1-8) 16歳の肖像 「迎えに来た義妹」
初夏の生暖かい風に、湿った空気の匂いが混じる。薄曇りの空は、いつぽつりぽつりと雨を落とし始めてもおかしくない。風に乗せて放課後の図書室の窓辺には、野球部の金属バットの打球の響きや、吹奏楽のブラスバンドの不協和音が聞こえていた。
真は顔をあげ、雨が降る前に帰路に着く決心を固めると、リュックに勉強道具をしまい始めた。体育館の入り口を通り過ぎる時、聞きなれたボールが弾む低い音と、シューズが床に擦れる甲高い音が耳に入る。耳が覚えてしまった音に、身体がざわつかないとは言えない。またあの中に飛び込んで、ボールを弾ませリングに向けてジャンプしてみたくなる。週休3日、平日のみの部活なんか許されるはずもないのに。
靴を履き替え校庭を横切り、校門を通り過ぎたところで、黒髪の少女が立っていることに気が付いた。白いセーラーに紺のプリーツスカートの、見慣れた中学の制服。潔いショートカットの下の怜悧な瞳。通り過ぎる誰もが目で追う美少女。
「雫」真は少しだけ驚いた声で名前を呼ぶ。
「やっと来た」雫がすぐに身体を寄せる。
「ずっと待ってたのか?」真は久しぶりに雫の頭を撫でた。本当はもう、そんなことをしない方が良いと思いながら。
真が図書室にいたのは2時間ほど。真も通った中学校からここまでは、駅を経由するしかないバスでは無駄が多く、歩くと1時間はかかる。1時間歩いて、ここでまた1時間待っていたのだろう。わざわざ自分に会う為だけにした事を労うには、こうして頭でも撫でてあげなくてはいけないと思えた。
そして、久しぶりの真の手の感触を雫が嬉しそうにするのを見て、可愛いなと思ってしまうのだった。
「良く来たな」真は雫が持つボストンバックを持ってやることにする。
「会いに来ないと、全然連絡もくれないじゃない」雫は、真の空いた方の手を掴んで歩き始めた。
「受験で勉強が大変かなと思ってさ」
本当は、電話しても何を話して良いのか分からなかった。もとから会話は多くなかったが、一緒に住んでいた時は、話そうなどとも思わなくても自然に会話になっていたのに、離れてみると何を話して良いのか分からなくなる。家族なんてそんなものかもしれない。
「志望校決めたのか?」並んで歩きながら、真が尋ねる。
「真と同じ高校にしようかなと思ってる」
「一高?大丈夫なのか?」真が通う一高はかなりの進学校で、雫の学力では難しいのではないかと思ってしまった。
「馬鹿にして」真への抗議に、雫は口を窄めて答えた。
「だって、そんなに勉強好きじゃなかったろう」
「勉強じゃなくて他のことをしたかったの」
「なんだよ他の事って」真は笑ってしまう。
一緒に暮らした数年間、真は雫を本当の妹のように可愛がった。どんな表情も、雫がすればみんな可愛かった。妹としてしか見ていない。妹以上になど、なってはいけない。
「真」雫が握った真の手に力を込める。
「お兄ちゃんて呼べよ」真は雫から手を離そうとする。
「嫌だ」雫は握った真の手を一度緩めて、指を絡ませようとしてきた。
手が緩んだ隙に、真はその手を振り解こうとする。
手を離すまいと、雫の手が真の手を追いかける。
雫の手から逃れた手は、空中を泳ぐようにひらひらと動き、やがて雫の頭の上に着地した。
雫が、自分の頭の上に置かれた真の手を、両手で包み込んだ。指を握ったり手首を掴んだり、真の片手と、雫の両手が、雫の頭の上で遊ぶ。
本当の兄妹がいない二人は、幼少期にする様な些細なじゃれあいを、普通はしなくなるような頃に始めて急速に仲良くなった。他人の温もりを確かめ合う。その心地良さをお互いの肌で確かめ合った。その先に何が待つのかは考えもしなかった。
でもある時気付いてしまう。触れても平気なのは雫だけだと。雫もそれに気付いてしまう。触れられて平気なのは真だけだと。触れたいのは真だけなのだと。思う事は一緒でも、想いは違ってしまった。真は自分と雫の想いの違いを知って、離れる決心をした。
そしてもう一つ気付いてしまう。先日のあれはなんだったんだろう。何故急に自分の胸に飛び込んで来た同級生を、あんなに自然に受け止めてしまったのだろう。
髪が、似ていたのかな。どちらも艶やかな黒髪で、同じ真っ直ぐな髪質だった。違うのは長さだけ。
雫が真の指を掴み、いきなり有り得ない方向に曲げる。
「痛い!」
雫は目を半眼にして真を睨む。
「今、他の女の子の事を考えてた」
「良く分かったな」真は雫の頭の上から手を引き抜き、指を曲げ伸ばしして痛みを遠ざけた。
「誰の事を考えてたの?」雫が鋭い目で真を見つめ続けている。
真はそれには答えず「指痛かったぞ」と、雫を睨んだ。
雫は真のその顔を見て、すぐに申し訳なさそうな顔をし、雫のその顔を見て、真もまたすぐに頬を緩めるのだった。
雫はそれ以上真に聞かなかった。聞いたところで、どうせ真が自分以外の女性に目を向けたりしないと分かってる。でも、もし自分以外に真が触れたくなる女性が現れたら。時々思い浮かぶ恐怖を伴う想像。雫は今日も、それ以上考えるのをやめた。