救いようのない、情けない話だ
1
電話がジリジリと鳴りだした。
この番号を知るやつは限られている。
どこかの組織が、俺に仕事を用意したようだ。
いつもどおり、七度めのコールで呼び出しに応じる。
2
ローティーンの少年が、慣れない手つきでカップを差し出す。
俺はカップを手にとり、コーヒーの香りをかいだ。
余計なものが混じっている気配はない。
そのまま口をつけた。
周りにひかえる少年たちの顔に、尊敬の念が浮かんでいる。
熱いコーヒーをブッラクで飲めるのが、大人の証とでも思っているのだろう。
幼さが消えていない、甘やかされた小姓たち。
俺は、好々爺にみえなくもない、組織の長をうかがう。
「それで、お忙しい『蛇』のボスが、俺を呼びつけた理由は?」
「ふふっ、警戒しとるのぉ」
「もっとも油断のならない相手だからな」
「変わっとらんなぁ……おかげで、こちらは安心できるがの」
老獪なジジイが、茶菓子を口にほうりこんだ。
「たまには『シケモク』の顔も見ておかんとな。
なに、ちょいと世間話をしたいとおもっただけじゃて」
「そいつは怖い」
俺のまえに写真が差し出された。
ちゃんと服を着たモザイク野郎が、ずいぶんとご満悦の様子だ。
「おたくの金づるだな。この男がどうした?」
「このまえ、昇進しよった」
「ほう、どんな悪事を働いたんだ?」
「なにもしとらん」
老獪な『蛇』がいった。
「この男も、わしらも、なにもしとらん。
こいつのライバル関係にあった男が、勝手に殺されよっただけじゃ」
殺された男も、たいがいの悪党だった。
財閥グループに悪影響を与えそうな、スキャンダルが洩れかけた。
それをうまく防いだのが、モザイク野郎の手腕と認められた。
「運のいい野郎だ」
「勢いがあるのは間違いないのぉ」
どの組織にも独自の情報網がある。
野郎が『クノイチ』に仕事を依頼したのは、『蛇』も承知のはず。
知っていて、あえて言わない。
この件に関して、異をとなえる気はないということ。
これは世間話の、枕のようなもの。
「野郎はいま、我が世の春といった感じかい?」
「浮かれておるよ」
好々爺のような笑みをうかべて、『蛇』がぼやく。
「野心の強い男じゃから、まだまだこれからともおもっとるじゃろ」
俺はコーヒーに口をつける。
ジジイは茶菓子を口にいれ、まずそうな茶を飲んだ。
「まあ、金づるが出世したんだ。派手に祝ってやればいいんじゃないか?」
「そのへんは、うちの元気な連中がやるじゃろ」
「野郎好みの女を集めて、パーティーでもするのかい?」
「なんじゃ? おぬしも参加したいのか?」
「冗談はよしてくれ」
「まあ、おぬしには女がおるからのぉ」
俺は沈黙を選んだ。
渋い顔をした『蛇』がたずねる。
「『蛞蝓』の女を囲っておるようじゃが……。
おぬし、あの無愛想な売女の……気色悪い眼帯女の、仲間になるつもりか?」
どれだけ嫌いなんだ、このジジイ。
「俺はどの組織にも入る気はない。それに、女は預かっているだけだ」
「十日間も?」
「むこうの事情は知らん」
「ふたりも囲っておいてか?」
「『クノイチ』のほうは、ただの侵入者だ」
渋い顔のジジイが、深々と溜め息をついた。
本気で俺が『蛞蝓』に入るとまでは疑っていないだろう。
「いいように利用されよってからに」
ぼやいたジジイが、俺に新たな仕事を言いつけた。
3
俺は愛車に乗りこんだ。
いつもどおり、見張られている。
仲介役である俺の動きは、監視されて当然のものだ。
だから、俺は隠れることなく動いている。
監視役もまた、存在を隠さない。
俺に気づかれずに動きを探ろうとする奴は、まずいない。
いたとすれば、よからぬことを考えている奴にちがいない。
俺はいつもどおり、ベビージープを走らせる。
4
俺は約十日ぶりに『蛞蝓』のボスと対面した。
ボスの雰囲気は変わっていない。
背後には、すらっとした体型のメイドがひかえている。
「これが『蛇』から預かった手紙だ」
俺はメイドを介して『蛞蝓』のボスに手紙を渡した。
内容は知らない。
俺はただの使い走りだ。
「わかりました」
手紙を一読してしばらく、怖い女はそういった。
「返信は?」
「必要ありません」
「それじゃ、俺の仕事はこれで終わりだな」
「いくつか確認しておきたいことがあります」
「かまわない。が、俺のほうも質問がある」
「いいでしょう」
むこうが俺に質問をうながした。
「まず、『アール』はいつまで預かればいいんだ?」
「事が済むまでです」
「事というのは?」
「聞いていませんか?」
「なにを?」
「性欲処理の話です」
俺は黙って女をみつめた。
相変わらず、冷たい表情は微動だにしない。
背後のメイドは、若干そわそわしている気もするが。
「それが、二つ目だ」
「はい」
「『アール』を襲わぬよう、俺の性欲を処理しろと『クノイチ』に命じたのか?」
「少し違いますね」
「実際は?」
「あなたを襲ってスッキリしてきなさいと命じました」
「おい」
俺の反応を意に介さず、女は淡々と説明した。
前々から『クノイチ』は性欲処理に悩んでいた。
俺を襲うように命じたが、それを拒否した。
聞けば、なにか理由でもないと襲えない。
そこで『アール』を利用した。
「『アール』をあなたに預けることにより『クノイチ』はあなたのそばにいる理由ができました。あとは彼女があなたを襲うもよし。あなたが欲求不満になり彼女を襲うもよし。『アール』に襲いかかるあなたを『クノイチ』が襲うもよしです」
いろいろとひどいな。
「……とにかく、俺に死ねといっているわけだな?」
「あなたなら大丈夫でしょう。
あなたは彼女を抱いて生き残った唯一の男です。
あなたしかいないのです」
「抹殺したい男なら、いくらでもいるだろう?」
「腐るほどいますがそれは無理です」
「なぜ?」
「彼女が嫌がりました」
「はあ?」
「あなたに捨てられてから、彼女は恋に臆病になったのです」
「いきなり妙な表現をはさむな」
この女は、俺にどんな反応を期待しているんだ?
「あなたは彼女から逃げきった唯一の男です。獲物としてなのか恋心なのかはわかりかねますが、彼女はあなたを望んでいます。だからあなたしかいないのです」
「男を惑わして始末する。そういう業も極めた女だろうが」
「極めすぎてああなったのでしょう」
俺はかつての情事を思い出した。
抱けるというならいくらでも抱きたい、極上の女だ。
「……だが、死ぬな」
「あなたに死なれては困ります。
彼女もあなたを殺したくはない。それはわかってあげてください」
「あいつが襲ってこないのは、そういうことか」
「自分から誘うのが恥ずかしいだけだとおもいますよ」
「そんな女じゃないだろう?」
「あなたに捨てられて、『クノイチ』は女になったのです」
この女、どこまで本気なんだ?
「はやく女を満足させてほしいものです」
「命を懸けてか?」
「覚悟を決めて」
変わらぬ冷たい表情で、『蛞蝓』のボスはいった。
「すでに十日が過ぎました。あなたの理性も限界なのでは?」
俺は沈黙を選んだ。
なにを語ろうが黙ろうが、まったく意味はないわけだが。
「獣欲を解き放つのも時間の問題ですよ。
血をみると昂るのは、あなたも同じでしょうから」
怖い女が宣告した。
これで俺への説明は終わり、今度はあちらの聞き取りがはじまる。
この怖い女は、老獪な『蛇』に劣らぬ、狡猾さを秘めている。
相手の思考を誘導する。
相手を意のままに踊らせる。
そういう手合いだ。
では、すらっと体型のメイドが背後でそわそわしているのは、罠だろうか?
目が合うと、胸もとで拳をつくったのは?
唇の動きが「がんばって」と読めたのは?
これらの行為を予測したうえで、自らの背後に配置したのだろうか?
喪服をまとう眼帯女。
この女の思考だけは、なにもつかめない。
5
観葉植物が増えたリビングで、『アール』がハイボールを飲んでいる。
女はひとり。
もうひとりは外にでている。
「ねえ、『シケモク』」
「なんだ」
「いつになったら、『クノイチ』さんを誘うわけ?」
どうやらそこそこ酔っている。
「興味ないんじゃなかったのか」
「ないといえばないんだけれど、我慢してる理由がわからないからさ」
俺は小さく息をついた。
女ボスにつづいて、『アール』からも男を問われている。
「あれはいい女だ」
「そうだね」
「俺にはもったいないぐらいな」
「そんな感じではあるけれど、言い訳は禁止の方向でよろしく」
俺に対する評価が辛いが、まあ、仕方がない。
「世の中には、処女でなければダメだという男がいる」
「ん? つまり、『シケモク』も?」
「俺はそのあたりにこだわりはない。好きかといわれれば好きだがね」
「そうなんだ」
「独占欲が満たされる」
「へえ」
「とはいえ、初めての女はやさしくていねいにあつかう必要がある。昂っているときは慣れた女のほうがいい。こっちが飢えているときに、じっくりていねいに喜ばせるのは難しいものがあるからな」
「そう」
「女を満足させたときが、男に生まれてよかったと感じる瞬間だ」
「ふ~ん」
まったく興味のない顔をしやがる。
「……あいつも、処女を好む男に近いものがある」
「『クノイチ』さんも?」
「あいつの場合、最後の女、というものに興奮をおぼえるらしい」
「ん~、つまり、男にとって最後の女でありたい?」
「そうだ」
「浮気は許さない?」
「そんなレベルじゃない。
あいつのはもっと病的……殺人衝動におそわれる」
「……つまり?」
「最後の女になるために、相手の男を殺しにかかる」
無邪気な子どものように。
喜々として。
命を奪いにくる。
「基本、『クノイチ』が男と寝るのは仕事のとき、相手の男を殺すときだった。
殺人衝動にかられても問題はなく、本人の自覚も薄かった」
仕事をはなれた男と女。
誘い、誘われての、一夜の戯れ。
俺の勘違いでなければ、好意はあっても、殺意はなかった。
「……あれは精神病の一種だ。本人にも止められない」
「……『シケモク』は? 『クノイチ』さんとやっちゃったんでしょ?」
「表現がひどいな」
「そのときも、殺されかけたわけ?」
「まあな」
激しい行為のあとだった。
こちらは疲労しているのに、相手は溌剌としている。
つやつやした女が、刃物をちらつかせて襲いかかってくる。
「死力を尽くして逃げた」
「その表現もたいがいじゃない?」
「死ぬ気で窓から飛び降りた」
「うん、必死さは伝わるよ」
「命懸けの鬼ごっこだ。街中を逃げまわった。時間がたてば衝動もおさまるとおもったが、そんな気配もない。まともではなく、あいつのボスでも止められそうにない。正直、殺すことも考えた。あきらめて死ぬことも考えた」
殺せば、俺は死にたくなる。
殺されれば、女は悲しむかもしれない。
「そんなとき、娼館に逃げこんで気づいた」
「……もしかして」
「最後の女でなくなれば、衝動がおさまるかもしれない」
「……結果は?」
見つかるのは時間の問題。
スピード勝負にあせりはしたが、行為の最中、襲撃はなかった。
「あいつは娼館の出入口で俺を待ちかまえていた。見慣れた無表情をみて、正気にもどっているのはすぐにわかった」
「正解だったわけだ」
「そのあと強烈なビンタをもらい、浮気者、と捨て台詞を吐かれたがな」
「……しかたないよ」
「たしかに、それですんでよかったと思うしかない。たとえ、それを見ていた娼館の女たちに軽蔑されてもな」
「……うん、しかたない」
女に刺されそうな行為で、自分の命を救ったという話。
「救いようのない、情けない話だ」
「うん、そのとおりだとおもう」
俺は小さく息をつき、『アール』はちびりと酒を飲んだ。