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第一話

 人が住む地よりずっとずっと地下深く。

 そこには冥界がありました。

 命ある全ての者が行きつく場所。

 光が差さず温もりもない、静寂に包まれた世界。

 善良な魂には安らかな眠りを、悪徳にまみれた魂には苦悶に満ちた悪夢を与える寝床。

 そんな冥界を統治するのは一人の女神です。

 彼女は毎日毎日、冥界の主人としての役目を果たすべく働き続けていました。

 遊ぶことも、戯れることも知らずに、ただ真面目に、一生懸命に。

 人々は彼女を恐れました。彼女はとても厳格で、いかなる捧げものをしても罰を軽くしてくれないからです。

 神々は彼女を憐れみました。冥界という、つまらなくて退屈な場所にずっといなくてはいけないからです。

 ですが、そんなこと彼女には関係ありません。

 ただ、その役目に準じるだけです。

 彼女は真面目で厳格で冷酷な冥界の女神でした。

 けれど、誰も知らなかったのです。彼女はその実、とてもとても、寂しがり屋な女神だということに。

 その女神の名はエルゼリカといいます。






 冥府の奥深にてそびえ建つ城の中に、二人の女神が向かい合って座っていた。

 一人は、それはそれは美しい女神である。慎ましい清廉さと蠱惑的な艶やかさが両立し、そのこぼれるような笑みを向けられるだけで男は我を忘れ、己の全てを差し出すだろう。その体に飾られる上等な織物と数多くの宝石さえ、彼女の美しさの引き立て役でしかなかった。

 もう一人は、十分美しいと言える容姿をしているものの、目の前の女神には遠く及ばず、着ている物もずっと質素。表情も乏しく、暗い雰囲気をまとっている。

 二人の顔立ちはどこか似ていて、同じような金髪と同じような虹色の瞳を持っていたが、それがかえって二人の差を歴然とさせていた。

「久しぶりね、姉さん。会えて嬉しい」

「ええ……シュレイディアも元気そうで何よりだわ」

 二人は神々を統べる天上神・アヌヴィルの娘で、冥界を管理する姉のエルゼリカ、愛の美を司る妹のシュレイディアである。

 エルゼリカは冥界の管理の為に地上に出ることはほとんどなく、シュレイディアは時折こうして彼女を尋ねに来るのだ。

「ねえエルゼリカ姉さん、今年の祝祭には来るの?」

「……いいえ、行かない」

「もう、姉さんはいつもそういって欠席するじゃない。たまには来たら?」

 祝祭。それは年に一度行われる神々の宴。

 あらゆる神が集まり、酒や食事に舌鼓をうち、楽しむ日なのだが、エルゼリカは生まれてこの方この祝祭に出席したことはない。

 それは冥界での仕事が忙しいから、というのが表向きの理由であった。

「駄目よ。忙しいの」

「でも、姉さんはいつも働き通しじゃない。たまにな羽目を外すのも大事よ」

「……そもそも、私がいなくても、あなたなら引く手あまたでしょう」

「あら、私は姉さんと一緒にいたいのよ」

 エルゼリカの言葉にシュレイディアは拗ねたように頬を膨らませる。

 幼稚でしかない仕草も妹がすれば、魅惑的に見えてしまう。

「ねえ、いいでしょう? 行きましょうよ」

 甘えるような声は少し寂しげで、あなたがいないと嫌なの、傍にいて欲しいの、と囁かれているようだ。

 もしエルゼリカが男だったら、いや女でも、シュレイディアに魅入られ、彼女の願いを叶えようとしただろう。

 しかし、彼女の姉であるエルゼリカは心を動かされることなく、きっぱりと拒否した。

「駄目なものは駄目よ」

「……あっそ、好きにすれば」

 固辞するエルゼリカに気分を害したのだろうシュレイディアは、顔を顰めて立ち上がるとそのまま扉に向かう。

「シュレイディア、お茶はどうするの?」

「いらない! もうこんなところに用なんてないから、さっさと帰らせてもらうわ!」

 シュレイディアが部屋から出ると扉は大きな音を立てて閉ざされ、不機嫌を隠そうともしない足音が遠ざかっていく。

 残されたエルゼリカはため息をつくと、まだ淹れたばかりのお茶を口にした。

 愛と美の女神らしく、シュレイディアは気まぐれで奔放で我儘だ。少しでも自分の意に沿わないことがあると、すぐ怒りを露にする。

 それでも彼女を嫌う者は少なく、多くの神や人から愛されていた。

(本当に、私とは大違い……)

 かくいうエルゼリカもそのうちの一人である。

 先ほども勝手に来たくせに勝手に帰っていく彼女に、苛立たしい気持ちになったものの、嫌悪はない。

 シュレイディアは良くも悪くも嘘をつかず、祝祭に誘うのも何の含みもなしに、自分と一緒にいたいだけだとわかっているからだ。

 それに、暗く冷たい冥界にわざわざ足を運んで自分に会いに来てくれるのがシュレイディアくらいしかいないことも理由の一つになっている。

「……エルゼリカ様。シュレイディア様は?」

 シュレイディアが出て行ったのを感じたのだろう、眷属が様子を伺いに来た。

「帰ったわ。悪いけれど、片づけをお願いできる?7」

「はい。承りました。エルゼリカ様はこのままお休みに?」

「……そうね、お風呂の準備はできてる?」

「はい。いつでも入れます」

 今日の分の仕事はあと少し残っているが、明日早めに取り掛かれば問題ないだろう。。

 そう判断したエルゼリカは、湯浴みに向かうことにした。


「……ふう」

 温かいお湯に浸かりながら、エルゼリカは息を漏らす。

 入浴はエルゼリカにとって数少ない娯楽である。どんなに忙しくとも、この時間だけは死守しているのだ。

(あの子も、相変わらずね。昔からちっとも変ってない)

 脳裏に浮かぶのは、いきなり冥界にやって来たと思ったらすぐに出て行ってしまった妹の事である。

 自由でどんな物にも縛られないシュレイディア。周囲から愛され、慕われ、望まれ、許される、美の化身。神々の王たる父以外、誰も彼女にいうことを聞かせるなんてこと、出来はしないだろう。

 エルゼリカはシュレイディアを家族として大切に思っているし、自分に会いに来てくれることにも感謝している。

 ただ、同時にこうも思うのだ。シュレイディアのことが羨ましく妬ましい、と。

 自分は暗い冥界に閉じこもり仕事をしている時、彼女は自由を謳歌して遊んでいる。

 自分は人々から恐れられているのに、彼女は人々から愛されている。

 祝祭に行かないのだって、本当はシュレイディアの隣に立ちたくないからだ。隣りにいれば、姉妹である二人は嫌でも比べられてしまう。

 そう、よりにもよって美の女神と、だ。

 自分が彼女の美貌に遠く及ばないことなんて、誰に言われるでもなく理解している。

 だからこそ、どれだけ頼まれたって決して祝祭に足を運ばないのだ。

 誰がわざわざ惨めな気持ちになりたがるものか。

(どうして、あの子が私の妹なんだろう……)

 せめて、姉妹でなければこんなに悩むことはないのに。

 ああ、こんなことを考えてしまうのは悪いことだ。

 シュレイディアは何も悪くない。こんな自分を姉として慕ってくれるのに、今日だってわざわざ訪ねにきてくれたのに。

 なんて自分は身勝手でみっともなくて情けないんだろう。

 そうわかっているのに、止められない。

(……どうして、私はこんなに醜いんだろう)

 そんな自分が、エルゼリカは大嫌いだった。

「…………久しぶりに、外の様子でも見てみようかしら」

 自己嫌悪から逃れるようにそう呟いたエルゼリカは両手でお湯をすくうと、それに遠視の魔法をかける。

 やがて水面に、地上の風景が映し出された。

 輝く満点の星空、美しく咲き誇る花々、町で暮らす人々の活気。どれもこれも、冥界には存在しないものだ。

 それを眺めていると、シュレイディアを見かけた。随分と距離はあるが、彼女が多くの神々に囲まれていることに気づく。

「本当に、皆から好かれているのね……」

 そのまま気づかれぬように離れ、別の場所に移動する。

 それからどれほど進んだだろう。エルゼリカの目に飛び込んできたのは戦場だった。

 どこの国か、どこの部族かはわからないが、戦士たちは武器を持ち争っていたのだろう、多くの亡骸が並んでいる。

 最近、冥界に流れる魂が多いのはこれが原因かと見つめていると、自分と同じように戦場を見つめる存在がいることに気づいた。

 褐色の肌に色が抜け落ちたような白髪の美丈夫。服の上からでもわかるほど鍛え上げられた体に赤い瞳を持った彼は、無表情に戦場を見下ろしている。

(……誰かしら?)

 つい見つめていると、彼はふと顔を上げた。

 そして、二人の目が合う。

「――っ!」

 エルゼリカは反射的に両手を離して水をこぼしてしまった。それより魔法は解け、外の世界を映していた水面はただの水に戻る。

「いま、のは……」

 彼は確実に自分に気づいていた。ということは、彼は人間ではなく神、それも力のある者だろう。

(どうしよう、失礼な態度をとっちゃった)

 どこの誰かはわからないが、目が合ったのに挨拶もせずいきなり消えるだなんて、あまりにも不作法。

 本来ならすぐにでも彼に謝罪を行うべきなのだが、妹以外の神とほとんど接したことのない彼女は何を言えばいいのかわからず、明日に持ち越すことにした。

(とりあえず、明日の夜までになんて言おうか考えましょう……見つからなかったら、まあ、それは、仕方がないわよね)

 所詮は名前も知らず、たまたま見かけただけの相手だ。見つかる可能性の方が高いだろう。

 そんな小狡いことを考えていた彼女だったが、その脳裏にはいつまでもあの男神の姿が焼き付いて離れなかった。


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