1-9) 16歳の肖像 「夕暮れのアーケード」
夕暮れのアーケードは、1日で一番通行人が多い時間帯を迎えていた。買い物中の主婦。下校中の学生。駅へ向かうサラリーマン。電車の時間に合わせて、振り出し始めた雨を避ける人もいる。行き交う人はいつもよりも多いようだ。
亜耶と紗希は、マクドナルドの二階席で人の流れをぼんやりと眺めていた。手元には、教科書とプリントが置かれているが、先程から手も頭も動きが止まっている。
昨日のカラオケは、結局男子がほとんど出してくれたらしく、一哉に渡した5,000円は紗希を通して亜耶に返された。亜耶も、自分一人分を一哉に出させるのは後が怖かったが、女子3人共出してもらうなら気が楽だった。
ただ、昨日遊んだツケは今日の授業中見事に払わされ、課題のプリントは明日の朝までに今日の分と合わせて提出しなくてはいけない。放課後、二人は連れ立ってアーケード街のマクドナルドの2階席に飛び込み、残りわずかというところで躓き、途方に暮れていた。
「亜美をしつこく誘えば良かったね」すっかり氷が溶けてしまったジンジャーエールを啜りながら紗希が言い、亜耶は「それは無理よ」と答えた。
3人の中で、亜美はなんとなく要領がよく成績も良い方だった。今日は家庭教師が来るからと断られたのだが、紗希はもう少し押せばなんとかなったのでは無いかと無謀な事を言ったのだ。
亜耶も成績は悪くない。むしろ良い方だったが、昨日からの真の事で今日はなんとなく集中力を欠いていた。
今朝教室で会うまで、昨夜の自分の事を真がどう思ったのかが気になって仕方が無かった。でも今は、真が自分の事をどう想っているのかが気になっている。そして自分が真の事をどう想っているのかも。
自分は一体どうしてしまったのだろう。今まで一度だって、こんな風に一人の男の人の事を考えたりしなかったのに。
「何考えてるの?」紗希が唐突に亜耶のおでこを指で突く。亜耶が驚くと紗希がにやにやと見つめている。
「真のことでしょ」図星を刺された紗希の問い掛けに、亜耶は答えることが出来ない。昨日の事は紗希に話してないのに、何故分かるのだろう。
紗希はやれやれと言った風に告げた。
「真はねぇ、亜耶には荷が重いかもよ」
「何か、知ってるの?」隠しきれなくなった亜耶が聞いてしまった。
「一見暗そうに見えて人付き合いも悪いのに、話すとちゃんと返してくれて、実はめちゃめちゃ優しいバスケ部のイケメンエース。それが中学時代の真」
「めちゃめちゃモテそう」亜耶の喉がこくりと鳴る。
「そう、結構すごかった。でも結局誰とも付き合ってない」
亜耶は、嬉しいけどちょっと不思議で、複雑な気持ちになる。
「どうして?」亜耶は思い切って尋ねた。
「最強のライバルがいるのよ。雫っていう」
紗希の言葉に、亜耶は驚いた。真由美からだけでなく、紗希の口からも出て来た、雫という名前。
「真君の、妹なんでしょ?」恐る恐る亜耶は尋ねた。
「そう、義理のね。そんでブラコン美少女。男なら誰もが羨む最強コンボ」紗希が吐き出すように言う。
亜耶は、紗希の様子がおかしいことに気が付いていた。同じ中学校出身というだけでなく、何か隠している事があるような気がする。
「紗希、もしかして中学で何かあったの?」
亜耶が問い掛けても、紗希は返事をしなかった。アーケードを歩く人並みを、じっと見下ろしている。
「紗希?」
「すごい偶然」紗希が、通りを歩く人並みに突然指を刺す。
「あれが雫よ」
落ち始めて来た雨に、真と雫は一つの傘の中で寄り添って歩いていた。真も雫も折り畳みの傘を持っていたが、雫が強硬に一つの傘に入る事を主張したのだ。折り畳みの傘は小さく、身長差もある二人ではお互い濡れてしまう事になる。真はやれやれと思いながら、雫が濡れないように、出来るだけ身体を縮こませて傘をさした。幸い雨の量はそれほどでも無い。荷物は犠牲になるが、雨対策のビニールカバーもしてある。
傘をさす真の腕を抱きしめ、寄り添い歩く雫は上機嫌に見えた。先程から、周りを歩く通行人の目が厳しく感じられる。以前から、雫と一緒にいる時は良く見た景色だった。雫は周りの目を全く気にしないで、雨を避けて身体を寄せて歩いている。
歩き辛さに、真は「雫、自分で傘さして歩け」と告げるが、雫はその度に「嫌」の一言で片付けていた。6月とはいえ、雨に濡れた制服は身体から急激に体温を奪いかねない。真は強引に雫の腕を振り解き、不服そうな雫に傘を持たせた。リュックから紺色のカーディガンを出し、「これを着ろ」と雫に渡す。
雫はと嬉しそうに「うん」と返事をして、真のカーディガンを制服の上に着た。腕の長さが違うので、袖の先から指先しか出ていない萌袖になる。傘を受け取った真の腕に、雫がもう一度腕を絡ませた。周りの男性の目は真を射殺し、爆発してしまえと怨嗟を送った。
アーケードに辿り着き、傘の水滴を払って畳む。濡れた身体をハンカチで拭き取っていると、後ろから「真」と声を掛けられた。
振り返ると、そこに申し訳無さそうな顔をした亜耶を連れた紗希が立っていた。
「向井。珍しいな、どうした?」同じ中学校だった紗希とは当然面識がある。受験で引退した後は疎遠になっていたが、同じバスケ部のエースとしてよく話もした。
「実は、課題のプリントでわからないところがあるの。そこのマックにいるんだけど、教えてくれない?」紗希がアーケード街のマクドナルドを指差した。
「だめです。義兄は忙しいんです」真の代わりに雫が答える。一見無表情な雫の瞳は、紗希を冷ややかに睨んでいた。
「久しぶりね、雫ちゃん」紗希は雫の意見を全く意に介さない口調で答える。
「お久しぶりです。向井先輩」雫の目は、紗希から逸らさない。
「相変わらず、兄離れ出来てないのね」紗希が挑発するように雫に告げた。
「大きなお世話です」雫は真の腕を取り「行きましょう、義兄さん」と二人を躱して歩き出そうとした。
真は「川崎さん」と、二人のやり取りに呆気に取られていた亜耶に声を掛ける。
「はいっ!」急に名前を呼ばれて、亜耶は返事が上擦ってしまった。
「また明日。向井も」雫に腕を引かれた真が歩き出す。
去り際、雫の冷ややかな視線が二人を通り過ぎていった。
二人の義兄妹が人混みに消え、亜耶は一つ息を吐く。
「あれが、雫よ」苦い笑いを浮かべる紗希に、亜耶は
「良くわかったわ」心底同意した。