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言葉は夜空に咲き、そしてまた僕は海を歩く

作者: 高藤湯谷

この星の九割は、水でできている。大地は海に沈み、その土地に暮らす生き物は、皆水に呑まれた。

僕は、そんな海の上を一人歩いていた。

誰もいない海の上。凪いだ水面に映るのは、表情を失った僕の顔。

僕はこの星の住人ではなかった。星を旅する放浪者だった。

いくつもの滅んだ星を見てきた。その全てが荒廃し、砂漠となって後は星の寿命を待つだけになっていた。

なのに、この星はいつまでも青く澄んでいた。その理由が知りたくて、僕はこの星に降り立った。


「ああ……そろそろ時間だ」


僕は上着のポケットから一粒のラムネを取り出す。それを飲み込むと、体の内から活力が湧いてくる気がした。

僕はこれがなんなのかを知らない。ただ、死にたくなければこれを飲めと言われてから、十二時間おきにこれを飲んでいる。一度、寝過ごして飲み忘れたことがあったが、急激な疲労感と圧迫感に襲われて跳ね起きた。

これがなければ、僕はきっと死んでしまう。だと言うのに、ラムネの在庫はあと数十しかない。

もらった時はケースに入っていて、そのケースも大量にあった。それこそ、持ちきれないくらい。

だから、僕は鞄をラムネで満たしてこの世界を放浪していた。

これがなくなったとしても、僕が生きられる星を探すために。


青い星というのは、つまり生きている星のことだ。水が溢れ、生命が宿り、そこに暮らす人たちがいる。

そんな星は、もうしばらく見ていなかった。見つける星のほとんどが、赤や金、灰色に茶色といった、とても人が住めるようなものではなかった。

だから、やっと見つけた青い星に、僕は例えようのないくらい期待していた。

けれどそんな星も、この有様だ。全ては水で満たされ、生物は全て水の中。

僕の体は沈まない。もしも知能を発達させた水棲生物がいたとしても、僕は会うことすら叶わない。

もう、一体どれだけの時間こうして彷徨っただろう。まだ一日だったかもしれないし、もう数年ここにいるかもしれない。

ラムネの数は、残り一ケースになった時点で数えるのをやめた。それまでだって多すぎて数えられなかったのだから、最初から数えていないといった方が正しいのかもしれない。

数えていたならば、日付の感覚も残っていただろうか。たとえそうだったとしても、僕は数えたりはしなかったと思う。不思議な確信があった。


「陸……孤島か」


久しぶりにみる陸地だった。そのほとんどは海に侵食され、今や僕の足で百歩も歩けば反対側まで辿り着いてしまうほどの極小の陸地。

こんなところにも、植物は根気強く咲いていた。

見たこともない、変な形をした木が一本、ぽつんと真ん中に生えていた。

その幹は赤く、僕がいた星とは全く違う生態系をしていたことが窺える。葉は幹よりも真っ赤で、ゆらゆらと陽炎のように揺れていた。

僕はその幹に背中を預け、眠るように目を閉じる。

様々な光景が瞼の裏に蘇るが、そのどれもがもう既に見ることのできない思い出の風景だった。

人がたくさんいる街並み、川で水を飲む動物、ネオンの光に照らされた夜の星。

全ては、人がいた頃の景色だ。少なくとも、僕はもうこんな情景が見られる星を知らない。

この世界の遥か彼方に、もしかしたらまだ残っているかもしれない。けれど、もう僕は歩みを止めてしまった。

ここで、終わりにしようと思う。どうせもうあと数えるほどの時間しか、僕には残されていない。

なら、醜く足掻くよりも、いっそ自分の手で終わらせてしまった方が、清々しいのではないかと思ってしまう。

僕はまた立ち上がると、ラムネを一粒飲み、真上から降り注ぐ陽光の下を歩き始める。

眠りには、つけなかった。


この星は、夜が来ない。常に日は真上にあり、僕を照らし続ける。

外から見た時の記憶だが、この星の周りには恒星しかなかった。もちろん、自分で光を放つような星に生き物はいないので、僕は何も考えずにこの青い星に足をつけた。

でもよくよく考えてみると、雲一つないのに、常に陽の光を浴びていて、なぜ水は枯れないのかが疑問に思えてくる。

僕の体は温度の変化に捉われないが、それでも暖かな日差しであることは肌で感じられる。

それなのに、水が蒸発することはないのだろうか。

僕は持て余した時間を使ってうんうんと頭を捻ってみたが、到底答えには辿り着けなかった。

また一粒ラムネを飲み、足を前へ前へと動かしていく。

いつしか、踏み締めるものは底のない水から、カンカンと鳴る硬質な物質に変わっていた。

金属のようにも思えるが、それにしては綺麗すぎた。水に何年晒されていたかわからないけど、未だに形を保っているとは思えない。

これは、人の手によって加工されたものだから。人が作ったものは、どれも必ず時代とともに風化する。

原型を留めている街を見たことは、ついぞなかった。

だから、僕はなんの感慨もなしにその物体の上を歩いていく。

やがて辿り着いたのは、海と陸が交差する場所だった。

その全ては水に沈んでいるのに、表面は砂色の陸地で、まるで空を映す大地に降り立ったような感覚だった。

僕は海なのか陸なのかわからない場所に腰を下ろすと、呆然と空を仰ぎ見る。

陽光が目を刺すが、僕はそんなのも気にせずに白色に染まる視界をぼーっと眺めた。


この星に、変化は訪れない。少なくとも、この水面には。

なのに、僕の耳には声が聞こえた。澄んだ高い声だった。何か歌を歌っているようで、リズムに乗った声が響いてくる。

思わず声の方を振り返ると、純白のワンピース一枚を身に纏った、十歳にも満たないような少女が踊っていた。

踊りとリズムに合わせて足を動かし、少しずつ移動しているようだ。

その少女は僕の前までやってくると、目を瞑ったまま楽しげに舞を披露する。

僕のことが見えているのかと思ったけど、違う。ただ足に伝わる感覚だけで、場所を把握しているようだった。

まるでそこがステージであるかのようにくるりくるりと踊り、やがて中央で綺麗なお辞儀をする。


僕は、思わず拍手を送っていた。

その音に少女もこちらに気がついたようで、ぱちっと目を大きく見開くと、驚いたように僕の方を見つめてくる。

だけど、その瞳は光を捉えていないようだった。焦点の合わない目で’音がする方向’を見ているだけだった。


「驚かせてごめん。君は、ここで何をしているの?」


僕がそう問いかけても、少女はこくんと頷くだけだった。なんでだろう。もしかすると、言葉が通じていないのかもしれない。

放浪を始めてからは誰とも話していなかったから、言葉という壁があることをすっかり忘れていた。

これじゃあ、いつか誰かと話すためにと発声練習をしていた僕が馬鹿みたいだ。

少女は、暗い翡翠色の瞳で僕を見詰めていたが、急ににぱっと笑顔になると、僕に手を差し伸べてきた。


「僕が、わかるの?」


ついそう尋ねてしまったが、やっぱり言葉は通じていない。おまけに目も見えないのに、どうやってこの子は僕を認識しているんだろう?

色々と気になることは多かったけど、僕は少女の手を握り返した。

ゆっくりと存在を確かめるように上下に振ってきたけど、何かを思いついたように走り出した。

突然のことに転びかけたけど、どうにかバランスをとって僕も足を動かす。

少女は、僕よりも早かった。身長差だってあるのに、必死に走ってようやく並べるくらいだった。

止まった時、僕は息が上がっていたのに、少女は涼しい顔をしていた。

僕の呼吸が整うのを待った後、少女は人差し指で一点を指差した。

そこには、海の底へと続く洞窟が口を開けていた。ここが、この子のお家なのかな?

訊いたところで答えは返ってこないので、僕は代わりに足を一歩前に進めた。

ピシャッと水を踏む音がする。それに合わせて、少女もまた前へと歩く。

よくよくみると、少女の足は裸足だった。確かにこの星には水しかないからいいのかもしれない。でも、洞窟の中は裸足じゃ辛いだろう。

なぜか外よりも足取りが軽くなった少女と洞窟の中を歩く。

洞窟の中は暗いかと思ったけど、意外と明るかった。どうやら、暗闇で光る植物が辺り一面に生えているらしい。


「いてっ」


僕は時折飛び出た石に足を引っ掛けて躓きそうになることがあるが、目の見えない少女は見える僕よりも堂々とした足取りで歩いていた。


「なんでそんなにしっかり歩けるの?」


僕がそう尋ねると、少女は元気よくサムズアップしてくる。

違うんだよなぁ……。やっぱり言語の壁は高かった。

何度か転びながら歩き続け、着いた場所は海の中だった。

海と洞窟の間にはガラスがあって、まるで水族館みたいになっている。


「僕をここへ連れてきたかったの?」


少女はニコニコと笑うだけだが、きっとそうなんだろうという確信があった。

僕は水に沈めない。だから、こんな光景を見るのは初めてのことだった。

海の中には小さい魚や大きな魚、虹色の鱗をもつ胴の長い魚なんかもいた。

優雅に泳いでいるが、たまに大きな魚が小さな魚を捕食している場面もある。そんな大きな魚を、さらに大きな魚が食べていた。

あれは、一体どれくらいの大きさなんだろう。僕の数百倍の大きさはあるように感じる。

まるで、遥か大昔に滅んだって言われる恐竜を思い出すような体躯をしていた。

僕なんか一口で飲み込まれてしまいそうだ。

だけど、こんな小さな人間には興味がないのか、どんな魚もこちらを気にする様子はない。

こんな一枚の板で隔てられているだけなのに、そこには大きな壁があった。

それは、僕と少女の隔たりのようにも感じられた。


ふと少女を見てみると、ガラスの向こうに思いを馳せて、涙を流していた。

そこに、どんな感情や想いがあるのか、僕には全く想像もできないけど、その涙はきっと、ここにはない何かを想ってのものなんだろうと思えた。

僕の視線に気付いたのか、少女が顔を上げた。自分が流した涙には気づかず、僕だけを真っ直ぐ見ていた。

ただただ、真っ直ぐに。僕もその透明な瞳を見詰め返してみると、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。


「ごめんって。お詫びになるかわかんないけど、これをあげるよ」


僕は鞄の中にあった、唯一の思い出を少女の手に乗せる。

これは、まだ僕が放浪者になる前の頃のアルバムだった。もう誰かも思い出せないけれど、きっと大切だったのだろうと思える、一人の女性と撮った写真だけが収められたアルバム。

いつかは捨てないといけないと思っていたのに、結局最後まで捨てられなかったんだから、ここで渡してしまうのが一番だと思った。

それが、彼女へのせめてもの手向けだと思う。


「……ぇ?」


どうしてと言わんばかりにこちらを見詰めてくる。見えなくても何かはわかるのかな。

手触りだけじゃ、本と変わらないのに。

それよりも、


「今、何か喋った?」

「……」


少女は、言葉の代わりに歌を歌った。透明な音色が、洞窟の壁に反響して響き渡る。

とても、寂しげなリズムだった。なのに、どうしてか暖かい気持ちになる。

だけど僕には歌詞も、その意味も、さっぱりわからなかった。それでも、この歌が、リズムが、今のこの子の想いや気持ちなんだっていうのは僕にも理解できた。


「うん?またどこかへ連れて行ってくれるの?」


歌い終わった少女は、またも僕の手を引いていく。

どうやら、何か伝えたいことがあるようだけど、僕にはわからなかった。

洞窟の中は入り組んでいて、何本も道が分かれている。そのうちの一つに連れて行かれた。


「うわぁ……ここは何?図書館?」


岩肌に彫られた本棚に、大量の蔵書が収められていた。

僕は本というものを読んだことがない。僕が生まれた頃にはもう、紙の本なんて残っていなかった。

それが、ここには見渡すほどある。


「これは?」


少女が一冊の本を持ってきた。それは、見知らぬ言語で書かれた分厚い本だった。


「え?君が書いたの?」


少女は自分が書いたのだと主張するように、自分のことを指差していた。だけど、結局は僕の言葉も伝わらないから、答えはわからずじまいだった。

とりあえず、この子が書いたのだと思って読んでみる。

文字は、なぜだか意味だけわかった。初めて見る文字でも、頭の中で変換されていく感じがした。

僕は近くの椅子に座ると、集中して本を読み出す。幸い、時間はたっぷりあった。


内容は物語だった。王女と騎士の恋を描いた、ありきたりな物語。けれど、読み終わった時、僕はなぜか泣いていた。

これが、この子の経験であったと、不思議とわかってしまったのだ。

物語の最後は、魔王の手によって人々が連れ去られるというラストだった。その中で、騎士であった男性も命を落としてしまった。

本の最後のページには、一枚の挿絵があった。そこには、写真を抱きしめて泣く少女が描かれていた。

ページの隅には、本と同じ文字で『フェメラ』と記されている。少女の名前だろうか。


「フェメラ」


そう呼んでみるも、少女は首を傾げるばかりだった。やっぱり、伝わらないよね。でも僕はこの子のことを、とりあえずフェメラと呼ぶことにする。


「ねえフェメラ……この魔王は、海のこと?」


伝わるはずもないのに、フェメラは肯定するかのように俯いてしまった。

きっと、この星は水位の上昇によって文明が滅んでしまったのだと思う。

この子が生まれた頃には、陸地はもうほとんど残ってなかったのだろう。

もしかしたら、僕が思っているよりも年上なのかもしれないけれど。


「親しい人がいなくなるのは、寂しいよね」


レディに対して失礼かとも思ったが、僕は少女の頭を優しく撫でた。

フェメラは、静かに大粒の涙を流していた。

人の気持ちに同じものなんてないから、僕がこの子の気持ちを押し測るなんて間違ってはいるんだろうけど、それでも共感してあげることが慰めになると思った。


「僕も、同じだったんだ。親も、兄弟も、友達も、みんないなくなった。最後に残ったのは僕だけ。一人は、寂しいんだ。たまらなく辛い」


フェメラの涙に感化されて、僕も自分の気持ちを吐露してしまった。すると、フェメラはなんだか同情するような目を向けてきた。なんだよう。別にもう慣れたからいいのに。

そう思っても、たとえ口にしても、この子には伝わらない。だから、フェメラが僕の肩に置いた手にも、抗えなかった。


「ん、なに?」


無理やり屈まされた僕は、いきなりわしゃわしゃと髪を撫でられた。

もしかして、僕がやったことのお返しなのかな。

僕はそんな子供でもないし、慰められてもなぁ。


「あ、あはは、くすぐったいよ」


しばらくされるがままに撫でられていたけど、それは突然やってきた。


「っ!ぐ……わ、忘れてた……」


急に胸が苦しくなり、呼吸が荒くなる。どんなに息を吸っても空気が入ってきた感じがせず、だんだん意識が朦朧としてきた。

慌ててポケットからラムネを取り出そうとするが、そこにラムネの入ったケースはなかった。

あ、これ助からないやつだ。

僕はもう体に力を込めていられなくなり、その場に倒れ込んだ。

視点が下がると、見えないものが見えるもので、地面に転がっているラムネのケースが消えゆく視界に映り込む。

必死に手を伸ばすが、その手がケースに届くことはなかった。僕の意識は、そこで途切れた。


きっと死んだのだろう。次に目を覚ましたなら、死後の世界か。

ああ、去っていったみんなに会えるかな。待っていてくれるのだろうか。それとも、もっと先に行ってしまったのだろうか。

目を開けると、そこにはボロボロと涙を零す見知らぬ少女が……って、見覚えはあるな。

僕が意識を手放す手前、最後に見ていた景色にもいた。つまり、ここは死後の世界ではないということになる。

……だんだん思い出してきた。僕は、本を読むのに夢中になっていて時間を忘れていたんだ。

それで、どこかで落としてしまったラムネは、すぐそばの床に落ちていた。だけど、僕の手は届かなかった。

ならどうして、僕は生きているんだろう。


「……!」


きっと、そういうことだろう。今も僕の肩を揺らしながら、必死に何かを訴えかけてくるこの子が、僕の命を救ったんだ。


「ありがとう。おかげで助かったよ」


僕がそう声をかけると、フェメラは心配そうにしながらも手を離してくれた。

なんだろう。行かないでくれって言われている気がする。まあ、そうだよね。僕も思ったさ。だけど、僕には助けられなかったよ。


「ラムネのケース、ある?」


首を傾げたフェメラは、近くの机から僕のラムネを取ってくる。

中身は……全部使っちゃったんだね。しょうがないか。残りもどうせ数えるほどしかなかったし、ちょっと寿命が早まっちゃっただけだよね。

まあもしかしたら、飲んだだけ効果はあるのかもしれないけど。そんな希望的観測に縋るほど、僕は生に固執していなかった。


「ごめんね。心配かけて。もうしばらくは一緒にいるよ」


果たしてそれがこの子にとっての幸せなのかは疑問だった。だけど、僕が求められているのは理解できる。

多分、久しぶりに出会った人間だから、もっと色々話をしたいんだと思う。会話はできないけど。


「うわっ、なになにどうしたの?」


上半身だけ起こしていたのに、いきなり押し倒された。というか、抱きつかれた?


「もう大丈夫だって……重いから降りてほしいな」


重いとか言っちゃいけなかった。どうせ伝わらないと思ってたのに、マウントポジションを取られてポカポカと胸を叩かれた。表情は、怒ってる。


「ご、ごめん。もう言わないから離して……」


どうにか宥めて許してもらった。何を言っても伝わらなかったので、頭を撫でてみると不思議なくらい大人しくなった。

もしまた怒らせてしまったら頭を撫でることにしよう。

それにしてもと部屋を見回してみる。ここはさっきの図書館とはまた違う部屋みたいで、ベッドや机が置いてある。

ただ、それだけだった。図書館から持ってきたと思わしき本は山積みになっているけど、それ以外には何もない。

水も、食料も。生命維持装置なんかもないので、多分、この子も僕と本質的には同じなんだと思う。外に出られないだけの、旅人なんだ。


「どこから来たの?」


僕は少し言葉を変えてみた。これは、星を巡る間に見つけた言葉。どんな文明でも、どんな生き物でも、誰とだって会話できる、そんな魔法の言葉。

少女は、ハッとした顔になった。初めて言葉が通じたのだ。僕がこの言葉を使っている間は、この子の言葉もわかるはずだった。何かを話せば、僕にも伝わるようになる。なのに、フェメラは一言も発することなく、僕の口を一生懸命押さえていた。

知っているんだ。これが何かを。

この言葉は、失われた文明が遺していった言語だった。魔法言語というらしいけど、すでに魔法も後継者がいなくなって使える人なんていない。だけど、この言葉だけは僕にも扱える。

いいや、扱えるとは言えないのかもしれない。だって、僕には魔法を使うための魔力がないんだから。

でも、魔力は生命力とも言う。これは、僕の先生が教えてくれたことだ。つまり、自分の寿命を代償に、僕は魔法を使うことだってできる。


「ダメ。それは。あなたは、生きて」


短く、フェメラが言葉を発した。やっぱり、魔法の発動中はどんな言語でも理解できるようになるみたいだ。

けれど、フェメラはそれをよしとしなかった。見抜かれていたんだ。僕には魔法が使えないってことを。


「ごめん。そうだね。生きるって言ったのに、自分の寿命を縮めるなんて、ダメだよね」


魔法を止めてから、フェメラにそう謝る。思えば僕はさっきから謝ってばっかりだ。もう少し、格好いいところを見せたい。


「本当は、わかる。言葉。だけど、私は……」


それだけ言って、フェメラはケホケホと咳き込む。僕は、なんとなく理解した。多分この子は言葉を発すると死に近づくんだ。でもそれならなんで歌は歌えるんだろう。


「歌は歌えるのに、言葉は話せない?」


少女はやっぱり首を傾げる。

ふと、僕は思った。この首を傾げる動作は、もしかしたら肯定を意味しているんじゃないかと。


「これ、君が書いたの?」


僕はさっき渡された本を持ってフェメラに訊いてみる。すると、やっぱり首を傾げる。

ああ、やっと理解したよ。まさかジェスチャーから違っていたなんて。


「フェメラ」


もう一回呼んでみると、ニコッと首を傾げる。これは頷いているんだよね。僕の感覚だと。


「フェメラ、フェメラ。……フェメ?」


コクコクと頷く……首を傾げていたけど、僕があだ名みたいに呼んでみると、今度こそきょとんとした顔で首を横に振った。


「フェメって呼んでいい?そっちの方が可愛い」


僕がそういうと、びっくりしたような顔をして、顔が赤くなって、最後には頷いてくれた。もう面倒だから首を傾げるのを頷いたって言うことにする。


「ありがとうフェメ。本当に、色々と」


伝わると思った途端、気持ちが溢れ出してくる。ずっと、誰かに会いたかった。人の温もりが欲しかった。

そんな想いが、涙となって頬を伝った。


「ごめん……ごめんね……」

「……」


僕は一体何に謝っていたのだろう。自分でもなんのために涙を流し、誰に対して謝っているのかもわからなかったのに、その全てを肯定するようにフェメが頭を撫でてくれる。

フェメの細い指が僕の頭に触れる度、僕の心は震えるほどの感情を訴えてくる。

頭にあった手を、僕は自分の両手で握りしめた。


「いるんだね……ここに。ちゃんと。フェメは、存在するんだよね」


僕は不安だったのかもしれない。自分のように、フェメがいなくなってしまうのではないかと。僕と同じように、亡霊になってしまうのではないかと。

ただ、この温もりだけは、フェメがちゃんと人間で、ここに生きていることを証明していた。


「……いなくならないでほしい。君だけは、どこにも行ってほしくない」

「私も、同じ……」


囁くような可憐な声が、フェメの気持ちをしっかりと伝えてくる。

この雰囲気、この感覚。僕らは、会ったことがある。それも、ずっと一緒にいた。

だけど、一体どこで?わからなかった。フェメと一緒にいれば、もしかしたら思い出せるだろうか。


「もう、大丈夫だよ。ありがとう」


僕はそう言ってフェメの手を離した。だけど、フェメは納得いかないようで僕の頭をまた撫で始める。

甘んじてそれを受け入れながら、僕はフェメに話しかける。


「ねえフェメ、ここ以外にも、沈んでいない場所はある?」


こくりと頷くと、フェメは僕の手をとって歩き始める。

洞窟の分岐を出たところで、また別の道に入る。けど、その前にフェメは壁に触れると、また別の曲を歌う。

その声は、明るく陽気に、けれど暗く沈み、透き通るように濁っていた。


「……魔法。本物だよ」


短く呟くと、けほっと一つ咳をしてから僕を先導し始める。


「無理しないでね?」


僕がそうお願いしても、一つ頷くだけだった。

どこまで命に関わるのかわからないけど、本当に生きることを優先して欲しかった。


「わぁ……外だ」


洞窟をまっすぐ歩いていたのに、着いた先は晴れ渡る空の下、どこまでも広がる海だった。

僕が陽光を確認したのと同時、フェメの目から輝きが失われた。


「外では目が見えない?」


フェメはそれを首肯した。だから洞窟の中ではあんなに生き生きとしていたんだね。

それに、僕を助けてくれた。なら、外では僕がフェメを助けてあげるんだ。


「道はわかる?」

「……少し」


それは、少ししかわからないのか、少しだけ迷いがあるのか、どっちかはわからなかった。それを訊いてしまえば、フェメはまた一つ言葉を発することになってしまう。


「言葉はなくていい。どっちの方向かだけ教えてほしい」


僕がそういうと、フェメは真っ直ぐ斜め右を指差す。僕は頷く代わりに「うん」と言ってから、フェメの手をとって歩き始める。目が見えなくとも、フェメの足取りは確かだった。歩くのが僕よりも早いフェメは、僕に合わせて歩いてくれた。

僕が少し早く歩いたところで、フェメは顔色一つ変えずについてくる。

僕よりもこの星に慣れたフェメに安心し、僕はそのことを忘れていた。

ジャボンと、僕の隣でフェメが崩れ落ちた。より正確には、海に落ちた。


「フェメ!」


僕は慌てて繋いだ手をとってフェメを引き上げる。

飛び掛かられた時は重いと思ってしまったが、こうして持ち上げるとあまりにも軽かった。


「……道が……」

「ごめん。そうだよね。沈むのが普通なんだ……本当に、ごめん」


水に落ちたのに、フェメの体は濡れていなかった。服さえも。

僕は、やっぱり水に沈むことはない。だから、失念してしまっていた。

落ち込む僕の背中を、フェメが励ますようにポンポンと叩く。お返しとばかりに頭をポンポンと撫でてから、お互い見ないで手を繋ぐ。なんだろう。こんなことを、確かに何度も繰り返した覚えがある。記憶にはなくても、体が覚えていた。


「フェメ、君はレールの上を歩くといい。僕は、沈まないんだ」

「……」


本当?と訊くように僕を振り仰ぐ。そんな仕草が、いちいち可愛らしい。

こんな感情、いつぶりだろう。確か……まだ、僕の住んでいた星が滅ぶ前だったかな。

本当に、長い年月を生きたものだ。

この星の文明を窺わせるレールの上を歩いていくと、水中に沈んだ街が見えた。

全てを飲み込んだ海は、鏡のように空を反射するほど透き通っている。じっと目を凝らせば水中の様子など簡単に見通せる。


「沈んだ街があるよ。でもレールがこんな上にあるのに街は沈んでるなんて不思議だね」

「……」


何かを言おうとしたようで口を開いたが、すぐに思い留まって半開きの状態で止まっていた。

僕はそんなフェメの口を閉じさせてから、横抱きに抱え上げる。


「!?」

「ごめんね。ここから先に道はないんだ」


僕一人であればどこまででも歩いていけただろう。でもフェメはそうは行かない。だから、所謂お姫様抱っこで僕は歩いていく。僕の体は、フェメくらいの体重であればいつまででも抱えていられると思った。

それは、抱えているのがフェメだからかもしれないけれど。


どれくらい歩いただろう。体内時計だと丸一日は経過しているんじゃないかな。

僕らは、また違う島にたどり着いた。当たり前のようにラムネのケースを取り出し、ああそうかとまたしまい込む。

すでに、空っぽだった。明らかに飲まなければいけない時間を過ぎている。だけど僕はいつも通りだった。

どうやら、あのラムネは飲めば飲むだけ効果が続くらしい。

なら、多分僕に残された時間はあと三日。それだけあれば、十分かな。


「フェメ。着いたよ。ここが君が目指した場所だったのかは僕にはわからないけど」

「あってる」


島には、地下に続くようにポッカリと穴が空いていた。だけど人が歩けるようにはできていないんじゃないかな。

そう思っていると、フェメが穴の淵に手をかける。


「……儚く、灯る、最後の、光」


ざっ、と。地面が脈打ったようにうねると、最初からあったのか松明に火が灯り、穴の壁が変形して階段上になっていた。これもフェメの魔法なんだろう。とても凄い力だ。


「こほっ……行くよ」

「無理しないでね?」

「もう、大丈夫」


洞窟となっている穴の中に入った途端、フェメは活気付く。瞳は輝きを取り戻し、表情は明るくなる。


「ここ、私の拠点。ここでだけ、私は人になれる」

「この中でなら、話ができるんだね?」

「うん。色々、教えてあげる。この星のこと」


しっかりした足取りで降りた先には、海よりも澄んだ水が流れる川があった。


「光を」


この世界には、天の川という光の川が存在する。今僕の足元を流れる川も、そんな風に光り輝いていた。

これも、魔法なのかな。水を光らせるなんてすごい力だ。


「あなたは、魔法使えない。言語の魔法は、負担が大きい」

「ごめんね。もうやらないよ。あれ?でも最初から僕の言葉はわかってたんだよね」

「うん。ちゃんと、反応した。なのに、気付いてくれなかった……」

「ご、ごめん……僕が知ってるのとはちょっと違ったから……」

「……そう。なら仕方ない。でも、思い出せない?私の、こと……」


やっぱり、僕らは面識があったようだ。だとすると、僕は何を忘れているんだろう?

少なくとも、僕の記憶に長い白銀の髪に透明な目の女の子はいない。

いや……とても、昔の記憶……ずっとずっと前……確かに何か……。


「フェメ……フェメラ……フェメラル……?」

「そう、そう!思い出して!パルメント!」


だ、誰だ……?パルメント?聞いたこともない名前だ。僕は……誰だっけ。自分の名前すらも、思い出せない。

フェメは期待するように僕を見ていたけど、靄がかかったようにそれ以上を思い出せない。


「……ごめん、思い出せないや。でも、君が大切な人だって言うのはわかる。心が、魂が、君を追い求めていたんだ」

「……変わらない。私も、あなたも。私は、ずっと待っていた。変わらないのは当たり前。では、あなたはなぜ?」


言葉の繋がりがわからなかった。何が言いたいのかさっぱりだった。言語の壁は取り払われたはずなのに、僕はフェメの意図を掴み損ねていた。


「伝わらない……でも、忘れてしまったわけじゃない。それがわかったから、いい」


にこりと微笑むと、フェメは洞窟の中を歩き始める。

まだまだ先は続いていた。


「ねえフェメ、君はこの星の最後を見たの?」

「……見たとも言えるし、見ていないとも言える」

「それはどっち?」

「この星は、人から見たら滅んでしまった。けれど、まだこの星に生きる生物はいる。だから、完全に滅んだわけじゃない」


そうか。確かにそれなら僕も見た。あの洞窟のガラスの外側、透き通る水の中を優雅に泳ぐ魚は、本当に生き生きとしていた。陸地に棲む生き物にとって、この星はもう生きられる環境ではないかもしれない。だけど、それは海に生きる生き物には当てはまらない。むしろ、喜んでいるのかもしれない。自分達だけの世界になったのだから。


「そっか。じゃあ、文明が失われたところは見た?」

「それは、見た。私は、この星では魔女と呼ばれていたから」

「魔女?」

「魔法を使えたのは私だけ。各地に残る洞窟も、元は私が掘った避難所だった」


フェメは、だけど、と自分の行いを悔やむように話を続けた。


「結局、水は洞窟の入り口にまで達してしまった。地下に掘り下げたこの場所は、一瞬にして飲み込まれてしまった。私のしたことは、無駄でしかなかった」

「それは違う」


僕は思わず否定していた。確かに、いずれみんないなくなってしまうのかもしれない。足掻いたところで、無駄なのかもしれない。でも、きっと人々はそこに希望を見出せただろうし、感謝していないはずなんかない。


「きっと、フェメはたくさん頼られてきたんだろう?人々の最後の願いがそれだったなら、誰もフェメを責めたりはしないよ。だって、フェメがいなければ、困ることはたくさんあったんだろうから」

「……そう、かもしれない。だけど私は……」


それから、フェメが何かを言うことはなかった。正しい言葉が思いつかなかったみたいだった。

フェメは、この華奢な体でどれだけの年月を生きてきたのだろう。その身体にかかる重責は、とっくに限界を迎えていたんだと思う。


「もう、頑張らなくてもいい。今更、自分のために生きてもやることはないかもしれない。だけどせめて、最後には笑っていようよ」


僕はフェメの体を抱きしめていた。これは、僕の願望でしかない。けど、今みたいに落ち込んだままではいてほしくなかった。


「……じゃあ、思い出して?私のこと。そうしたら、きっと笑えるから」

「難しいことを言うなぁ」


記憶なんていう曖昧なものを思い出してと言われても、自分の意思だけじゃどうにもならない。

僕がそう言っても、まるでどちらでもいいかのようにフェメはにこやかに笑っていた。


「着いた。ここが洞窟の最奥」


そこには松明も、光る植物もなく、何も見えないような暗闇の中で、一際綺麗な宝石だけが光を放っていた。

宝石は、僕が見たこともないようなもので、彫刻の彫られた台座に固定されていた。


「あの宝石に、触れる?」

「触るくらいならできるんじゃないかな」


フェメはこれ以上前に出ることはなく、部屋の入り口でじっと宝石を見つめていた。

僕が宝石に近づくと、歓迎するかのように輝きを増す。

触れようとしてみると、バチッと何か静電気のようなものが走ったが、それから抵抗のようなものもなく、僕は丸みを帯びた白銀の宝石を撫でる。


「んっ……そのまま、手を離さないで」

「わかった。僕はここにいればいいんだね?」


フェメは一つ頷くと、大きく息を吸いこんだ。

そして、また知らない曲を歌い始める。今まで聞いたどんな歌よりも透き通っていた。

快晴の空のように澄み渡り、木漏れ日の差す森のような優しさがあり、全てを包み込む海のような雄大さがあった。

その声はどこまでも響き、洞窟と共鳴するかのように何度も反響してはその声を増幅させていく。

僕はフェメの歌声に聞き惚れていたけれど、よくみると宝石も恒星のような輝きを放っていた。


「あれ、なんだかここだけ暗くなってる」


宝石に汚れでもついているのか光が鈍い部分があった。その場所を撫でてみると、何もなかったかのように同じく白銀の光を放ち始めた。

フェメが歌い終わると、宝石は拍手するようにチカチカと瞬いたが、その光を一点に収束させると、洞窟の天井に向かって一本の光を伸ばした。


「今のはなんだったんだろう」

「……できた。本当に。こんなこと、なかったのに……」

「フェメ?ど、どうしたの……?」


フェメは急にその場に蹲ると嗚咽を漏らして泣き出してしまった。

あの光に関係があるみたいだけど、一体何があったんだろう。僕はフェメに駆け寄ると、その小さな肩を抱き寄せた。


「大丈夫?」

「……私は、平気。それよりも、外に」

「外?外に出たらまたフェメは光を失うことに……」

「いいから」


さっきまで泣いていたはずのフェメに、僕は腕を掴まれて元きた道を引き返していた。

風に靡く白銀の髪に混ざって、光の粒も前から飛んでくるが、僕はそれを気にしないことにした。

走って走って、洞窟の出口に近づくと、明らかに違いがあった。


「なんか、明るくなった?」


外に出ると、前よりも強い日差しに迎えられる。僕がこの星に来た時の日差しが冬の朝日だったとするなら、今の日差しは真夏の真昼といった感じだった。


「明るい?今までよりも」

「うん。って、フェメ!喋っちゃ駄目だよ」

「……もう大丈夫みたい。多分、あなたのおかげ」

「僕の?」


どうして僕がフェメの言葉を取り戻すのに関係があるのかはわからないけど、フェメはこんなに喋っても咳き込む様子はなかった。今までだったら、四つくらい言葉を喋ったら抑えきれないくらいの咳に襲われていたから、多分本当に治ったんだと思う。


「でも、目は……」

「見えない。だけど、わかる。私は、もう長いこと、盲目だから」

「……」


僕は何も言えなくなって頭を撫でた。フェメはやっぱり頭を撫でられるのが好きみたいで、目を細めて気持ちよさそうにしていた。


「あなたに残された時間は、後三日。違う?」

「……違わない」


急に訊かれてびっくりしたけど、それは紛れもなく僕に残されているであろう時間だった。

どうしてフェメがそれを知っているんだろうという疑問は出てくるけど、フェメは最初から不思議なことばかりだったし、魔法も使えるんだから何か方法があるのかもしれない。


「じゃあ……私も、あと三日」

「え?な、何が……?」

「なんだと思う?」


試されているのかと思った。初めてみる悪戯っぽい笑みは、僕を揶揄っているようにしか見えない。

だけど、本当に、何かが後三日で終わってしまう。僕の命以外の、何かが。


「わからないよ。教えてくれない?」

「……この星が、暗闇に満ちるまで」

「こんなに明るいのに?」


夜の訪れないこの星が、闇に包まれるって?そんなのは、あり得ないんじゃないのかな。

僕らを照らすあの輝きは、損なわれるどころかさらに光量を増している。

あれが暗くなるなんて到底信じられないけどなあ。


「見ていればわかる。何事にも、終わりはある。あなたにも、私にも。その最後が同時だったら……運命と言える?」

「……どうだろう。僕らが今いるここよりもっともっと離れたところで、同時に終わるものがあるかもしれない。それも運命って言い切るのは、ちょっとロマンチックすぎるかも」

「……そう」


そういうことじゃないと言わんばかりの不貞腐れたような顔だったけど、やっぱり僕にはフェメの考えがわからない。

でも多分かけるべき言葉は持っている。


「最後があるなら、その最後の一瞬までを一緒に過ごせることが、幸せなんじゃないかな」

「……あなたも大概ロマンチスト」


ちょっと格好つけすぎたかも。でも、もう時間の残されていない僕らが最後だなんだって言うのは、当たり前のことなんじゃないかな。

終わりが見えるなら、それに備えるのが、人間だと思う。


「でも、暗闇に満ちるならフェメにとってはいい星になるのかもね」

「……その星に、私はいない。私は、すでに居場所を見つけているから」


フェメの居場所?見たところ世界を旅するためのアイテムなどは何も持っていないみたいだし、ここ以外に場所はないと思うんだけど。


「あなたも、わかってる。あれは、私の心だった」

「……なんのことだろう」

「認めたくない?」

「……そうじゃないよ。ただ、君まで死ぬ必要はないと思うだけで」


あの洞窟にあった白銀の宝石は、フェメの心だった。触れた時、フェメと同じ温もりがあったからすぐに気がついた。

だけれど、人の心が見える形になって置いてあるのは、よくわからない。


「もう、私は十分生きた。最後に、あなたに出会えた。それで満足。これ以上生きてしまったら、それこそ孤独という地獄に囚われる。だから、連れていって」


僕があの宝石に触れた時、フェメの心もまた僕に触れていた。そして、彼女の魂は僕の中にある。

魂は肉体があってようやくそこに存在できる。この体が朽ち果てれば、自然と魂は天に還る。だから、フェメは僕に連れていってと言う。もう永遠を生きる肉体はいらないというように。


「……楽しかったかい?この人生は」

「楽しかった。辛いこと、悲しいこと、いっぱいあったけど、でも最後にこうしてあなたと居られる。それだけで、私の人生は楽しかったと言える」

「僕にその記憶はなくても?」

「私にはあるから」


あんなにも儚く、脆く見えていた彼女は、本当はとても強いみたいだった。

僕は、及ばないなぁ。死んでも死にきれず、世界を彷徨う亡霊になってまで、こんなところに来てしまった僕じゃ。

けど、そんな悲しい旅路ももう終わりを迎える。フェメのおかげで。


「……フェメ。行きたいところがあるんだ」

「どこ?」

「ついてきてくれる?」

「私は、あなたから離れられない」

「そっか」


心がここにあるんだ。体を置いていくことはできないんだろう。

僕はフェメの手を取るとゆっくりと歩き出す。終着点に向かって。


ついたのは、僕がこの星に降り立った場所。海に沈んだこの星には似合わない機械が置いてあった。

それは、僕が世界を旅するためのアイテム。無重力になる宇宙では、推進力が必要になった。僕の体はたとえ空気がなくても平気だけど、無重力を泳いでいくのは時間がかかってしまう。

こいつには、本当に世話になった。時間と共にガタがきて、何度も修理しては壊れるの繰り返しだった。

だけど、もうこいつともお別れだ。


「ステラスト。今ままでありがとう。僕は、ここに決めたよ。お前も、好きなところへ行くといい」


僕がステラストと名付けたこいつは、正式には星間移動用永久エンジンと言う。僕の故郷の技術の集大成みたいなものだ。本来なら人が乗るようのポットがあって、生身の人間でも星を移動することができる。だけど僕はこいつを改造するうちに、ジェットエンジンと動力源以外を取り外してしまった。だから、すでにステラストは僕専用の乗り物になっていた。そんな僕が乗らなくなったのに、ステラストがずっと誰かを待ち続けるのは、不憫だった。

だけど、ステラストは僕の命令にも反応しないで、動く気配がなかった。

いっつも僕の言葉一つで動いていたんだから、知能はあると思っていたんだけど、もしかして乗らないと動作しないのかな。


「……離れたくないと。そう言ってる」

「え?わかるの?」

「うん。この子の主人は、あなただけ。だから、自分の居場所も、あなたの下だけ。だって。信頼されてる?」

「……はは、そっか……なら、ステラスト。最後の命令だ。僕らの魂を、遠くまで連れていってくれ」


ステラストは、まるで首肯するようにエンジンを蒸した。ゴオオオォォォと唸る音が静寂の中に響く。

何度も改造されて不恰好になった機械は、最後の最後まで僕のために動こうとしていた。


「ありがとう。だけど、もう少しあるんだ。この空が真っ暗になった時、迎えにきてくれ」


ステラストは気が早かったとエンジンを切った。常に真上にあった陽光は、いつの間にか沈むように傾いていた。けれど、夜にはまだ早い。ステラストは、言わなくても僕のことを追えるはずだから、一緒に行動する必要はなかった。


「もういいの?」

「うん。僕のやりたいことは終わった。フェメは何かある?」

「……アルバムを、もう一度見たい」

「じゃあ、またあの洞窟に行こうか」


目印もない海の上を、僕らは迷いなく進んでいく。

心を僕に託したフェメは、海の上でも歩けるようになっていた。

ちゃぷちゃぷと水を踏む音だけが響く。今も海の中で必死に生きている魚たちも、死を待つ僕らには目もくれない。

歩いて、歩いて、歩いて。ようやく僕らはフェメが初めて連れてきてくれた洞窟にたどり着いた。

僕らは、式場に足を踏み入れる新郎新婦のような面持ちで洞窟の入り口を潜る。

暗闇が辺りを支配し、植物の灯りだけが頼りになった空間で、フェメは僕のことを見つめていた。

最後の最後まで、僕のことを目に焼き付けるように。


「あった。あなたがくれたアルバム」

「僕も見ていいかな。もうほとんど中身を覚えていないんだ」


大切なのだろうと思える女性が写っていたことは覚えているが、どんな人でどんな表情でどんな関係だったかさえも僕は忘れてしまっていた。

フェメは一つ頷くと、僕にも見えるようにアルバムを広げてくれる。

そして、僕は息を呑んだ。呼吸することさえ忘れ、そこに写る人物をマジマジと見つめていた。


「……フェメ?」


そこには、フェメによく似た人物が写っていた。隣には僕がいて、お互いに微笑みあっている。

だけど、今のフェメとは違うところがいくつかある。

髪は金色で、今よりも短い。それに瞳の色は透明ではなく翡翠色をしていた。

フェメよりもっと背が高く、もっと大人びた風貌で、なのに、雰囲気や顔立ちは全く同じだった。


「……懐かしい。本当に。私の一番の宝物」

「じゃあ、この人は、本当にフェメなんだね?」

「もちろん。あなたの横に立てるのは、たった一人私だけだから」

「ええ?」


僕には、家族がいて、友人がいて、恋人もいた……ような気がする。

本当にたくさんの仲間に囲まれて、幸せな時間を過ごしていた。それが、僕の記憶にある僕の人物像だ。

だけど、このアルバムに写る僕は、記憶にある僕よりも楽しそうで、ここが居場所だったんだって思えるくらい、楽しそうな表情をしていた。


「……そろそろ行こっか。もうすぐ、時間だろうから」

「うん」


僕は、少し強くフェメの手を握って洞窟の外に出る。

辺りは、夕焼けに染まっていた。海に落ちる残光は黄金のように輝き、フェメの髪を金色に染め上げた。

透明な瞳は、そのまま僕と同じような金に染まるかと思いきや、過去に存在したと言われるエメラルドという宝石のように翡翠色に輝いていた。


「……パルメント」


フェメが確かめるように’僕の名’を呼ぶ。

本当は、君の心に触れた時からわかってたんだ。これは、見えているのに変な反応を続けたフェメへの、ささやかなお返し。


「フェメラル・ラストライト。それが、君の名だね?」


僕がフェメの名前を呼ぶと、フェメは目に大きな滴を浮かべて大きく’頷いた’。

さっきまでは、首を傾げたことを僕が勝手に頷いたって言ってただけだったのが、今度こそ本当に首を縦に振った。

なんだよう。できるなら最初からそうしてくれれば分かりやすかったのに。


「パルメント・ラストライフ。ちゃんと、思い出せた?」

「ああ。全て、思い出したよ」


この海に沈んだ星は、僕らの生まれ故郷だった。長い長い旅をして、最後に辿り着いたのが出発点なんて、とんだ笑い話だよ。でも、だからこそここに惹かれたんだと思う。


「フェメは、ずっとここにいたの?」

「うん。あなたを、待っていた。いつか帰ると約束したから」


律儀な子だ。僕は、一度その約束を放棄してしまったのに。


「全て忘れてしまった僕に、君との約束を果たす権利はあるかな」

「ある。あなたがどんなに変わってしまっても、私は変わらないでいる。どんな未来でも、あなたは約束を果たす義務がある」


フェメが忘れない限り、僕は帰らなきゃいけなかったんだね。

よかったよ。戻って来れて。


「じゃあ、ただいま。フェメラル」

「おかえりなさい!パルメント!」


フェメは、僕を確かめるようにぎゅっと抱きつくと額をすり寄せてきた。

なんだろう。とてもくすぐったい気持ちになる。

僕らが本当に大人になっていたら、こんな風になっていたのかなあ。


「長いこと待たせてごめん。もう、離れないから」

「二度と、離ればなれにはならない。今までのことはいいから、これからはずっと一緒」

「うん。そうだね」


運命は引き裂かれようと、そこに本当の愛があったなら、もう一度やり直せるはずなんだ。

僕らは、ここからスタートするんだ。明るい未来に向かって。


「覚えてる?こうして星を眺めて、二人とも寝ちゃったこと」

「覚えてる。見て、パルメント。一等星が光ってる」

「そうだね。……また、一緒に眺めようよ。そうして、眠りにつくんだ。目覚めた時は、幸せな未来につけるはずだよ」

「いい考え。じゃあ、背中を貸して?」


僕らは、お互いの背中に自分の背中を預けると、頭をくっつけて夜空を眺める。

残光は海に溶け、フェメの髪は元の色に戻ってしまったけれど、僕にはあの純金の輝きが簡単に思い起こせる。

陽が沈むにつれ、瞬く星はどんどんその数を増やしていく。

僕らは、懐かしい歌を歌った。初めて会ったときにフェメが歌っていた曲だ。心を一つにして歌う歌は、星空まで届いていた気がする。

一面の星空が出来上がったところで、僕らは眠気に襲われた。絶対に離れないように、手をしっかり握りしめて、緩やかな眠りに落ちていく。

そんな微睡の中、唐突な浮遊感を僕は感じた。フェメの手の温もりは感じられるから、きっとステラストが僕らを運んでくれているんだろう。

あの機械の硬質さはないけれど、それは僕が感覚を手放してしまったからに違いない。

頼んだよ、ステラスト。僕らが眠るのにちょうどいい場所まで連れていってくれ。




瞼を開けると、そこは穏やかな海の上だった。

隣には、長い金髪を靡かせるフェメがいる。

僕らの間に、言葉はいらない。そんな野暮なものは、あの夜空に置いてきてしまった。

目線だけを交わし、手を繋ぐと、僕らは歩き始める。果てのない幸せの旅は、始まったばかりだから。



かなり謎も多く残っている気がしますが、ここで終わりとしておきます。

不思議な感じを残したかったのでこういう感じになりました。

気になる部分とか、ここ意味わかんないって人は、感想とかで聞いていただければお答えします。

ただ、気分転換にプロットもなしで書き上げたものなので、あまり深く考えていないと曖昧なものだったり、話と齟齬があったりするかもしれません。その時は、その旨も伝えます。

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