第四十五話「氷の壁」
着地方法が思いつかないまま、サラはイリスと別れた場所へと戻って来た。
風で薄くしか開かない目で見渡すと、黒毛の巨大な生物が拳を振り上げていた。
一見イリスの姿が見えないが、状況的にあの猿かゴリラか、とりあえず怪獣の向こう側にいるんだろうとサラは思う。
「って待って!? このままだとあの怪獣に突っ込んじゃう! 危ないどいてぇぇええええ!!!!」
全力で叫んでも、反応より先にサラは落下する。
怪獣の巨大な頭にサラは空中落下式両膝蹴りを披露していた。
魔力鎧が八割方剥がれ、完全に落下するまでに魔力で補強する。
怪獣が叫びながら前のめりに倒れ、サラの視界にようやく驚いた顔のイリスが見えた。
「ごめん受け止めてぇ!!」
物語のように颯爽と助けに入るなんて出来ないサラは、着地をイリスに全投げした。
イリスは驚きながらもすぐに状況を理解して、サラを受け止めると体を捻って勢いを殺す。
すぐさま氷の壁で自分達を囲い、周囲と断絶する。
「あー助かった。一時期はどうなるかと思ったよ。ありがとイリス」
礼を言うサラをイリスは不機嫌に睨みつけてきた。
「バカかお前は! なんで戻って来た?」
「バカはイリスの方だよ!」
言い返されると思っていなかったのかイリスは押し黙る。
氷の壁を破ろうと、外の生徒は集中攻撃を仕掛けている。
だけどそんなことは気にせず、サラはイリスと向き合った。
「どうせあたしを巻き込みたくないとかそんなしょうもない理由で逃がしたんでしょうけど、その程度の事情で友達を見捨てるほど薄情じゃないよ!」
「お前を巻き込みたくないのは確かだけどそれだけじゃない。オレはお前が傷付いて離れていくのを見たくない。これはオレの弱さの問題なんだ」
サラは出来る限りイリスに信用してもらおうとしていた。
けれどイリスをトラウマから解放するのに必要なのは言葉ではなく証明。
だからサラは戻って来た。
「お前がいい奴なのは知ってる。でもオレと親しくなった奴の末路は嫌って程見てきた。いくらお前でもオレと関わらなければ良かったって思う日が必ず来る。それが何より恐いんだ。オレと居ればお前も不幸に巻き込まれる……」
「その不幸を一緒に乗り越えるためのパートナーでしょうが!! あたしとイリスはもう一蓮托生。今更イリスがどうこうしたって、ライアさんはもう戻って来たあたしも標的にしてる。もう後戻りは出来ない。あたし達には二つの選択肢しかない。一緒に未来に進むか、過去に囚われて一緒に倒れるかだよ」
自分は裏切らないと確証させるような担保をサラは用意できない。
それでも覚悟は伝えられる。
自分だけ逃げ道を用意するなんてしない。
退路を断って、サラの覚悟を、思いを、イリスに突きつける。
これは賭けだ。
差し出したこの手を取らなければ終わる。
イリスは戸惑いの表情を浮かべる。
サラの手を取りたいと思いながらも、まだ恐怖が拭えないのか、答えを見いだせない手が落ち着きなく動く。
出来ることはやった。
あとはイリスを信じるしかない。
ここからは信頼の問題。
サラはイリスを信じて戻って来た。
そんなサラをイリスが信じてくれるかどうか。
不安と恐怖と葛藤で揺れ動くイリスの目をまっすぐに見る。
見つめ返すイリスは震えた声で話す。
「オレは犯罪者の子供だ」
「だから何? イリスは優しい人だって知ってる」
「オレは姉さんの未来を奪った」
「違う! お姉さんがイリスに自分の夢を託したんだよ。大好きな妹だから」
「気にかけてくれた子を魔力暴走で傷つけた」
「失敗も挫折も後悔も一緒になら乗り越えられるよ! この三日間、授吻しても大丈夫だったんだから大丈夫。根拠はないけど断言出来る。二人なら平気だよ!」
問答を重ねるほど、イリスの顔から不安が薄れる。
「……もう一度、差し出してくれた手を取ってもいいのかな…………誰かと一緒に、そんな資格がオレにあるのかな……」
「資格なんか必要ない! イリスがこの手を取りたいと、一緒に居たいと思ってるならそれだけでいいんだよ! そこに親も姉も過去も関係ない! イリスの本音を聞かせてよ!!」
犯罪者の子供で、姉を犠牲に生き延び、自分の失敗で人を傷つけた。
そんな自分でも、サラはここまでしてくれる。
もし本当に自分に正直になっていいのなら、もし本当にもう一度誰かを信頼してもいいのなら、もし本当に孤独に生きなくていいのなら――――、
「――助けて。過去に囚われたオレを、孤独に耐えられないオレを、不器用で不愛想で人から疎まれてるオレを助けてくれ――――オレと、“授吻”してくれ」
ゆっくりと伸ばしたイリスの手をサラは掴んで引き寄せる。
引き寄せられて驚くイリスの口に、サラは自分の口を重ね合わせる。
「「んっ……」」
一瞬目を見開いたイリスはすぐにサラの魔力を受け入れる。
徐々に氷の壁が砕かれているなか、それでも二人は自分のペースで授吻を行う。
互いに手を取り合うように舌を絡ませる。
鼓動が高鳴り、吐息が混ざり、熱を交換し、魔力が溶けあい、一つになっていく。
イリスの中に温かく心地よい魔力が流れ込んでいく。
ぐっと体を寄せ合い柔らかい体を受け止め合う。
「「んぅぁ……んんっ……」」
壁を壊す轟音より、漏れる瑞々しい吐息と衣擦れの音が鼓膜に響く。
二人を包む優しい冷気が徐々に強くなっていく。
イリスの銀髪が細氷のように輝き出す。
そして、ライアの召喚した黒毛の大猿が分厚い氷の壁を殴り壊して大穴を空けたその時――、
――――グロァアアアアアアッッ!!!!
空気を揺らすほどのけたたましい叫喚。
後退りする大猿の拳はから煙のように冷気が揺れ、皮膚がはがれて朱色の肉がむき出しになっている。
「一体何……」
自身の最高戦力が痛みに狼狽する姿を見て、ライアを含めて全員が困惑する。
大猿が空けた大穴から、氷の鱗を纏った竜が姿を現す。
竜の背中には二人の影。
袖口や襟に毛皮の付いた白いロングコートを羽織り、朝日に照らされた雪のような白銀の輝きを放つ髪をしたイリスと、そんなイリスに寄り掛かるサラ。
「解花――氷外套。さあ反撃開始だサラ。振り落とされるなよ」
「どんとこい!!」
大猿に負けず劣らずのサイズをした氷竜。
ほとんどの生徒が圧倒される中、ライアだけがまだ戦う意思を残している。
「たかが解花になっただけよ。解花状態になった数はこっちの方が多い! 一斉に畳みかけるわよ!!」
ライアの号令で気を引き締めた生徒たちは戦闘態勢に入る。
解花状態なのは他も同じ。
数を考えればライア達の方が圧倒的に有利なはず。
それなのに、ライアの中で余裕というものは生まれない。
「試験終了まで時間がない。一気に行こう!」
「問題ない。すぐに終わる」
「え?」
張り切るサラに対してイリスは冷静だ。
挑発のようなセリフだが、負け惜しみでない確証に満ちた表情にサラは困惑する。
氷竜が天を仰ぐ。
鋭い牙を覗かせる口に冷気が収束する。
凍てつく空気が震え、劈くような音が響き渡る。
その迫力と威圧感に全員が呼吸を忘れて――――。
「――――銀ノ咆哮」
収束された冷気の発散、轟音。
視界のすべてが白で埋め尽くされた――――。




