第二話
仕事を終えたエルゼリカは、寝室の寝台に寝間着姿で腰掛けていた。
その両手には手鏡が握られている。
「……あの神に謝らないと」
口ではそう言いながら、エルゼリカはどうにも気が乗らなった。
生まれてすぐ冥界に落とされ、冥界を統治する役割を果たすために働いていたエルゼリカは端的に言って、社交性が乏しい。
冥界にいる眷属達は皆、真面目だがそれ故に統治者であるエルゼリカに対して一歩引いた態度であるし、冥界にやってくる亡者達とは私的な接触など皆無。仮にあったとしても、仲良くお喋りなど出来るはずもない。残る妹との会話も、基本的に受け身。自分から話題を提供することは少ないのだ。
こんなものだから、あの男神に何と言って謝罪するべきか、エルゼリカは随分と頭を悩ませた。
悩み過ぎて、いっそのこと眷属を派遣して代わりに謝って貰うことすら頭をよぎったが、こんな個人的な失態の尻拭いをさせるのは良くないとかろうじて考え直した。
(とにかく、地上と繋いでみましょう……見つからないかもしれないし)
謝りたいのか、謝りたくないのか、はっきりしない思考のままエルゼリカは地上の景色を手鏡に映し出す。
まず向かったのは昨日、彼を見かけた戦場の跡である。
しかしもうすでに丸一日経っており、正直に言っていないだろうと思っていた。
だから、先日見かけた白髪を見つけた瞬間、見間違いかと疑った。
(え、どうしよう……いる)
探していた相手がすぐ見つかったのだから本来なら喜ぶべきなのだが、全く心の準備の出来てないエルゼリカには不意打ちに近く、戸惑いしかない。
とはいえ、いつまでもそのままでいるわけにはいかない。
意を決して、彼に話しかけることにした。
「あ、あにょっ」
しかし、噛んでしまう。
(うわああああああああああああ!!)
恥ずかしい、恥ずかしすぎる。今すぐ消えてしまいたい。
声をかけられた彼も、驚いた表情でエルゼリカを見ている。
お願いだから早く何か言って欲しい。
そう思っていると、その思いが通じたのか彼はおもむろに口を開いた。
『昨日ぶりだな』
「え、え、ええ……そそ、そうですね」
『何か用だろうか?』
「よよよよよ用というか、わわわ私は、あの、あの」
『……落ち着け』
気が動転してろれつがおかしくなっているエルゼリカを、彼は少々呆れたような顔をしながら宥める。
低くて静かなその声は不思議と彼女の頭にすんなり入り込んで、エルゼリカは深呼吸を一回行う。そのおかげか、少しだけ平静を取り戻すことが出来た。
「……ご、ごめんなさい……あの、私、謝りたくて」
『謝る? 何を?』
「……昨日、挨拶もせず消えてしまった」
『ああ、そのようなことか』
どうやらエルゼリカは重く受け止めたことも、彼にとっては些細なことだったらしく全く気にしていなかった様子だ。
『別に気にしていない。案ずるな』
「そう、よかった」
こんなことなら、わざわざ謝りに来なくてよかったかもしれないと思いつつ、しかしそうしたらしたで、挨拶しなかったことをいつまでもうじうじ悩んでいたであろうことは想像できたので、これでよかったのだとエルゼリカは自分に言い聞かせる。
「あの、それじゃあ、失礼するわ」
『ああ』
もう話すこともないので、エルゼリカは別れの挨拶を済ませるとすぐに魔法を解く。
何も映さなくなった手鏡をしまい込むと、彼女は自分が疲れていることに気づいた。
(知らない相手と話すのってこんなに大変なことなのね……)
長い間、限られた相手としか接していなかったので、知らなかったことである。
ただ少し、少しだけだが胸を満たすものがあるような気がした。それが何なのか、わからないが。
明日も仕事があることだし、さっさと寝てしまおうと寝台に潜り込むエルゼリカだったが、あることを思い出す。
(そういえば、私も彼も名乗ってないわね……)
まあ、もう二度と会うこともないだろうし、気にするようなことではないだろうとエルゼリカは瞼を閉ざした。
冥界の統治者は多忙である。
休みなくやってくる亡者たちの眠らせる場所を決め、冥界内部で問題が起きたらそれに対処して、眷属達に指示を出していく。
人間であれば過労死してしまうであろう膨大な量のそれを、エルゼリカは遊ぶ暇もなく休む時間を削ってなんとか片づけていくが、人間の数は増えており、それに伴い死者の数も増えている。
このままではいずれ、彼女一人ではどうしようもなくなってしまう。
(やっぱり、現体制を一新して、眷属達の権限を増やすしか……ああ、でもその前に冥界内の整備もしなきゃ。今でも見せる夢によって、魂を区分しているけど、あくまで大雑把なくくりだし……でも、その草案すらまだ出来てないし……いや、やっぱり眷属達の教育が先かしら……だけど、眷属たちにあまり負担はかけたくないし)
今後のことを考えれば、やらなければいけないことは山ほどある。しかしそのどれにも着手出来ないのは、忙しすぎるのもそうだが、やるべきことが多すぎて何から手をつければいいのかわからないからだ。
眷属に相談することも考えたが、これでもエルゼリカは冥界では冷徹な支配者として通っているので、情けない姿は見せられない。
そもそも、これは結局眷属達の仕事を増やすことになるので、彼らの反応が芳しくない可能性もある。そうなったら、果たして自分は彼らを説得できるだろうか。
とにかく、現状を変えるには、時間も手も頭も何もかも足りないのだ。
(せめて、せめて誰か、相談や助言してくれる神がいてくれれば……)
そう嘆いても何も変わらない。
前にも言ったが、大した用もなく冥界にやってくるような神はシュレイディア以外おらず、シュレイディアが仕事を手伝ってくれるとも思えない。もし仮に、何らかの気まぐれで手伝うと言っても、怖くてとても任せられないが。
(シュレイディアはきっと、こんな風に仕事で悩んだことはないわよね。毎日楽しそうに過ごしているし……)
シュレイディアにも勿論、神としての役目がある。しかし、それでも冥界の統治ほど激務ではないはずだ。
勘違いしないでほしいのは、エルゼリカは別にシュレイディアになりたいわけではない。
しかし、ふと思うのだ。もし、自分とシュレイディアの立場が逆であったなら、自分はどんなふうに毎日を過ごしていただろうかと。
毎日、おしゃれをして、美味しい物を食べて、周囲からちやほやされて過ごすのだろうか。ちょっと想像できない。
(でも、あの子にはきっと冥界の統治なんてできないわよね……いやでも、あの子が困っていたら周囲の神が進んで手を貸してくれるに違いないわ。それできっと、どうにかやっていくんじゃないかしら。あの子は本当に、周りから好かれる神だから……)
そんなことを考えていたエルゼリカの脳裏に、昨日と一昨日あった男神の姿が浮かんだ。
(何を考えているの、私……いくら他に神の知り合いがいないと言っても、縁もゆかりもない彼に、仕事の手伝いなんて頼めるはずないじゃない)
疲れているからこんなことを考えてしまうのだろう。
とにかく今は目の前の仕事を片づけなければ。そう、頭を切り替え、仕事に集中した。
彼のことは忘れてしまおう。それが一番いい。
そう思ったエルゼリカだったが、どうしてもそれはできなかった。
(……どうして、こんなに彼のことが気になるのかしら)
昨日と同じ、寝台に腰掛けながら手鏡を手に持つエルゼリカは自問を繰り返す。
以前なら、地上を覗き込むのはごくたまにしかしなかったはず。けれど、寝室に戻った彼女は当たり前のように手鏡を取り出し、めったに行わないはずのそれを三日連続で行おうとした。
そんな自分の行動に疑問を感じ、その行動原理を考えてみたところ、頭に浮かぶのはあの男神のことだ。
(話したいの? 彼と? 疲れるだけなのに?)
自分がわからない。けれど、どうしても手鏡をしまうことはできなくて、エルゼリカはまたもや地上の世界を覗き込むことにした。
向かうのは昨日彼と出会った場所。しかし、そこに彼はいなかった。
思えばそれも当然である。いつまでも同じ場所にいるわけがないし、会う約束だってしていないのだから。
しかし、エルゼリカの胸に落胆が広がるのを止めることはできなかった。
もしかしたら、まだ近くにいるかもしれない。
そう思って周囲を見渡すも、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
結局この日は彼を見つけることが叶わず、エルゼリカは諦めてベッドに入る。
(……明日、もう一回探してみましょう)
どうして彼を探そうとしているのか、自分でもわからぬまま、彼女は眠りについた。