていらしたのでございますか?」

 それを文子は申し訳なさそうに聞いていました。

「主人がこちらへ合祀されております。月命日ですので、お参りに。斎藤様は」

 斎藤様と非常に他人行儀な物言いでした。私はそれに寂しさを感じました。

「友人が。学生時代の友人が太平洋で死にまして。東京へ仕事できましたのでそのついでです」

「そうでございますか。このようなところでお目にかかれて幸いでございます。あれきりお会いできずに」

「私もでございます。ご無事で、いやご主人が、残念な事でございます」

 私はなにを彼女と話をしたらよいのかわかりませんでした。側の松の木に油蝉がとまって鳴きだしました。

 彼女が私と別れて父親のすすめで陸軍の将校と結婚したこともその後に戦死されたことは長照寺の遥玄さんの手紙で知っていました。

 しかし、それ以上のことはわかりません。私は戦争が終わってから時折頭に上っておりましたが、調べてみようと行動までは起こりませんでした。

「父のせいで。あのときは申し訳ありません」

「いいえ。仕方ありません。あれは仕方のないことでしたから。もうすこし私がしっかりしておればよかったのです。あなたが気に病むことはありません。それにいきておられるだけで、私は十分でございます」

「そう言っていただけるだけで心が軽くなります」

 私たちは深く頭を下げてそこで分かれました。

 それから玉砂利を歩いていると後ろから再び声をかけられました。

「あの、今日はもう帰られるのですか?」

「いえ。一泊して明日帰ります。」

「どちらへお泊まりで?」

「帝国ホテルです」

「さようでございますか」

 それだけを言うと文子は頭を下げて拝殿の方へ向かいました。私はしばらくその後ろ姿を見ていました。

 私は都電の九段下の駅に向かいながらながら、鈴木のことがもう一度頭に浮かびました。


 私が二度目にホテル南洋庁へ行ったのは、東京へ行った翌週です。

 私は鈴木の墓参りをしなければならないと考えていました。

 私は大学を出てから父の手伝いをしていました。そうなると学生のころのつきあいはほとんどありませんでした。

 時々、遥玄さんからの手紙が送られていて、私は父の代わりに筆を執って返事をしたためていました。

 鈴木とはしばらくの間手紙のやり取りをしていましたが、時局の悪化でままならなくなり、最後の手紙は南方へ行くということだけでした。それから鈴木とのやり取りはできず、彼の遺体も結局見つかってはいません。もしかしたら今でも太平洋の青い海に漂っているかもしれません。

 彼が眠っているのはあの神社でも先祖伝来の墓でもないかもしれません。

 私は一応鈴木の実家あてに手紙を書きました。私のことをどれだけ知っているかはわかりませんでしたが、伝えることだけはしようと考えました。

 手紙がおそらく着いただろう頃に私は汽車で昔とは違う方角から上田へ向かいました。

 私は以前に鈴木の妹から彼の墓がある寺のことは聞いていましたので、駅に着くとそのまま寺に向かうことができました。

 寺は峰が続く山の中腹にありました。寺へ続く石畳の小さな山門の入り口でタクシーを降りると、林の中へ続く石段をしたから見上げました。

 郷里のほうでは鳴いていないミンミンゼミの声がはやしのなかから聞こえます。寺には十一面観音が祭られている旨の立て看板が立っていました。

 私は時折首筋に流れてくる汗を拭きながら、帽子を団扇のようにして一つ一つ上っていきました。

 途中には小さな地蔵堂があり、切り株が二つ椅子のように並んでいましたので、日陰になった切り株の上に腰を下ろしました。

 背広の上着を脱いで、林を抜ける風にあたっていました。お堂の中のお地蔵さまには真新しい前掛けがつけてあり、活けたばかりの花が供えてあります。

 しばらく座っていると男が一人石段を登ってきました。その男は私の前を音もなく歩いて行きます。

 いつの間に蝉の声はしなくなっていました。

 その姿を見たときに私は心臓が大きく鼓動しました。陸軍の歩兵の恰好をした男は、間違いなく鈴木でした。

 私がそれは見知った鈴木よりも幾分か年をとっていました。階段を歩く鈴木を私は目で追っていくことしかできません。声をかけようにも喉の奥が詰まったような感じで、しばらくは息をするのもつらかったのです。

 汗はさっきまでの暑さによるさらさらした水のようなものではなく、脂汗に変わっていました。

 体も動きませんでした。ただ、眼球だけが鈴木の歩く速度に合わせていくのがやっとなのです。

 私が鈴木を目で追っている間、石段を歩く鈴木は私の方に一切視線を送りませんでした。ただじっと自分が昇っている石段のずっと先の方を、ぴんとまっすぐ伸びた背筋のまま歩いて行くのです。

 それから私はどれくらい切り株に座っていたかはわかりません。汗は脂汗からまたもとのさらさらした汗に変わっていました。

 自由に体が動くのがわかると私は走って石段を上りました。「鈴木」と何度か叫んでみましたがミンミンゼミの鳴き声しかしません。

 林の切れ目が見えて、石段を上がりきると古い本堂とそれに続く庫裏が狭い山の中腹の平地に建っていました。

 私は息を切らしながら、滝のように流れ出る汗をシャツの袖で拭いながら本堂の前の境内を見渡しましたが、軍服を着た鈴木の姿はありません。

 本堂の横に井戸があるのを見つけて、冷たい水をポンプで汲んで飲みました。冷たい水が体に染みていくような気がしました。

 水を飲みながら境内からの景色を眺めました。山の中腹ながら木々の隙間から山の下に広がる街並みが見えます。風は林の中を抜けていくものよりも強くより心地が良いものになりました。

 蝉の騒がしい声は山の斜面に沿ってこの境内を抜けて、嶺の上の方へあがっていくようでした。

 私は汗がひくまで本堂へあがる階に腰を下ろしていました。だれもこの寺にやってくるものはありません。

 盂蘭盆の準備のためか提灯が庫裏の玄関の前に積んでありました。本堂の戸は固く閉じてあって、観音様を拝むことはできませんでした。

 墓地はどこにあるのかと思いながら境内を歩くと、本堂の裏手に十数基の墓石が並んでいました。本堂の前ほど整地はされておらず、山の斜面の草木を刈って墓石を置いただけのように見えました。

 鈴木の名前がないかそこにあるすべてに目を通しました。すぐに鈴木の名前は見つかりました。それだけ苔が生えていない、石の地肌が見えていました。

 私はその新しい墓石の前に立って持ってきた線香を供えました。火をつけると線香の煙は風に乗って山の奥の方へ流れます。

 墓前でしゃがんで手を合わせますと、足元には私以外の足跡があるのを見つけました。その靴跡は昔私が召集を受けて支給された靴の跡と同じ形をしていました。

 立ち上がって周りを見渡しましたが、私以外の人の気配も姿もありません。また、蝉のせわしく鳴いているのが聞こえ始めました。

 そのあと私はもと来た道を戻り、汽車に乗りました。

 松本についたのは夕暮れ時でした。駅に着くと手配してあったタクシーに乗りました。街は人でごったがえしていてあまり落ち着きませんでした。

 松本城も修復に入っているようで工事をしていると運転手は私に言いました。私はそれにあまり気持ちは動かされませんでした。砂埃を立てながら街から外れていきます。運転手は私があまりよい反応をしないのか、途中から黙って運転していました。

 何度目かに車の天井に頭をぶつけてようやく私はホテルにつきました。以前私が泊まった建物は跡形もなく、代わりに白い石でふいた西洋風のホテルがありました。

 私が中に入ると主人は快く出迎えてくれました。当時からもう十年近く過ぎており主人の肌も昔に比べて黒くはありませんでした。

 私は客のいないロビーでソファーに座ってビールを飲みました。

「お客さまが無事でいらっしゃってとてもうれしいですね」

「そうですね。あのときからこうなるなんて思ってもなかったですよ。こんな立派なホテルになるなんて。そうだぜひ記念品をお送りしたい。新築祝いの」

 そうして主人はしばらく考えていました。

「ではあの場所へ飾ってある作品にふさわしい額縁をください。昔からのものでずいぶん傷んでおります。せっかくの素晴らしい所ですから、ふさわしい額に入れてお客様に見ていただきたいです」

「よろしいですよ」

 私はここにふさわしい額縁は何だろうかと考えました。夜になって私はレストランで一人で酒を飲んでいました。夏の暑い盛りで冷や酒を飲みながら私は先生の書いた掛け軸をじっと見ます。

 夜更けてからも私は一人で居ました。私は座りながら、先生の作品が大切にされていくだろうと思いました。


 斎藤義次の二〇〇八、五

 目を覚ますと朝の六時半でした。東に向いた窓からは五月の明るい太陽が昇っているのが見えます。東に見える山の端は太陽の陰ができあがっています。

 白い石膏ボードの病室の天井は夏の強い朝日に照らされていました。

 主治医から病室を出る許可をもらい受けて、準備してあった背広に着替えました。そしてそのまま病院の入り口に運転手を呼びつけて、松本に向かいました。

 運転手の下村に持ってくるように頼んでおいた硯箱は風呂敷に包んだまま私が持ちます。

 歳が九十を超えると体が言うことを聞かなくなって困ります。下村は病室から私の手を取ってゆっくりと歩いていきます。

 車寄せに止めてあった自動車に乗って、座席に座るともう何日か分の力を使い果たしたようでした。

 彼はなにも私に尋ねることなく自動車を発車させました。

 後部座席で私は腕を組んだまま座っていました。途中何度か下村は「休みましょうか?」と言いましたが、私は大丈夫だといって断りました。

 休んで時間が過ぎるよりも、早く目的地へいきたいという気持ちが大きかったからです。

 私が松本へ行く理由は、泉竹先生の夢を見たからです。最近はほとんど見ることはありませんでした。

 夢の場所は通っていた先生の東京の自宅ではなくて、初めて会った松本の宿でした。

 先生と私はそこで何かを話していましたが、何かは覚えていません。なにより何かの予兆のような気がしたのです。

 自動車の窓から見える山々は新緑がまぶしくすがすがしい気分になりました。高速道路は渋滞することもなく、スムーズに走って行きました。

 途中、携帯電話で家に電話をかけてみましたが、だれも応答しないことに腹立たしさを覚えました。

 三時間ほど、休みもなく走った自動車は、ホテルの車寄せの横に停まりました。私は持ってきた風呂敷包みだけ手にしました。

「仕事が終わるまで何処かで待っていなさい。必要なときは君を呼ぶから」

 はい、と下村は応えました。彼は長年私の運転手をしていました。いちいち細かな事情を詮索する人間ではありません。

 私は古びたホテルに入りました。ました。南洋庁とかいてある木製の看板は昔と全く変わりません。ここに最後に来たのは五十年も前のことでした。

 そのころの私は四十代で一番充実していた頃です。そのときも私は一人でやってきていました。

 ロビーには誰もいません。がらんとしたロビーの左手側の壁にひとつ額縁がかかっていました。

 以前ほどのつやはありませんが、額縁の細かい装飾はきれいに手入れされています。ほこりひとつなくきれいに掃除がされているのがわかりました。

 額縁の下には先生の名前と寄贈者の私の名前が書いてあるプレートが壁に並べてありました。私は先生の名前を指でなぞってみました。先生の名前を見ることはあまりありません。

 私はロビーの右手にあるレストランに入りました。レストランにもだれも人はいませんでした。 

 案内もないまま窓際のテーブルに座ります。外を眺めながめられる、そうして入り口もちょうど視界に入る場所でした。

 最初に来たときはまだこの建物はありませんでした。その時分はまだ古い日本式の家屋でした。

 記憶にある景色とはずいぶん変わってしまいました。窓からかつて見えた信州の山々は、新しい住宅の屋根に隠れてしまっています。

 しばらく座っているとウエイターがやってきて、水を出してきました。私はメニュー表を見ました。その中から赤ワインのグラスとお任せのつまみを頼んでみました。

 自動車に乗っての三時間は疲れました。昔はどれだけ乗ってもいたくなるようなことはありませんでした。

 肩や腰がずいぶん痛い。背中をさすってもあちこち固まっているようで、どうにもならないようでした。

 背広の内ポケットの中にあるはずの煙草を出そうとしましたが、煙草もライターも入っていませんでした。

 ウエイターはワインと料理を置きました。

「赤ワインとチーズのブルケッタです。ごゆっくりお召し上がりください」

「ありがとう」

 と言ってから、私は冷たいグラスを手にしました。グラスを手にしながら流れてゆく雲を眺めていました。

「ねえ、君。ちょっといいかな?」

 ウエイターを呼びました。

「なんでございましょう」

「昔、ここへ来たことがあるんだよ。四十年くらい前に。その頃のオーナーはご存命ですか?」

「四十年前ですか。おそらくその頃は祖父が経営していました。しかし、祖父は三年前に亡くなっております」

「そうですか」

 私は応えてくれたウエイターに礼を言いました。 

 硯箱を風呂敷に包んで私は持ってきました。漆のはげた、木地が露わになった硯箱は先生からいただいた非常に大切なものです。これだけは処分することはできませんでした。

 先生は東京の空襲の際に行方不明になっていました。先生のほかの作品は一緒に燃えてしまったようでした。ですから作品としてきちんと保管されているものはきっとここにあるものだけに違いありません。

 私が持っているものは、先生から練習用としてもらったものばかりでした。

 何時になったかわかりませんが私はレストランに一人誰かが入ってきたことに気がつきました。ホテルの主人かと思いましたが、静かに私に向かいの席にその人は座ってきました。

 それは先生でした。私が初めてあったときと同じ格好をしていました。私は無言でお酒を飲む先生と一緒に飲みました。先生は私に今までと同じようににこやかにしていました。先生は私にお小言は決して言いませんでした。 

 私はなんと言っていいのかわかりませんでした。

 どれくらい一緒に居たかわかりません。そのとき時計を全く見ていませんでした。

 私は一緒に過ごすことだけで幸せな気分になりました。私は先生がどこにいらっしゃるかは聞きませんでした。今、この時間が楽しく過ごせたらよかったのです。

 先生は足下にあった包みの中から私が持って来た硯箱の中から書道の道具を一式出しました。 

「ずいぶん昔の道具を持っているね」

「ええ。先生からいただいたものは雑には扱えません」

 先生は古いその硯箱を撫でていました。先生からいただいた時よりもずっと表面は傷ついてざらざらになっています。

「これからも大切にしたまえよ」

「ええ。私のあとにきっと大事にしてくれる者がおりますから」

 それから先生自身が持っていた鞄の中からたたんだ半切の束を出してきました。

 半切の紙は茶色に日焼けしていましたが、紙の質は触っただけでもよいものだとわかりました。

 先生は私に何か書いてみなさいと言いました。ですから私は王維の絶句を草書で書きました。

 それをみると先生は私の持っていた筆を取っていくつかの文字を手直しし始めました。昔と同じように直される場所は同じ数でした。

 それを四、五枚繰り返しました。気がついたときにはもう明け方近くになっていました。イスに座ったまま寝ていたのです。レストランにやっていたホテルの主人の気配で目が覚めたのです。

 テーブルの上には半切だけが残されていました。それから最後に書いた半切は一切の手直しがされていませんでした。

 私はそれを見て満足しました。先生から卒業の免状をいただいた気分です。

 それ以上の喜びを私はこれまでに感じたことはありません。

 病室に帰った私はぐっと疲れましたが、気分は心地よく、つまらない病室でしたが、なにもかもやり切った心持ちです。

 家族には病室を抜け出してどこへ行ったか何があったかは言いませんでした。

 そうして、先生のようにいつでも硯箱を伝えるための準備をしました。


 中村和隆の2009,9,3

 夜の八時。生徒の提出した長期休暇中の課題を、職員室でチェックしていると携帯電話が鳴った。夜に電話が鳴るのはろくなことがない。大体悪いことは夜にやってくる。だから僕はうんざりする気持ちで電話を手に取った。画面には、寸竹亭さん、と表示されている。歳はたしか百歳に近いはずだ。何年か前には施設に入ってしまったと聞いていた。僕はまさかと思った。寸竹亭さんは、もう電話なんかを掛けられる体調じゃなかったはずだった。だから、次の瞬間には、亡くなった連絡か、と心の中で切り替わった。

 職員室には、まだ十人くらいの同僚たちがそれぞれの仕事をしたり、談笑したりしているので、電話を耳に当てながら奥の給湯室へ向かった。出ると向こうから聞こえてきた声は、年配の女性の声だった。その声は彼の娘さんだった。記憶の中には、品のいいふるまいをする女性が訪ねて行った僕にお茶を出してくれたことがある。

「中村さんですね?夜分すみません」

 と疲れた感じの声が聞こえた。僕が返事をすると、やはり寸竹亭さんが亡くなったという事であった。通夜と葬儀の日時を案内してくれた。僕はその心遣いに丁重にお礼とお悔やみを言った。僕には寸竹亭さんの葬儀に出るような資格や地位があるとは思えない。僕が行けば場違いなものように見られるのがオチだ。それくらい彼は上の方に人なのだ。僕はただの高校の教員で何の肩書きもない。自分の席に戻っていった。寸竹亭さんとのやり取りが自然と思い出される。この何年かはずっと、殆ど交流ができていなかった。

 初めて会ってから十五年は経つだろう。しばらくは年賀状のやり取りはしていたがそれもいつのまにかなくなってしまった。。議員になってもよさそうだったが、それを固辞しても悪く言われない人だった。ただの若い教師が簡単に会える人ではない。毎年新年の商工会議所の広報誌にも挨拶が載せられていた。

 最後にお見舞いに行ってから僕は寸竹亭さんから書を習うことはなくなった。隊長のことを考えるとあまり頻繁にいくのは体のことを考えるとはばかれた。

 だからいく機会もなくなり寸竹亭さんのことを考えることもなくなってしまった。


 僕は昨日の連絡があってからずっと寸竹亭さんのことを考えていた。最近彼の顔を見ることはなかった。僕はもう少し会いに行けばいいと思った。

 しかし、僕を感傷に浸らせることを周りの状況は許してはくれなかった。だいたい事件や事故は平穏なときに起きるものだ。慌ただしいときにはそれがすべて一つの出来事になってしまうからだ。

 僕は昼休みに保護者から一本の電話を受けた。それはいつまででも終わらない。僕は立ったまま職員室の電話に釘付けになった。机の上には少しだけ箸をつけた弁当がある。電話の向こうは自分の主義主張を言い続け、話はいつの間にか日本の教育問題の根源が戦後の日本の堕落にあるとまで言い始めた。僕は事故で電話線が抜けてしまったいいわけをして切ってしまいたがったが、火に油を注ぎたくはなかった。

 チャイムが鳴って午後の授業が始まる。仕方なく僕は学年主任にバトンを無理矢理渡した。そうして、五十分の間に平和裏に電話が終わったことを願ったが、帰ってきた僕の机の上には食べかけの弁当と学年主任からのメモがあった。僕はそのメモにある夕方にやってくるという文字を見ると丸めてゴミ箱に捨てる。

 僕は約束の時間きっちり十分前に玄関で待ち構え十分ほど遅れた家族を迎え入れた。遅れた言い訳をする父親に「大丈夫ですよ」と言って応接間へ案内した。

 彼らは夫婦と息子と三人だった。彼らがやってきた理由はたいしたことではない。クラスの中で息子が孤立している。ということを言いたいだけだった。高校生にもなって、一人でいることがつらいなんていうのを親がわざわざ時間をとってやってくるのはあきれたとしか言えない。しかし、彼らがそう思うのも無理はない。みんな自分のことがかわいいのだ。そして、息子は自分の分身なのだ。真剣になるのは無理もない。しかし、現実は分身でもないし、最終的には本物の自分の方がかわいくなるものだ。

 僕は学年主任と一緒に話を聞いてやり、そして彼らの常日頃の世間一般への不平不満を聞いてやった。

 一時間を過ぎた頃から僕たち二人はしきりに時計を見やった。言葉にはしなかったが、息子のことを口実に話を聞いてもらいたいだけだろうという意見は一致していただろう。

 だんだんと話が関係ない方へ向かっていくごとに、隣にいる息子は集中力が切れたのか携帯電話をいじり始めた。いい加減にしろと言いたいのを我慢して、僕たちは彼らの言い分を最後までくみ取った。

 結局最後の話は国の学校教育への不満で終わった。僕と主任はそれに同意する部分は多少なりともあったが、反対する気持ちにはなれなかったので、全く同じ意見です、と締めくくった。

 ようやく僕は保護者のクレームから解放された。時間はもう八時を過ぎている。彼らがやって来てからもう四時間も過ぎている。

 玄関で彼らを見送って、姿が見えなくなった後で主任は僕にねぎらいの言葉をかけてくれた。僕は一人で玄関の戸締まりをして職員室に戻るといつもよりも残っている教師の数は少なかった。

 二、三分職員室の椅子に座っているうちに、もう少し寸竹亭さんに会っておいて、もっと書道を習っておけばよかったと思った。

 まだ僕は学ぶべきことがあったはずだと思うと、とても惜しくなった。会えるならば会ってまだ教わっていないことを教わって、そうしてお礼を言いたかった。

 インスタントコーヒーを入れて飲むと頭がさえてくるように感じる。そうして、寸竹亭さんが昔話してくれた、ホテルのことを思い出した。

 寸竹亭さんが先生と会ったホテルだ。彼はそこで先生と会った。僕もそれにあやかってみたいと思った。

 パソコンでホテルの名前を入力するとちゃんとそのホテルは松本に存在していた。

 すぐに電話をかけてみた。電話を出たフロントに部屋が空いているかを聞くと開いているといった。僕はすぐに予約を入れて、夜中に着くことを伝えた。

「お待ちしております」

 という言葉で電話が切れると、カバンを持って外に出る。

 空は暗い。駐車場を照らす街灯だけが唯一の明かりだった。灰色の雲が一面広がっていて、月の形すら見えない。明日は満月でほぼまん丸い月が浮かんでいるはずだった。今日の授業で徒然草を授業でやって、そこで月について触れたからだ。旧暦の日付が八月十四日で、今日の夕方には東の空に丸い月が浮かんでいるはずだと僕は三つのクラスの生徒に言った。

 彼らがどこまで興味があったかはわからないが、僕は一つ言葉を付け加えるべきだった。曇っていなければ、と。

 運転席に座った僕はまず沙也香にメッセージを送った。とりあえずこの週末は一人で旅行に出ると送った。沙也香は先週からこの週末には仕事をしなければいけないから会えないと連絡があったから何も気兼ねはしなかった。 

 沙也香は僕と違ってまじめな小学校教師をやっている。来週の仕事もやりたくない県下からたくさんの教員がやってくる研究授業があると言っていた。だから僕はその研修が終わるまで彼女に最低限のメールでだけ連絡をしていた。あまり邪魔しないようにして、彼女の愚痴だけを受け止めていた。

 メッセージを送って僕は五分間車を発車させずにその場でメールが返ってくるのを待った。いつもなら、手が空いたときならすぐに帰ってくる返信メッセージはなかった。返ってくる電話もない。

 部屋に戻って旅行鞄に適当に二日分の着替えを詰めた。

 僕は国道十九号線を走った。昼間は何度も走ったことのあるルートだ。二車線のあるうちはどんどん僕の車を追い抜いていく。しかし、多治見を抜けた頃には一車線に変わった。よるだからトラックの通行が多かった。煽られないように制限速度を超えるスピードで暗い国道を走る。

 昼間に走るときには開けた場所からは恵那山や乗鞍岳といった山が見えるが、今はヘッドライトで照らされた部分しか見えない。

 カーナビで今どこにいるかをちらちらみて、昼間見たときの景色を思い出す。

 十時を過ぎて周りの景色は完全な闇になっている。時々民家の明かりがあって、闇は破られているし、対向車のヘッドライトが無理矢理僕を照らしてくる。

 僕は事故をしないように無心で車を運転する。信号一つも無視しないように慎重に。そうするといつの間にかさっきまでもやもやと心の中にあった自分への失格の烙印がだんだんと気にならなくなってきた。

 常に僕は自分が落第者か役立たずのように感じている。それが自分の単なる思い込みで、他人からすればそんなことを思う必要のないことかもしれないが。

 国道沿いのドライブインは十時を過ぎてどこも明かりが消されていた。何もない山の道を走っている中で、もっと街の中を走っているときに腹ごしらえをすればよかったと思った。しかし、そのときは何も食べる気分が起こらなかったのだ。

 ようやく山を一つ越えてようやくコンビニエンスストアを見つけた。広い駐車場にはトラックが数台止まっていて、イートインスペースにはそれらの運転手らしい姿があった。 

 ほかにも明らかに僕みたいな仕事で走っているとは違う姿もあった。しかし、空いたイスはなかったし、商品の配送時間前なのかほとんどの棚は空に近かった。今食べたいものはなく、仕方なく僕は小さいピザトーストとブラックの缶コーヒーを買って、車に戻った。 

 まだ沙也香から返信は来ていない。僕は電話をかけてやろうかと思ったけれど、もしかしたら集中して机に向かっているかもしれないし、ひょっとしたら疲れて眠っているかもしれないと思ってそれはやめた。

 FMラジオは雑音が入っていたが、一つのチャンネルだけどうにか聞こえた。僕は音楽に詳しくはないし、気に入った歌手もいない。ただ、今流れている八十年代のニューミュージックの特集はCDを買ってもいい気がした。村下孝蔵のあとに稲垣潤一が流れてきた。

 ラジオのDJはそのあとにリスナーから送られてきたメールを読み始めた。飯田市に住む男性は、今日が自分の誕生日だが今から仕事に向かうとのことだった。

 ピザトーストを食べ終わると僕は再び国道に戻った。このあと僕はどうしようかと考えながら走って行く。川に沿って道は続き、同じく着いたり離れたりしている鉄道は一度だけ列車が僕の車を追い抜いていった。

 標識は塩尻まで三十キロを示し、さらに向こうには松本があることを教えてくれた。もう時間は十一時をとうに過ぎた。しかし、僕は全然眠気を感じていない。さすがにコーヒーだけのせいではないだろう。何か僕には行かなければならないところがあって、そのせいで興奮しているのだろう。

 景色の見えない国道を走り続けて、ようやく山がちな景色から平地が広がり始めたところを走り始めるとラジオから流れていた音楽番組は終了した。リスナーに「おやすみなさい」といったDJから塩尻の造園業者のコマーシャルに変わった。

 塩尻に入ると山は見えなくなって、ロードサイドのチェーン店が広がる街になった。僕はそろそろ寝る場所を探そうと思った。

 カーナビを見ると塩尻と松本の境目あたりだった。もうすぐ日付が変わりそうだった。信号で止まってナビゲーションをいじる。信号で止まっても前を通過する車はなく、後ろにも止まる車はない。

 画面をスクロールさせると国道にはホテルのマークはなかったが、一本裏通りに一つマークが付いていた。

 街は完全に眠っている。ただロードサイドの飲食のチェーン店だけが明るいネオンサインを光らせている。国道より薄暗い二車線の県道を走るとホテルのマークの部分は生け垣が歩道と敷地を仕切っていた。

 車を駐車場に止めると明かりが抑えられた外灯が光っていた。

 駐車場の入り口には内部に蛍光灯の入った樹脂製の看板がある。そこには『ホテル南洋庁』とあった。

 沙也香から電話が掛かってきた。僕はすぐに出る。

「もしもし」

「あ、返事遅くなってごめんね。さっきまで主任のお小言に付き合っていたの。で、今お風呂あがったばかりで」

「こんな時間まで研究授業の準備は大変だったね」

 僕はこんな時間まで学校で仕事をしたことなんて無かった。せめて十時までだ。

「だから返事ができなかったの。今はどこに居るの?」

「松本のホテル。古めかしいホテルだよ。僕のお世話になった先生がなくなってさ。その先生が昔僕に話をしてくれたことを思い出して、どうしても行かないといけないと思って」

「そうなんだ。ごめんね。研究授業のせいで一緒に行けなくて」

「大丈夫。冬休みには九州にでも行こうか。それより授業の準備はできたの?」

「もう少し。のこりは明日の朝から学校に行ってやるわ」

「じゃあ、あと少し頑張って。それが終わったらお疲れ様のプレゼントを考えるよ」

「ありがとう」

 それからおやすみと言って僕は電話を切った。

 建物は二階建てで年季の入った外壁だった。灰色にくすんだ石造りの外壁だった。入り口はほの暗いが明かりが付いていて、一応やっているようだった。それに駐車場には僕の車以外にもハイエースやバンといった社用車のような車が四台あって、宿泊者がいるようだった。

 手動式のガラス戸を押して開けるとロビーがあって、左手にはソファーとガラスのテーブル、そして壁には一枚の額縁が取り付けられている。時代を感じる所だった。日に焼けてはいるが手入れがされていて、額縁は古いが上等な品物だと分かった。額縁の下には寄贈者には金の文字で斎藤善次とあった。僕はその名前と墨で黒く書かれた文字を何度も見返した。

 右手にはレストランの入り口があった。レストランの明かりは消えていてガラスドアの向こうには非常口を示す緑の光が見える。

 カーテンが閉められていて中がどんな様子なのかはわからない。入り口にはメニュー表があった。ビーフシチューとローストポーク、エビフライとハンバーグのセットがあった。値段はほかのホテルと変わらない。

 じっと見て僕はカルボナーラを見つけた。

 しんと静かで、受付のカウンターにはだれもいない。カウンターテーブルの向こうにはすだれのぶら下がったドアが開いていて、向こうから明かりが漏れている。向こうにあるだろう控え室にはホテルの人がいるようだった。

 僕はカウンターの上に置いてあるベルを一度押した。すると奥から黒いスーツを着た四十代くらいの男が出てきた。「おまたせいたしました。何かご用ですか?」

 右胸のポケットには名札のバッヂがあって『鈴木』と漢字で書かれていた。

「さきほど予約の電話をした中村和隆です」

「中村様ですね。少々お待ちください。」

 そう言って鈴木さんはパソコンを触り始めた。しばらくの間があいて僕の方を向いた。

「お待ちしておりました」

 準備をする受付係の向こうにかけられたカレンダーに目をやった。どうせ明後日まで休みだ。

「二泊はできますか?」

 もう一度パソコンの画面に視線が移る。すぐに大丈夫ですよ、と返答があった。

 それから宿泊カードに名前を書く。住所を書きながら空腹を感じた。外へ行けば何でもあるだろう。二十四時間やっているチェーンの飲食店はいくらでもある。けれど僕は外へ出て行く気分にならなかった。宿泊カードを出しながら食事は今できるか聞いてみた。

「大丈夫ですよ。ただ時間が時間なので簡単なものしかできませんが」

 僕は何でもよかったので、はい、と答える。そうして、鈴木さんはルームキーを渡してくる。

「では、十五分後に右手の食堂へお越しください。それまでにご準備をいたします」

 僕は鞄とルームキーを持って部屋に行く。階段はレストランと反対側にあった。エレベーターはなく、ロビーと同じ臙脂色の絨毯が敷かれた階段を上がっていく。

 照明は必要最低限しか点いていない。薄暗い階段の手すりは人の手の跡で黒くなっている。外壁と同じ石造りの壁だ。年季が入っている。二階には十室ある。窓のない内廊下は闇の中に吸い込まれているような気になる。僕の部屋は階段から一番近い北側の部屋だった。音を立てないように気をつけて、きしむドアを開ける。部屋はリフォームされているようで、どこにでもあるようなビジネスホテルのような作りになっている。左手には風呂場とトイレがある。

 ベッドはきちんとリネンがされていてしわ一つない真っ白なシーツが広げられている。僕は鞄をテーブルの上に置いてベッドの上に腰を下ろした。テレビを点ける気も起きなくて、手を伸ばしてカーテンをめくってみると、裏には畑と新興住宅地が黒いシルエットを作っている。

 僕は十五分が待ち遠しく思った。テーブルにあるデジタル時計は一時を過ぎている。点滅する文字を見ながら十五分が過ぎると部屋を出た。

 約束の通り食堂は開いていて、半分だけ蛍光灯が点いている。厨房を見ると鈴木さんが白いエプロンを着けてスパゲティを盛り付けている。

 受取り口で待っているとすぐにアルミのお盆にのったカルボナーラが出てきた。僕はそれを持ってテーブルで食べ始めた。

「ごめんなさい。こんな夜遅くに」

 ナフキンで口を拭きながら僕は言った。

「大丈夫ですよ。ときどきもっと無茶なリクエストもありますから」

 カウンターで片付けものをしながら鈴木さんは言う。

「どんなリクエストですか?」

「そうですね。ロブスターの丸焼きが食べたいとかですかね」

 鈴木さんはタオルで手をふいたあと、エプロンをハンガーに掛けながら言った。

 僕は、一口水を飲みながら、食べ終わってもなんだか物足りない気分になった。それにまだ眠気も全然起こっていない。テーブルにはドリンクのメニュー表があった。それにはビールがあった。

「ビールも注文できますか?」

「大丈夫ですよ。瓶ビールしかありませんが」

「それをください。それと鈴木さんも一緒にのみませんか?静かなところで静かにのむのはなんだかしんみりしすぎていて」

「よろしいんですか?私はザルでして、家族から一緒に飲みたくないと言われているのです。全然酔わないし、面白くないそうなのです」

 鈴木さんはビール瓶と栓抜きと二つコップを僕の前に置きながら言った。

「鈴木さんと話をしてみたいです。僕はずっと教師しかしていないので、ほかの職業をしている人の話を聞きたいんです。なんていうか職業病みたいなところがあります。生徒に話をするので」

 僕は鈴木さんのコップにビールを注ぐ。よく冷えたビールは綺麗に泡がコップの中に浮かんでいく。

「私の話ですか?あまり面白い話はありませんよ。それよりもお客様はどうして当ホテルへ?」

 聞かれた質問に僕から答えた。寸竹亭さんの顔を思い浮かべながら、彼がここで彼の先生に出会ったこと、そのかれはロビーの額縁の寄贈者であることを伝えた。

 彼がいることで僕は今の仕事についていることを伝え、竹亭さんと関わることで歴史に興味を持った。故郷は城下町だった。それも町ごとお堀で囲われた総構えで町の中にお堀の痕跡もあった。時代が進むにつれて痕跡はなくなってしまったけれど、僕は絵図と今を照らし合わせていくことをするようになった。もし寸竹亭さんと合わなければそこに行き着くことはなかったと思う。

 歴史はもうすでに過ぎ去ったもので現実ではおがくずのようなものだと思う。そこに価値を見いだせなければ誰も見向きもしないものだ。おがくずも価値を見いだせば使える。例えば廃油処理とか。僕はそのおがくずと向き合ってきた。大学では摂関政治を研究した。天皇が存在しなければ成り立たない藤原氏の政治手法に興味を持ったからだ。前例踏襲の局地の世界。源氏物語にあるような、雅な世界ではなく一歩屋敷を出れば死がすぐそばにある時代を僕は興味を持った。

 僕が教師になったのはそれが目標でなったわけではない。僕がしたいことをするには、普通の会社勤めでは僕は歴史に関わり続けることができないと思ったからだ。

 たまたま僕は教師の免許を取った。誰か目標の教師がいるわけではない。

 じゃあ僕は何をしていたのかと言えば、僕は歴史というおがくずのすばらしさを教えてきた。

 数えればもう五年くらいおがくずの良さを生徒たちに伝えている。おがくずはどこまで行ってもおがくずだ。もう二度と材木にも樹木にもなれない。しかし、その中でおがくずに価値を見出してくれる人間を見つけだすのが役目だ。

 僕の勤務評価はどうなのかわからない。自分で与えられた仕事をこなしていくだけだ。おがくずも使いようによっては価値がある。

 僕が話している間、鈴木さんはうんうんとうなずいていた。

「その方はわたくしの曽祖父とお付き合いがあった方ですね。わたくし自身は直接お会いしたことはございませんが」

 鈴木さんはコップのビールを一口飲みながら言った。コップのビールはすぐになくなった。鈴木さんは「少し待ってください。おつまみをお持ちします。もちろんサービスです」と言いながらキッチンへ入っていく。レストランはガラス窓から外が眺められるようになっている。表通りでないからか時々乗用車が通るくらい静かだ。鈴木さんは皿にのったカシューナッツと二本目のビールを置いた。僕は遠慮なくカシューナッツに手を伸ばした。 

 鈴木さんはこのホテルのことを話をしてくれた。 

「私の曾祖父は元々上田の出の人だったようです。曾祖父は次男で二つ上のお兄さんが跡継ぎとしていらしたようで、まあこの土地家屋を相続するような立場ではなかったようです。それで家を出た曾祖父はどういう伝手なのかパラオにいっています。そこで二年くらい住んでいたと聞いています。曾祖父は下働きのようなことをしながら食いつないでいたようです。しかし、ここに住んでいたお兄さんがなくなってしまったのです。その人はお嫁さんをいただいていたのですが、肺をやられてしまったのです。子供もいなかったんです。それで仕方なしに曾祖父は呼び戻されてここに住むようになったのです。古い屋敷をホテルにしたのです。そのときの建物はここの隣の空き地になっているところにあったそうです。そのホテルが軌道に乗ってからここを建てたのです。戦争の終わったすぐ後でした。名前はずっと同じです。きっと曾祖父からすれば二年という短い間ですが充実した生活だったんでしょう。曾祖父は死ぬまでここを離れませんでした。祖父もこのホテルを継ぎました。私と双子の弟もその姿を見ているのでここで働くことは何のためらいもありませんでした」

 と一気にしゃべり通して、またコップになみなみと注がれたビールを飲んでしまった。僕もそれに併せて飲んだ。

「それだけ歴史があるならば、このホテルの常連さんも多いのでしょうね」

「ええ。おかげさまで。こんなぼろ屋でもファンといっていただける方はありがたいですね。ほら21エモンという漫画があるでしょう。私はアニメしか見たことがありませんが、あれはうちみたいなぼろホテルが舞台でしょう。隣には高級ホテルが建っていて。でも好いてくれる人がいる。スカンレーさんだったかな。冒険家の。お客様はご覧になっていましたか?」

 僕は21エモンを見た記憶はない。ドラえもんをみていたけれど。

「私は曾祖父のようにここを離れて行く勇気はありませんでしたが、ここに来てくれる人と話をすることを喜びとしています。ここにはいろんな人が来ますから。それでは私は奥で残った仕事をして参ります。ごちそうさまでした。二本目とおつまみはサービスいたします。」

 鈴木さんは空いた空瓶を持ってキッチンへ入っていった。僕は暗くなったキッチンを眺めながら残ったビールを一気に飲んだ。

 僕は、教員になってから何か残すことができるんだろうかと思った。おがくずを教えてはいるが、そのおがくずをさらに次に伝えることができているかと思った。

 夜が更けて、真夜中なのに一向に気温は低くならない。

 いつの間にか僕は眠っていた。コップが倒れて残り少ないビールがこぼれてシャツにかかっている。鈴木さんはテーブルを片付けて席を離れていっていた。キッチンの明かりは消されている。

 僕は暗いロビーで音を立てないように自分の部屋に戻った。それから寝る前にビールでぬれたシャツを洗面台で洗った。

 濡れたシャツをハンガーに掛けてからベッドに入った。窓に雨粒が当たる音がする。


 朝、目覚めた時は八時半をすぎていた。夜からの雨はまだやんでいなかった。むしろ打ち付ける雨音は大きくなっている。

 朝食を取る前にシャワーをあびて、新しい下着とシャツを着た。寝る前に洗ったシャツはまだ湿っている。

 髭そりをしてから僕は朝食を食べに部屋を出る。朝だというのに、夜と同じように暗く湿気の多い空気がたまっている。廊下の突き当たりにはそれぞれに窓があるが、この暗さをはぎ取っていくほどの明かりは入っていない。

 朝だというのに人のいる気配がほとんどしない。静かな廊下に話し声やテレビの音が漏れてきても良さそうなのにそれもない。

 一階のレストランは誰もいなかった。夜と同じ場所に座る。キッチンで洗い物をしていた鈴木さんが僕に気がついてやってきた。

「夜はどうもありがとうございました」

 水を置いた鈴木さんにいった。鈴木さんは一瞬戸惑ったように手が止まったがすぐにお盆を持ち直した。

「ああ。兄から聞いております。私は弟です。今朝勤務を交代いたしました。交代の際の引き継ぎにお客様のことは伺っております。私は弟の孝二と申します。兄は誠一です」

 僕は目の前の孝さんの顔をまじまじと見た。全体の作りはやはり双子でそっくりであるが、細かいところ、たとえば右目の下に黒子があるという点で違っている。

「ごめんなさい。間違えてしまって」

「よろしいんですよ。昔からしょっちゅうです。髪型を変えても間違えられるんです。昔は電車に乗っていたら兄の恋人にも間違えられていましたから」

 孝二さんは朝食のメニュー表をだした。和食と洋食が選べるようになっている。僕は見比べて和食を選んだ。 

 それから孝二さんはキッチンへと入っていった。二人ともすべてのことをこなしているんだろう。二人以外にスタッフは今はいないようだった。

 僕は雨の降る空を眺めていた。風も吹いているようで駐車場に生えているシュロが揺れている。目の前の道路を走っていく車は水しぶきを上げる。

 レストランの壁にはさまざまな写真や絵の入った大小混じった額縁が掛けてある。古いモノクロの写真はここができあがった時のものなのか、この建物を背景に人が並んで写っている。

 僕はその一つ一つをじっくりと見る。絵は水彩と油絵が混じっていて、素人の僕もうまいものと下手なものがかかっていることがわかった。最後に僕が見たのは一枚の掛け軸だった。日に焼けて墨と紙とのコントラストがなくなりつつあるが、落款はまだかろうじて存在を認めることができる。泉竹という雅号が草書で書いてあるのがわかった。

「書についてお詳しいんですか?」

 テーブルに朝食を置いた孝二さんが話しかけてきた。僕は、あまり、ただ、と答える。

「この書はこのホテルの常連のお客様からいただいたものです。東京で書家をなさっていたみたいで、昔、この建物ができあがったときに頂いたと聞いております。本当はしかるべき部屋に飾るのがよいと思っているんですが、なんでもその書家の方が、このホテルで目に付くところに飾るようにとおっしゃっていたとのことで、今はこのレストランに飾っております」

「するとこれはずっとここへ飾ってあるんですね」

「本当は玄関に飾ってあったのですが、数年前にリフォームをするためにここへ移したのです。元に戻すつもりでしたが、結局ここにそのまま飾ったままです」

 持ってきてくれた鮭の切り身の朝食を食べ始めた。寸竹亭さんから書を教えてもらっていた頃を思い出した。

 寸竹亭の狭い部屋の畳の上で、与えられた課題を書いていると僕に話しかけていた。それはいろんな話で、昔話だとか旅行に行ったところの景色の様子だとかの話だった。

 そのなかで寸竹亭さんの先生の話も出ていた。その人が泉竹という名前だった。昔聞いていた雅号が同じだから寸竹亭さんの先生だろう。

 こうやって特に目標は決められずに、話をしながら僕は寸竹亭さんから書を習った。僕は中学になっても通っていたけれど、その頃はもう彼は大分年だったから、調子を悪くすることもあった。

 たしか僕が中学二年生の時に寸竹亭さんが入院した。それほど長い期間ではなかったと思う。僕は初めて市民病院の病室へ行った。古い建物で雨に打たれて黒ずんだコンクリートの造りのビルだった。お洒落さのかけらもなく、一度入ってしまったら二度と出られない気がした。

 僕は近所のショッピングモールで千五百円の花を買った。どれがいいのかわからなかったから、店員に目的と予算だけを伝えてかったものだ。 

 受付カウンターで寸竹亭さんの名前を伝えた。教えられたのは四階の一番東にある部屋だった。

 エレベーターで上に上がる。暗い明かりだった。四階にあがると外がよく見えた。瓦屋根と川沿いに植えた青々と茂った桜の葉もよく見える。窓は古くてゆがみのあるガラス窓だった。地震が来ればいつでも崩れ落ちそうだった。僕は消毒臭い空気を吸いながらその部屋のドアの前に立った。 

 ノックをしてからゆっくり入ると寸竹亭さんは窓辺にあるベッドに腰を下ろして書き物をしていた。僕を見ると紙とペンを布団の上に置いてある黒い蒔絵の箱の中にしまった。

「寸竹亭さんが心配なので顔を見に来ました」

「おおそうか。これはありがとう。あとで花瓶に生けさせておこう」

 僕から花を受け取ると優しく僕から受け取った花を箱と一緒に出窓の棚板の上に置いた。

「この箱は私の先生の泉竹先生からいただいたものだ」

 僕が確実に聞いた寸竹亭さんの先生の名前だ。僕はそれよりも前に聞いていたかもしれない。しかしそれ以外には覚えていない。

 朝食を食べ終えるタイミングで孝二さんがコーヒーを持ってきてくれた。白い磁気で青いラインが一本入っている。ソーサーもカップに合わせた同じデザインだった。

「おかわりはご自由ですので、必要でしたらお声がけください」

 僕は砂糖もミルクも入れずに一口飲んだ。窓の向こうの雨はいっこうにやむ気配がない。駐車場の水たまりも大きくなる。

「残念でしたね。せっかくのおでかけですのに」

 おかわりのコーヒーを気を利かせて注いできた孝二さんが言う。

「ええ。ですが、僕は晴れていてもきっと外には出かけてないと思います。じっくり座ってここでおいしいコーヒーを飲んでいたと思います」

 部屋に戻ったが見たいと思う番組は何一つなく、今更一冊も本を持ってきていないことを悔やんだ。

 傘を持って僕は外に散歩に出かけた。このあたりの地理は全くわからなかったがとりあえず東に向かった。まっすぐ行くと川にぶつかったので、川沿いを北に行く。普段の川の様子はわからないが、夜の闇の中ででも水が強く流れていることがわかる。

 二十分くらい歩いたところで雨は幾分小ぶりになってきた。僕はホテルに向かって歩いて行く。ホテルの駐車場はさっきと変わらない。二階の窓のカーテンを閉めた客室から明かりが漏れているのが見えた。ここには僕以外の客がいることが実感できた。

 ロビーには鈴木さんがいた。どちらの鈴木さんかはわからず「ただいま」とだけ言った。「お帰りなさいませ。夕食はどうなされますか?」

 誠一さんだとようやくわかった。カウンターの時計は十一時を過ぎている。途中の店で食べてくる気分はなかったので、「お願いします。すぐにレストランへ行きます」と言った。

 メニューを見て僕はフィレ肉のソテーとクリームスープ、パンを頼んだ。それから、お酒の代わりにオレンジジュースにして、食後にはコーヒーをお願いした。コーヒーはサーバーで頼んだ。

 料理が来る間、窓の外を見ると向かいの商店のネオンの看板がちかちか点滅していた。接触不良なのか老朽化しているのか青い明かりが点いたり消えたりする。規則正しい点滅ではなく、点いている時間が長いときもあれば短い時間で明滅する時もある。

 その明滅する看板を見ながらソテーを食べる。食べながら先客が気にしている。だからどんな味だか一向にわからない。

 食べ終ると僕は向かいに人の気配を感じた孝二さんかと思って顔を上げるとそこに寸竹亭さんがいた。

「ここ、よろしいかな?」

 声ははっきりとしていた。記憶にある声だった。

「大丈夫ですよ。寸竹亭さん。お久しぶりですね」

 初めて寸竹亭さんと会ったときと同じくらいの年だった。最後にあったときは痩せていたし、しわも深くなっていた。なにより縮んでしまっているようだった。明るい茶色の背広を着ていた。

 彼は亡くなったと聞いているし、なによりも先生の年から考えてもちらりと見えた顔や後ろ姿は、年齢から考えられるよりもずっと若かった。けれど、僕は恐ろしいとか、夢を見ているんじゃないかとかいう考えは浮かばなかった。

「うん。元気そうだね」

 向かいに寸竹亭さんは座った。上着を脱いでイスの背もたれにかける。

「息子も孫も私のことは気にかけてくれないからね。君だけだよ。ずっと私の与太話を聞いてくれたのは」

「与太話って言うのははやめてください。僕は寸竹亭さんのおかげで教師をやっているようなものですから」

「そうか。その食事はうまいかね」

「はい。とても」

「そうだろう。ここは昔から食事がいい」

 寸竹亭さんは僕の前に座った。ニコニコしながら僕の顔を見る。

「もう、食事は済まされましたか?」

「ああ。もう十分食べたよ」

「コーヒー飲みますか?」

「そうだね。もらおうかな」

 厨房を覗いてみたが鈴木さんは、どちらかがいればいいかと思ったけれど、静かで気配は全くしなかった。

 だから僕が小さく失礼します、と言って厨房からカップを一つ拝借した。それにコーヒーを注いだ。

「こうやって静かなところで飲むのもいいね。一人じゃなくて。仕事相手と飲むのは休まらないから好きじゃないよ。それに、昔は私がごちそうしたが、君からごちそうになるとは 思いもしていなかったよ」

「そうですね。寸竹亭さんからコーヒーの味も教わりました」

「そう言われるとうれしいね。隠居してからの方が楽しかったよ。君に書を教えることができたしね。さっさと息子と代わることができてよかったよ」

 寸竹亭さんはにこにこしながらコーヒーに口をつける。

「君とはここでしか会えないわけだけど、私は君に贈り物をしたいんだ。これは君にしか渡せない。私が先生から預かった大事なものだよ。大切にしてくれ」

 寸竹亭さんは風呂敷包みを僕に渡した。風呂敷はつやつやして手触りのよい絹でできたものだった。

 寸竹亭さんはすぐに席を立ってそのままレストランから出て行った。

 僕はレストランを出ていく寸竹亭さんに立ち上がって声をかけた。出ていったら二度と話ができないと思った。

「あの、もう一度書道を教えてください。まだ寸竹亭さんに教えてもらわないといけないことがあって」

 彼は頭を掻いてから、にこにこしながら僕のほうに戻ってきた。硯箱から書道道具を丁寧に出す。螺鈿の禿げた古い硯箱だ。それからしばらく寸竹亭さんの手ほどきがあった。

 どれくらい時間をかけたのかわからないが、最後は僕が書いたものに黒い大きな丸を書いてくれた。

 気がついたとき布団の中にいた。いつ潜り込んだかも覚えてはいない。

 ただ、ちゃんと預かった包みは丸いテーブルの上に残っていた。一緒に昨日の夜のコーヒーサーバーがある。中には少しコーヒーが残っている。

 ゆっくりと着替えをする。その間も常に包みとサーバーを視界に入れていた。

 着替え終わるとコーヒーを棚の中にあったカップに注いだ。それを一口飲むと頭がすっきりした。

 それから書道の準備を始める。箱の中の墨を磨るとよい香りが部屋の中に広がっていく。

 硯箱に入っていた筆は寸竹亭さんが昔作った筆かもしれない。昔見た女竹と同じ模様だった。使い込まれたせいで濃淡のあるまだらが、ぼんやりしている。

 三十分の間、墨をすり続けた。磨っている間、何も考えていなかった。十分に黒くなった墨で寸竹亭さんの名前を書いた。黒い文字はゆっくりと紙へとにじんでいく。    


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