死に損ないの被験体B
最近腹が減らなくなった。正確には減っているのかもしれないが、食欲が湧かない。もう24時間以上まともな食事をとっていない。まあ"まとも"と言っても、いつも同じような物しか食べていないのだが。
今日の天気は曇りらしい。格子の隙間から見える鈍色の雲の層が、そのまま自分の中に垂れ込めて覆い尽くされるような錯覚に陥る。こんな日は何もやる気が出ない。低気圧だかなんだか分からないが頭痛がするし、日光か入らないため暗くて本も読みづらい。電気をつければいいのだが、立ち上がるのが面倒だ。硬く冷たい壁に背中を預け、足を投げ出す。起きたばかりだが仕方がない、もうひと眠りするとしよう。
目が覚めると、部屋はすっかり暗くなっていた。寒い日が続いているから、今はきっと秋か冬ぐらいで日が短いのだろう。冷たい床に芋虫のように横になると、両の手足を伸ばして凝り固まった全身をぐっと解す。そうすると足の先になにかが触れてカタンと軽い音がした。音のした方を向くと、盆に載った今日の飯が置かれていた。どうやらなにか汁物の入った椀を軽く蹴ってしまったようだ。薄茶色の液体が盆に少しこぼれていた。ふと妙な心地がして、自分の腹に手を当てる。腹痛とは違う、何か奥の方から圧力がかかっているような感覚。…空腹だった。
汁物の椀を手に取る。まだ湯気の上がるそれは、塩辛くどこか落ち着く匂いを発していて、鼻腔を通じて胃袋を刺激する。僅かな月明かりに照らされて、深碧色の平らなのと、なにかフカフカとしたすごく小さな布団のような具が浮いているのが分かる。それらが何と言う名前なのか、もう思い出せない。
…美味しい。いつの間にか椀に口をつけて汁を飲んでいた。温かく染み渡るような心地良い塩味が、柔らかい具を包み込んで完璧な調和をなして胃に流れ込む。一口、もう一口。久々の食物に全身が歓喜しているように感じた。
夢中で飲み干し、椀を盆に戻す。そこで、汁物とは別に椀によそわれた白飯と、飾り気のない小皿にのった野菜炒めのようなものが目についた。あぁ、そうだ。いつもこうだったじゃないか。えぇと、この野菜は…何と言う名前だったっけ。
…気付けば右手に箸を持ち、小皿から野菜を摘むと白飯にのっけて一口、また一口と食べ進めていた。つやつやと輝く甘い飯粒と、香ばしい匂いの野菜が織り成す味わいが胃袋を魅了する。
かつてこんなにも食物を存分に味わったことがあっただろうか。完全に空になった椀を見つめていると、無意識のうちに口角が持ち上がった。もしかしたら、自分はこのために生まれたのかもしれない。極限の空腹の後に待つ究極の食事、それを味わうために…。
あの食事をとってから、三日ほど経っただろうか。目が覚めたら暗くなっていたり明るくなっていたり、正確に時間を把握しているわけではないのではっきりとは分からない。あれから何度か盆に載った飯が置かれていたが、あれ以来手を付けていなかった。そろそろ食べ頃だろうか。そう思うとさっきまでそこに置かれていたはずの飯の載った盆が待ちきれなかった。今か今かと待ち受ける。しかし眠い。強烈な眠気に襲われ、瞼が閉じようとする。だめだ、寝てはいけない、あの究極の食事をとるのだから。…あの、食事を…。
頭のすぐ近くで、コトンと物を置くような音がして目が覚める。頬に硬い床の感触。右手を伸ばしてうつ伏せになった状態で寝てしまっていたようだ。…飯!そうだ、遂に何日かぶりの食事を、究極の食事をとろうとして眠り込んでしまったのだった。震える両腕を支えに上体を起こすと、箸を手に取り白飯を口に運ぶ。微かな月光を受けてつやつやと輝く飯粒は、これまでに見たどんなものよりも美しく感じた。…これまで?一体何のことなのだろう、自分で思っておきながらよく分からない。
白飯に小皿の野菜をのせて、一口、また一口。この前食べた物とはまるで異なる食感の野菜だった。少し酸味のある味付けになっているようだ。半分ほど食べ進めたところで、白飯の椀を盆に戻す。まだ汁物に口をつけていないことに思い至ったからだ。いくらか震えの治まった左手で椀を持つ。こちらもまた前食べた物と違い、柔らかそうな賽子のようなのと半透明の細長い具が入っている。しかし食欲をそそる塩辛い匂いは変わっていない。…椀をゆっくりと口に運び、傾ける。口内に残った白飯の甘味と野菜の酸味が、汁の塩味に混ぜ合わさって形容し難いほどの美味しさが舌に伝わる。
…思わずため息をついた。既に盆の上の食器はどれも空っぽになっていて、究極の食事の終わりを如実に語っている。しかし今最も感じているのはそれの終わりによる虚無感ではなく、ある一つの不安だった。…あの究極の食事は、果たしていつまで究極でいてくれるのだろうか、と。
それからまた何日も経った。永遠の究極を求めて思考を巡らせていたのだ。無論盆には手を付けていない。そうして考え続けた末に、私はある一つの結論に達した。あの盆に載った食事が究極であるためには、自分の空腹が必須条件としてある。ならばその空腹の度合いを必ず前よりも強くしておけば、究極の食事は常に究極であり続けるはずだ。…思わず笑みがこぼれた。何故今までこんなに簡単なことに気付けなかったのだろう?
…究極の食事に関する究極の結論に達してから、また何日かが経過した。既に手足の震えは頂点に達しており、立ち上がる事もできなければ、本のページを捲ることもままならない。だがしかし、これもあの究極の食事のためだ。盆が置かれ、回収され、また置かれる度に胃袋が鳴き叫ぶのをきいた。まだだ。まだあの盆に手をつけてはいけない。今手をつけてしまえば、きっともう二度とあの想像を絶する美味を味わうことはできないだろう。震える両手で両手首の辺りを掻き毟る。…手首?虫にでも刺されたのだろうか。いや違う、虫に刺されたのなら丸く腫れるはずだがこれは…細長い。何本かあるようだ。かさかさになって腕を縦断するように長いものもあれば、まだ少し血が滲む短い横線もある。一体いつ出来た傷なのだろう。
…眠い。胃袋を奥側から圧迫するような空腹感も、いつからか眠気を誘発する甘い刺激となっていた。瞼が閉じていく。そういえば今日はずっと雨が降っている。霧雨ではない、誰もが傘を差すだろう雨だ。…誰もが?一体誰のことを言っている。誰とは何だ。他人か?他人とはなんなんだ…。下らないことを考えかけて、止めた。襲い来る眠気に抗い思考を働かせるよりも、身を任せた方が楽だ。
深い深い眠りに落ちていく。ゆっくりと海中を漂うようだと思っていると、急に奈落の底へ猛スピードで落ちているような感覚に変わる。何も考えていない。考えているけれども、口に出すことが出来ない。他人に説明出来るほどのことは何も、考えていない。他人って誰だ。誰なんだ。そもそもこの"世界"は一体…?
コトン。また盆の置かれる音がする。胃の辺りが断末魔をあげている。
…そろそろ、食べ頃だろうか。
〈観察結果報告書〉
対象:被験体B
期間:20XY年✕月◯日〜20XZ年□月△日
死因:長期間の絶食による飢餓死
備考:過去の出来事について話すことを避ける傾向にある。記憶障害の疑いあり。また、手首を切る、指を噛むなどの自傷行為が目立つ。本をよく読む。
試行Lの実行日以降食事をとらない日が増えはじめ、死亡時点で既に16日間の絶食状態にあった。
20XY年に導入された被験体の中で最も長期間生存した。