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月下の果樹園

作者: ソミノ羽

夏の終わり、僕は父に連れられて祖母の家へと向かっていた。都会の暑さから解放されるのはありがたいが、古い農村地帯へ行くのは気が乗らなかった。父は仕事で忙しく、祖母の様子を見に行くのは僕の役目だった。車を降りると、小さな瓦屋根の平家が辺りに溶け込むように建っていた。庭には祖母が手入れしているはずの草花が風に揺れている。

 玄関戸を開けると、祖母は台所で麦茶を淹れていた。相変わらず腰は曲がっているが、その眼差しは優しく、僕を出迎える笑顔は今も変わらない。「久しぶりだね、涼太」と、彼女は柔らかな声で言った。僕は軽く会釈し、荷を下ろす。荷解きを済ませ客間で一息つくと、祖母が窓の外を見つめているのに気づいた。その先には、小さな林がある。かつて祖父が育てていた果樹園が、すっかり荒れ果てた姿になっていた。

 夜。祖母が早めに床についたあと、僕は縁側で蚊取り線香の煙を眺めていた。このあたりは星がよく見える。すると、林の方から奇妙な光がちらつくのを認めた。何だろう。懐中電灯を手に、サンダルのまま外へ出る。草むらを掻き分け、林の奥へと踏み込むと、そこには小径が続いていた。昔祖母から聞いたことがある。「あの林の先には、魔法の果樹園があるんだよ」と。子供の頃は冗談めかしていたが、今こうして光が瞬くのを見れば、少し不思議な気分だ。

 小径を抜けると、そこは月の光に満ちた小さな果樹園だった。周囲を取り囲む木々には青白い花が咲き、銀色の実が垂れている。これは何の果実だろう。見たことのない光景に足をすくませていると、背後から足音がした。振り返ると、薄い白衣を纏った少女が立っていた。年は僕と同じくらいだろうか。瞳は月光を反射して淡く光り、髪は風になびく。「誰?」と僕は問う。

 「私はこの果樹園の番人。あなたは?」少女は首をかしげる。その仕草はどこか猫のようだ。「僕は涼太。ここは何なんだい?」少女は微笑んだ。「ここは『月下の果樹園』。昔、この地を愛した人々が願いを込めて生み出した、幻の庭。夜のうちに花咲き、満月に実る果樹が集められているの」

 信じ難い話だが、目の前の光景がすべてを物語る。実際、その木々からは不思議な光がこぼれ落ち、足元の草花すら淡い青い蛍光を放っている。僕は思わず手を伸ばし、銀色の実を一つ掴もうとした。しかし、少女はやんわりとその手を制した。「まだ収穫の時期じゃない。それに、この実はあらゆる病を癒す奇跡の果実だと伝えられているわ。何気なく手にすることは許されない」

 祖母は近頃、体調がすぐれないと聞いている。けれど本人は「歳だよ」と笑うばかり。僕はその果実を祖母に食べさせてあげたいと瞬時に思った。「お願いだ。一つ、その実を譲ってくれないか。僕の祖母が、少し具合が悪いんだ」

 少女は寂しげに笑う。「この実は満月の夜にだけ収穫できる。そして今夜は満月。でも、収穫の儀式を行わないと実を手にできない。私だけでは難しいから、あなたも手伝って」

 僕は首を縦に振った。少女は白衣の袖を翻し、園の中央へと歩む。そこには、丸い泉のような水面があり、月の光が差し込んでいる。少女は両手を合わせ、静かに歌い始めた。その言葉は理解できないが、不思議と心地よい響きだった。いつの間にか、果樹園の花々がそよぎ、銀色の実が淡く揺れ始める。「さあ、あなたも泉に手をかざして」少女が言う。

 僕は泉の上に手を翳した。月の光が指先を包み、泉の水面がふわりと揺れる。すると、最も大きな木から一つの銀色の実が落ちてきた。少女はそれを受け取り、慎重に両手で包み込む。「これでいいわ。これをあなたのおばあ様に差し上げて」

 僕は深くお礼を言うと、戻る道を探した。しかし少女は首を横に振る。「ここは昼間は存在しない場所。夜が明ける前にここを出ないと戻れなくなる」焦った僕に、少女は「私についてきて」と微笑んだ。

 小径を逆にたどると、先ほどの草むらの出口に出た。振り向くと、果樹園の光は薄れ、木々はただの影のように沈黙している。「待って、君は…」と尋ねるが、少女の姿はもうない。ただ、涼やかな夜風が頬を撫でるばかりだった。

 翌朝、祖母の家で目を覚ますと、あの銀色の実が手元にあることに気づく。夢じゃなかったのか。祖母に果実を差し出すと、驚いた顔で「こんな綺麗な果物、見たことないよ」と微笑む。半信半疑のまま、祖母はその実を少し口にした。するとみるみる元気になり、その頬に血色が戻るのがわかった。

 数日が過ぎ、祖母はかつてのように畑へ出るようになった。僕は祖母に林奥の果樹園の話をしたが、祖母は遠い目をして「その話はお前が小さかったころにしたね。まさか見たのかい?」と微笑むばかり。「あれは昔、おじいさんが皆と力を合わせて作り上げた“心の果樹園”だったらしい。でも戦後の混乱や、人々の流出で荒れてしまったんだとか。今はもう跡形もないはずなんだけどねえ」

 祖母が元気になり、僕は東京へ戻る日が来た。朝早く荷物をまとめ、庭先に立つ。風に揺れる草花の奥、あの小径があった場所はただの藪になっている。でもふと、風に乗って甘い香りがした。その香りはあの夜、果樹園で嗅いだものと同じだった。

 僕は祖母に手を振り、再び車に乗り込む。窓から見える林の葉先に、ちらりと白い衣の少女がいたような気がした。でも次の瞬間にはもう何もいない。

 東京へ戻った後、忙しい日々の合間に、あの夜の果樹園を思い返す。あれは幻だったのか、それとも本当に存在したのか。僕の中には、確かな香りと、銀色に輝く果実の記憶が残っている。そして祖母の快復こそが、その出来事の証拠なのだと感じている。

 あの「月下の果樹園」は、きっとこの世界と隣り合って存在する、心の中の秘密の庭。いつか再び訪れることができるだろうか。その時はもう一度、あの少女と話してみたい。何を語り合えばいいのかは分からないけれど、きっと月光の下では、どんな言葉も意味を持つのだろう。

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