第三話
その日から毎晩、エルゼリカは彼の姿を探した。
当初は、見つからずとも数日で諦めるつもりだったのだが、気づけば来る日も来る日も彼を求めてしまっている。
何故、自分がこんなことをしているのか、会ってどうしたいのかさえわからない
「はあ……」
今日もまた彼を見つけられず、エルゼリカは重いため息を吐いた。
(彼は一体どこにいるのかしら……もしかして、神殿?)
流石に他の神が祀られている神殿の中までは覗けないので、もしそこにいるとすれば、エルゼリカには絶対に見つけられない。自分の神殿からずっと出ない神もいる。
彼もあの日、二日続けて外にいたのは偶然で普段は神殿にいるのかもしれない
(……もうちょっと探して、いなかったら、今日はもう休みましょう)
それでも、エルゼリカの中に諦めようという意思はなかった。
どうしてここまで、と自分でも思いながら流れる景色を眺めていると、不意に白い何かが視界を過ぎる。
「あっ!」
慌てて戻ると、そこには確かに探し求めた彼がいた。
彼がいたのはまた戦場である。直前まで戦闘があったのだろう、真新しい死体が所々に転がり、獣がその肉を食んでいる。人間から見れば悍ましいとしか言えないそれも、冥府の女神たるエルゼリカにとっては大して心を動かされる物ではなく、その眼にはもうすでに男神しか映っていなかった。
(よ、よし……声をかけてみましょう……!)
高鳴る鼓動を抑えるために深呼吸を繰り返しつつ、ゆっくりと彼に近づく。
やがて彼もエルゼリカの存在に気づいたのか、振り返った。
「こ、ここここここ」
こんばんは、久しぶりね。
そう言いたかったのだが、口から飛び出たのは何故か「こ」の一文字のみ。
(な、な、なにやってるの私!!)
羞恥心で頭が真っ白になるエルゼリカだったが、そこに目の前の彼が更なる追い打ちをかける。
『……どうかしたか? 鶏の真似などして』
「ち、違います!」
体中が熱くてたまらない。このまま消えていなくなってしまいたいほどだ。
しかし、今日この時を逃せば、今度いつ彼に会えるかわからない。
それを思えばこそ、エルゼリカは逃げ出したくなる気持ちをぐっと耐えられた。
「その……偶然見かけたから、声をかけようと」
勿論、噓である。けど、本当は会いたくて毎日探していたなんて、口が裂けても言えない。しかし、彼はそれを疑う様子もなく「そうか」と頷いた。
「……ねえ、この前も戦場を見ていたけれど、どうして?」
『仕事だからな』
「仕事?」
『ああ、俺は戦神なのだ』
命がけで戦う戦士たちは、誰でも自分たちの武運を祈る、否、祈らずにはいられない。それすなわち、彼らは全て戦神である彼の信徒であることと同義だ。
そして、戦争は彼にとって首級や勇猛な戦いそのものを供物として捧げられる儀式のような物なのだろう。
「なら、貴方はいつも戦場を回っているの?」
『まあ、そうだな。たまに神殿にいることもあるが』
なるほど、ということは今後は戦場を中心に探せば見つかる可能性が高くなるのか。
そんなことを考えながら、これから何を話すべきか考える。
時間はたっぷりあったくせに、会った時の話題を用意してなかったのだ。
あまりにも間抜けな失態にエルゼリカは自己嫌悪を強めるが、今はとにかく話題が欲しい。
せっかく会えたのに、ここでさよならなんて嫌だった。
何かないかと周囲を見渡した彼女は顔をあげて、これだと確信する。
「きょ、今日は、一段と星空が綺麗ね」
ずっと暗い冥界で暮らしているエルゼリカにとって、昼間の明るさは毒だ。見ているだけで目が焼けそうな錯覚を覚える。
しかし、夜は違う。柔らかな光で地上を照らす月とどこまでも広がる星々の光。エルゼリカは星空が最も美しい光景だと思っている。
彼女が昼ではなく夜のみ、地上の様子を覗き見るにはそういう理由があった。
出来れば彼も星空を好きだと思ってくれているといい。
そう思ったエルゼリカだったが、返ってきた返事は思いもよらないものだった。
『……綺麗、なのか?』
顔を上げた彼は、戸惑うように呟いたのだ。
「え、ええ。そう、思ったのだけれど……」
彼の反応に自分は何か変なことを言っただろうかと、エルゼリカは不安を覚える。
(もしかして、星空を見て綺麗だって思うのは、私みたいな地下で暮らしている者だけで、地上で生活している者はそんなこと思わないの? むしろ変なことなの?)
もしそうだったら、何か言って誤魔化した方がいいのではないだろうか。
そんな考えに至り、内心慌てるエルゼリカだが、何か言うより先に彼が言葉を発する。
『俺には、そういうのはよくわからないのだ』
「あ、あの、ごめんなさい、変なこと言っちゃったわ……」
『? いや、そなたは変なことなど言っていないだろう。俺がそういうのを理解できない、というだけの話だ』
「え?」
どういう意味かわからず困惑するエルゼリカに彼は言った。
『俺は、美しさというものが、わからないのだ』
「……美しさ、が?」
『ああ』
星空を見上げる彼の瞳には、一切の揺らぎが見えない。目の前の光景を美しいと思うどころか、何一つ心動かされていないのは付き合いの短いエルゼリカにも見て取れた。
『どうにも俺は美醜というものを感じる感性が欠落しているらしいのでな』
「……そうなの」
彼の言葉に、それはどんな感覚なんだろうかという俗っぽい好奇心と、それから少しの羨望が芽生えるのをエルゼリカは自覚する。
もし、自分も彼のように美しさなんて感じなければ、妹に対して劣等感を抱くこともなかったかもしれない。そう思ってしまったのだ。
とはいえ、これらを表に出して彼にぶつけるのは流石に図々しい。いかに社交性のないエルゼリカとはいえ、それぐらいの配慮は出来る。
(今日はもうここまでにしておいたほうがいいかしら……もう話すこともないし、ずっといるのも迷惑だろうし)
本当は、もう少しだけ傍にいたかったのだけれども。
「もう遅いし、私もう休むわね」
『そうか、おやすみ』
「ええ……あの」
『ん?』
「もし、もしだけど、また見かけたら声をかけてもいいかしら?」
ここで彼が少しでも嫌そうな顔をしたら、もう二度と声をかけることはできない。それがわかっていても問いかけずにはいられなかった。
その口で言って欲しかったのだ。またこうして過ごしても構わない、ということを。
『それは構わぬが……』
「ほ、本当に!?」
彼の返事にエルゼリカは思わず声を張り上げる。
『ああ……だが、面白い話なんぞ出来ぬぞ』
「それは私だってそうだから、気にしないでっ! おやすみなさい」
『……おやすみ』
今までにないテンションに戸惑いの様子を見せる彼に気づかず、魔法を解いたエルゼリカは上機嫌のままベッドに横たわった。
(嬉しい、嬉しい! 声をかけてもいいってことは、私嫌われていないのよね? 一緒にいて嫌じゃないって思ってもいいのよね? うふふ、やったぁ!)
顔がニヤけるのが止まらないエルゼリカは、彼が社交辞令で言った可能性について考えていない。それほどまでに舞い上がっているのだ。
しかしそれもある問題に気づいて、ピタリと止まる。
「私、彼の名前を知らない……」
また聞きそびれてしまった。聞きたいと思っていたのに、いざ彼が目の前に現れるとそれだけでいっぱいいっぱいになってすっかり忘れていたのだ。何をやっているんだろう自分は。
(次会った時こそ聞かなきゃ)
そう決意した時、ふと気づく。
彼の名前を聞くなら、自分の名乗らなくてはいけない。
だが、冥府の女神であると知ったら、彼ががっかりしないだろうか。地上や天上の神からすれば、冥界など辺境もいいところ。つまらなくて退屈で、本当に何もない場所だと言われているし、事実そうである。
他の神ならまだしも、冥界の神と親しくなりと思うもの好きがいるものか。
先ほど、声をかけてもいいと言ったことを撤回される可能性すらある。
(……名前は、向こうから聞かれた時に答えよう)
それは、ただの先送りという奴だったが、生憎とエルゼリカがそれに気づくことはなかった。