1-7) 16歳の肖像 「翌朝」
教室に入ると、いつもの通りこの時間に来ている生徒はまばらだった。中学まで部活の朝練があった真は、弁当を作っても充分に早く学校に来ることが出来る。挨拶をする友人もいない真は、何も言わずに自分の席に座り授業の予習を始める。今日は英語の授業があった。動名詞の意味上の主語。不定詞の意味上の主語を表したいとき、不定詞の前に意味上の主語 forを置いて、 for 目的格 to 動詞 の形で表す。動名詞でも同じように、動名詞の前に意味上の主語を置く場合がある。例題は(1)彼がそこへ行く事を主張した。(2)彼は私がそこへ行く事を主張した。He insisted on( )there.で、( )に入る句のふたつの違いについて出ている。(1)では主張しているのも行くのも彼。(2)では主張するのは彼で実際に行くのは私となる。(1)には(going)、(2)は自分が行くのだから(me goinng)。真は英語の教科書にそれぞれの答えを直接シャプーペンシルで書いていく。
次の例題に移ろうとしたところで、机に人の影が差した。顔を上げると、亜耶が立っていた。
「おはよう。真君」心なしか亜耶の顔が赤い気がする。
「おはよう。川崎さん」そう言って真はまた教科書に目を落とした。亜耶はそのまま動かない。話したい事があるだろうという事は分かっている。ほぼ初対面とも言える真の胸に、昨夜はいきなり飛び込んでしまったのだ。昨日の事は気にするな。忘れよう。そんな言葉を掛けてあげればいいのだろうか。亜耶にそう言おうと、もう一度顔を上げる。
亜耶は、昨日はごめんなさいと謝ればいいのか、ありがとうとお礼を言ったらいいのか考えて、決められないままに眠れない夜を過ごしてしまった。とりあえず早めに学校に着いてみれば、真はもうすでに自分の席で勉強を始めている。邪魔するのも悪いけど、言わなきゃいけない言葉は、後になればなるほど言いにくいものになる。意を決して真の席まで行ったが、肩に置かれた手の温かさを思い出して、何も言えなくなってしまった。顔を上げた真に、取り合えず挨拶を交わす。駄目だ。顔を見たらますます昨日の事が思い出されてしまった。真はまたすぐに勉強を始めてしまい、亜耶は困り果ててしまう。
ごめんなさいに決めて、教科書に目を落としたままの真に向けて口を開きかけた時、真がまた顔をあげた。
「昨日の事は気にするな。おれも忘れる。川崎さんも忘れてくれ」
真としては、バイトの事がばれてしまうのを恐れて言った言葉でもあった。交換条件でお互い忘れよう。そう伝えたつもりだった。
亜耶は思わず食い気味に
「忘れない」
と言ってしまい、真は一瞬困惑した表情を見せる。戸惑ってはいるものの、拒絶しようとはしていないのが分かる。いつも無表情だと思っていた真の、初めて見る表情。昨夜、真由美が言っていた「いつも取り澄まして無表情なシンくんの、他の人に見せない表情を見るのが楽しいの」という言葉を思い出す。私も、真君の色んな表情がもっと見たい。
真の表情が苦笑いに変わり、
「困ったな。忘れてくれよ」と告げるのを聞き、亜耶も自然に口元が緩んでしまう。
恥ずかしかったのは自分の方。忘れてほしいのは、本当は私の方のはずなのに。私が真を困らせている。これは楽しいかもしれない。
「いやよ。永久保存する」亜耶は、真のもっと違う表情が見たくなって、そんな言い方をしてみた。
真は、揶揄われているのを感じて、「勝手にしてくれ」と肩を竦めた。
「亜耶。おはよう」教室に入ってきた紗季が、亜耶に声を掛ける。
「おはよう!紗季」亜耶が真の席から離れていった。離れていく亜耶を見送りながら、真は雫の事を思い出していた。雫とのやり取りも、いつもこんな感じだったな。雫がおれに絡んできて、おれが呆れて。母を亡くした直後からの、真理恵の家で過ごした数年間。家族を無くしてしまった真の心に空いた喪失感を、埋めてくれたのは真理恵と雫だった。真理恵の夫の貴弘は、大手電機メーカーの工場長で、ずっと単身赴任が続いている。朴訥で、多くは語らないが、会えばそれとなく気遣ってくれる優しい人だった。今の自分があるのは、清水家の人達のおかげだ。真は心からそう思っていた。だからこれ以上、自分が迷惑をかけることはできないとも。
それぞれの席が、クラスメートで埋まっていく。亜耶は隣の席に座る紗季が、
「何話してたの?」と、真の名前を出さずにこっそりと聞いてきた。こういう気遣いが出来る紗季が、本当にかっこいいと思う。亜耶は悪戯っぽい顔を浮かべる。
「教えない」珍しく、紗季に素直に話さない。それどころか、頬を赤らめてさえいる。
「なに、亜耶のくせに生意気なんだけど。私に隠し事しようっていうの?」紗季が手に持ったシャープペンシルで、亜耶の脇の辺りを突いてきた。
「だって、忘れてくれって言われたんだもん」亜耶は紗季の攻撃を避けるように、身を捩り、紗季は目を輝かせた。
「つまり、忘れなくちゃいけないような事があったのね」
「どちらかというと、忘れてほしいのは、私の方なんだけどね」そう言った亜耶の顔は、初めて見るはにかんだ笑顔。恋する少女の顔だった。
「これは見逃せん」紗季が更なる追及の手を伸ばすべく、亜耶に後ろから抱き着いてきた。
ひゃあという亜耶の声を無視して、耳元で
「白状しなさい。あーや」と囁いた。
学年で一番可愛いとされる二人のじゃれあう姿を、クラスメート達が温かい目で見守っていた。
一番後ろの席で、一哉はまるで面白くなかった。いつもなら、真っ先に亜耶に挨拶を交わしに行くのだが、今日はとてもそんな気になれない。学校に来てみれば、真はいつもと変わらず澄ました顔で勉強なんかしている。睨みつけてから亜耶達の方を見ると、二人はいつもよりひそひそと、それもとても楽しそうにじゃれあっている。
きっと昨日の話で盛り上がっているのだろう。
他の誰も知らないが、自分は見たのだ。亜耶と真が、深夜の駐車場で抱き合っている姿を。
昨日の日中のコンビニでは、真は話しかけてきた亜耶に、知らないなどと惚けたことを言っていた。それがその日の夜には抱き合っていたのだ(一哉にはそう見えた)。自分が2ヶ月頑張って、全く成果が出なかった事を、たった1日で距離を詰めやがった。それもクラスに友達の一人もいない陰キャが。考えれば考えるほど、全く許せそうに無かった。
一哉が真を見詰める瞳に、憎悪の火が灯り始めた。