魔王姫
コカトリスが耳をつんざく鳴き声を上げれば、今日という一日が始まる。墓場ではゾンビやスケルトンが墓の下から這い出して伸びをするし、野原ではスライムやヘルハウンドが思い思いに歩き回り始めるのだ。この光景をどこぞの勇者が見れば、あまりののどかさに拍子抜けしてしまうことだろう。
みんながのんびりとしているのは、魔王が住まう黒い巨城でも同じだ。
やはり、ここでもコカトリスが鳴く。その声を聞いて、デビルやインプといった魔王城守備隊の目も覚めた。
「元気、出して……まだ寝てちゃダメなの?」
とか、
「ふあぁ、腹減ったな」
とか、人間の言葉で好き勝手なことを言いながらベッドから立ち上がり、あるいは転げ落ちる。
魔王直属の親衛隊である黒騎士たちもまた、同じように朝を迎えた。
素早く寝間着を脱ぎ、礼服を着て、合同寝室から流れ出る。一斉に廊下を駆け抜け、階段を転げるように降りて、向かった先は食堂だ。
長方形の大部屋。その壁には、滑らかに切り出された白い石を隙間なく貼り付けてある。縦長のテーブルに、椅子がいくつも並んでいるが、まとめてそこに押し寄せた魔物や黒騎士によって、それらはすぐに埋まってしまった。
木のテーブルに載っているのは、金属ボウルに盛られた粟。人間の国では大したことのない雑穀だが、魔物の国ではそこそこ高級な品だ。
皆、そこをわかっているのか、人間の形をしている黒騎士たちはともかく、四本指で鋭い爪を持つインプたちでさえ、器用に木の匙ですくって上品に食べ始める。
誰もが黙々と食事を進める食堂。その出入り口の扉の前でそわそわしている人影があった。どうやら食事開始に遅れてしまい、入るに入れなくなっているようだ。
その人の姿は、魔王城としてのこの場にはおそらく最も不似合いで、内壁一面に白い石が張り付けられた城としてのこの場には誰よりも馴染んでいる。
少女。それは一見、ウサギか何かを思い起こさせる姿だ。綺麗にまとまった黄真珠色の髪は肩の後ろまで流れていて、前髪は眉の上で切り揃えられている。そして、瞳は大粒のルビーのような、透き通った赤色。それで黒い長袖ワンピースの上に白いベストを着ているのだ。これではまるで、魔物にさらわれたどこかのお姫様のようである。
ふと、少女が振り返った。背後からの気配に気が付いたからだ。
「……なんだ、クレメンスか」
安堵したように言う少女を前にして、気配の正体、クレメンスと呼ばれた細身の男は、照れくさげに頭を掻く。
「その呼び方はそろそろよしてください……部下から物凄い目で見られるんですよ」
それは彼にとって最重要課題だ。少女は日増しに綺麗になっていっている。このままでは、部下から嫉妬と羨望の目線を浴びることになるのは間違いない。その目線は、遠慮なく彼の身体を貫いていくことだろう。
しかし、クレメンスのそんな要請は即座に却下された。やはり嫌な対案が出ることによって。
「あら、そう? じゃあ、黒甲冑将軍って呼んだらいい?」
人間の国の宰相もかくやという黄色い長衣を着たクレメンスが、やれやれとばかりに首を横に振る。
「ああ……それもなかなか気に入らない通り名です。どうにかなりませんかね?」
「無理」
少女の答えに、クレメンスは、男にしては細い肩をがっくりと落とし、直後に
「たぶんだけど」
と笑った顔を見せられてその肩をさらにすぼめた。適当なことを言われたと知ったからである。
これでも、一度戦場に出ると、味方を率いて勇敢に戦う、魔王軍の将軍なのだ。その際にごつごつした黒甲冑を着込むため、誰からか「黒甲冑将軍」というあだ名をつけられている。
「そうだ。それで、どうされたんですか?」
「何のこと?」
「食堂の入り口をお一人でうろついていれば、僕としても気になりますからね。それで? どうかされましたか?」
一瞬しらを切った少女はしばらく言い渋ったが、結局こう言う他にはないのだ。
「……入りそびれた」
「リーゼロッテ様は素直でよろしい」
「その呼び方……そろそろやめてくれる?」
その答えを聞いたクレメンスの口角が少し上がった。少女リーゼロッテの言わんとするところは、その口調でわかったはずだ。
名前で呼ばれると、いい加減恥ずかしい、と。
「では、このように呼ぶことにいたしましょうか? ――ザータン・プリンツェッシン」
リーゼロッテは、一瞬呆気に取られてから、小さく笑った。
「魔王、姫……確かに、それは嫌かもね」
「でしょう? まあとにかく、変に遠慮せず、食堂にお入りください。そして朝食をとるのです」
その時、リーゼロッテの腹の虫が、思い出したように鳴いた。かなり控えめな音ではあったが、それで少女は顔を赤くして俯うつむく。
「さあ、早く。お腹がそう言っていますよ?」
そう言ったクレメンスは小さな背中を食堂に向けて押しやる。その時の彼の顔には、幼い子供に対して向けるような笑みが浮かんでいた。
少女リーゼロッテは、魔王である。それは、城の誰もが知っていることだ。
だが、城の外の魔物や人間が知っているかどうかは、定かではない。
ある春の日のことだった。
コカトリスが甲高く鳴く。城では、いつも通りの一日が始まる。
魔王リーゼロッテは、端的に言うと恥ずかしがり屋だ。だが、ある程度の勇気は持ち合わせている。つまり、今日も懲りずに食堂までやってきては、入りづらさを感じておろおろしているということだ。
そうしているうちにも、城の魔物たちは黙々と食事をするし、金属ボウルの中の粟は刻一刻と冷めていくのではあるが、それでも彼女の心の中では、機を逸したということが何よりも大きな割合を占めているのだ。
遅れて藍色のマントを羽織ったクレメンスがやってくる。彼は全くためらうことなく少女の手を取り、堂々と食堂に入った。それを見て、黙々と匙を口に運んでいた魔物たちの幾らかが、心の中で二人を冷やかして笑う。そして、手を取られたリーゼロッテは少しだけ頬を赤くして、斜め下を見る格好のままで歩いている。
もはやこの光景が毎朝の当たり前になってしまっているので、魔物たちの間では
「魔王姫と黒甲冑将軍はそういう関係だ」
という噂がほとんど公然と広がっている。本人たちはこの噂に対して何も言わない――つまり積極的に認めはしないが一切否定もしない――ので、魔物たちはさらに面白がって大声で噂するのだ。
それを知っているのかいないのか、二人並んでテーブルに着く。あるいは、クレメンスが座ったその椅子の横に、リーゼロッテがあえて腰を下ろしてみせる。平然としているように見えるクレメンスだが、内心ではきっと慌てていることだろう――リーゼロッテとは本来、そういう想像を働かせるのが好きな魔王なのだ。
金属ボウルに盛られた粟を食べる時、彼らもやはり、魔物たちと同じように、食事だけに集中する。それがこの国ならではの、「食べ物に感謝する」習慣だからだ。
二人とも何も言わないので、ものの数分で食事が終わった。魔物たちは一足早く食堂を出て、今日の訓練を始めている。
「さて、僕も行かなければ。優秀な部下がいて、昨日なんかは十分も打ち合っていたんです」
「追い越されないようにね、黒甲冑将軍」
クレメンスが席を立つと、リーゼロッテがふわりと笑う。思わず見惚れてしまいそうな笑顔だ。クレメンスに対して少し嫌味なことを言ったような気がしないでもないが、この笑顔を前にしては、そんなことはどうでもよくなる。きっと、こういうところがあるから、基本的に気ままな魔物たちも彼女についていくのだろう。
クレメンスもそれに微笑みを返し、食堂から出るべく前を向いて歩き出した。
それからほどなくして、魔王城中庭にて。
まだ東の低いところにある太陽は、建物に遮られていてここから見ることはできない。そういう理由でまだ薄暗いそこが、将軍クレメンス率いる近衛黒騎士隊の訓練場所だ。
食事ほぼ一回分遅れた格好のクレメンスが到着したころには、すでにそこは木剣同士が激しくぶつかり合う乾いた音に満たされていた。
「食らえっ!」
「負けるか!」
「甘いぞ! それっ!」
「うわっ! フェイントか、やられた……よし、次、行こう! 次!」
などと、威勢のいい掛け声も聞こえてくる。
それでも、クレメンスの姿を認めるや否や、手を止めて一斉に敬礼するのだ。質素にして剛健。それが近衛黒騎士隊の美徳とされるが、はたして自分は、こんな風にできていただろうか……などと思わず口の中で呟いてしまう将軍クレメンスである。
それでも、事前の約束は守るものだ。今日も打ち合い稽古の予約が入っている。ともすれば一日中でも誰かと斬り合っていそうな「彼」の姿を、クレメンスは目線だけを辺りに漂わせて探す。
見つけた。
一人だけこちらに見向きもせず、鋼の大剣で一心不乱に素振りをする黒騎士の男。かなり高位の黒騎士である証に、分厚い金属でできた重厚な全身鎧を着込んでいる。そんな彼のもとへ、クレメンスは片手を挙げて歩み寄っていった。
「やあ、遅くなってすまない」
その男、ラインハルトは、素振りをする手をはたと止めた。そして、ゆっくりと首だけをクレメンスの方に向ける。頭部をすっぽりと覆う兜のせいで表情はわからないが、スリット越しの目線は、遠慮なくこう言っていた。
――早く始めろ。
「それではお二人とも、剣を構えて……」
いつの間にかやってきていた一人の若い黒騎士がそう言うと同時に、クレメンスは腰の剣を抜き放ち、ラインハルトはゆっくりと鋼の刃を体の中心に近づけていく。
「始め」
両者は、同時に地面を蹴った。
勝負あり。結果、クレメンスの勝ち。
ラインハルトが放った渾身の垂直斬りを間一髪でかわしたクレメンスが、すかさず相手の喉元に突きを繰り出したのだ。もちろん、殺してしまってはどうにもならないので、寸止めである。
「……参りました」
肩で息をしながらくぐもった声で言い、ラインハルトは両手剣を右手だけで持って左手を挙げた。同じく息を切らしているクレメンスはそこで、彼の喉元に突き付けていた剣を収める。
「今日は……十二分か。時間がみるみる長くなっていく。いつ追い越されるかと冷や汗を流しているよ」
「……俺だって、負けてばかりです。勝てるように、鍛えなければ」
普段はまともに感情を見せようとしないラインハルトが口にした言葉。そこから、字面からは読み取れない果てしない向上心を感じ取ったクレメンスは、降参だ、というように笑った。
しかし、その笑いはすぐに訝しげな表情に取って代わられる。
ラインハルトとの打ち合いが始まる前まではやかましいほどに響いていた木剣の音が止んでいるのは、いつものことだから問題ない。周りにしてみれば
「黒甲冑将軍とラインハルトの打ち合い稽古はいつも壮絶な名勝負」
であるらしく、この国で最強と名高い近衛黒騎士隊の面々でさえ魅入られてしまうらしい。おかしいのは、自信家揃いのうえに気高い近衛黒騎士団の面々が、何やらひそひそ話をしていることだ。
「どうした?」
その輪の中に、あえて思い切りよく入って行きながら、クレメンスはそう訊いた。
「いや、それがですね、デビルのゲバルト隊がどこかに消えたらしくて」
「何だって⁉」
クレメンスは、思わず、といった様子で目の前の黒騎士の肩をしっかりと掴んだ。
「はいっ⁉ デビルのゲバルト隊が、訓練中にいなくなっていたのだそうです! 忽然と!」
「なるほど……」
その剣幕にすっかり怯えてしまった哀れな黒騎士から手を放し、クレメンスは腕を組んで少し考えた。
「それにしてもなぜ、ゲバルトが……」
少し首をひねりながら、クレメンスは周辺を捜索するよう部下たちに指示を出した。それは妥当な選択であるように見えた。
それがクレメンスを含む皆の敬愛する魔王を危機に陥れるなどということを、一体誰が予測できただろうか。
遠いどこかの国には、灯台下暗し、ということわざがあるらしい。今の状況が、まさにそうだ。
「さあ、行くぞ? こんなに警備が薄くてどうするんだろうなあ?」
真っ白で少しバサバサした長髪を微風になびかせ、背中から蝙蝠の翼を生やした男が心底面白そうに言った。ここは魔王城一階の隠し通路。一部分だけ薄くなっている壁を突き破り、強硬的に侵入したのだ。
「それでは――下層を占拠せよ!」
命令が下ると、彼の後ろを歩いていた数十体のデビルたちは、ものも言わずに走り出す。それを後ろから見た白髪の男は、硬い布を体に巻きつけたような服を少し揺らし、ゆっくりと歩き始めた。
その様子は、先に行った部下デビルたちを追っているように見える。
魔王城内部で最も目立つものは、間違いなくその中央を縦に貫く大螺旋階段だ。二重螺旋の鉄棒に長方形の石の板をいくつも渡して金具で固定した、極めて原始的なつくりをしている。そして、そこに足を掛けていいのは、魔王自身と、魔王に許可された者だけ。その時も、朝食をとり終えた魔王リーゼロッテが一人で階段を上っていた。
リーゼロッテの革靴が高い音を立てる板のはるか下で、石の床を長靴が叩く音がする。リーゼロッテは、何やら恐ろしい気配を感じ取ったかのように動きを止めた。何かにつけて兎っぽさを見せる彼女が本当に兎だったとしたら、その耳はまっすぐに立ち上がっていたはずだ。
気配はすぐそこまで来ている。しかし、何かが近づいてくるような音は、全くしない。長靴の足音は、依然としてはるか下にとどまっている。
それではなぜ――という心の声が本当に聞こえそうなほどに恐る恐る、リーゼロッテは周りを見回し始めた。
まずは、上。……異常なし。
次に、目の高さ。……問題ない。
では、足元……。
信じられないところから見上げる金色の目。リーゼロッテの左足が一歩、後ろに下がる。ちょうど猿が木の枝をつかんで移動するように、螺旋階段を構成する板の端をつかんで音もなく上のぼってきたのだ。
「やあ、こうして直接お話しするのは初めてですかね……魔王姫」
という口上を掛け声代わりにして、彼は柵をくぐり、階段に上がる。
「私はゲバルトといいます。見ての通りデビルです」
長身のデビルの腰には細身のサーベルがある。そして、硬い布を体に巻きつけたような服といえばデビルの標準戦闘服だ。そんな物騒な装備の、ゲバルトと名乗ったデビルは、しかし両腕をだらりと下げたまま、どうでもいい自己紹介を述べた。
「この国が常に人間より遅れているのは、魔王に責任があると思います。ですから私は、あなたを――魔王を殺しに来ました」
「え……?」
元から大きな赤い目を見開く魔王リーゼロッテの前で、ゲバルトは余裕たっぷりに腰のサーベルの鞘を払った。鋼の刀身が木の鞘とこすれ合って、聞くだけでも背筋が凍りそうな音を立てる。そのまま、リーゼロッテを激しく睨みつけるでもなく、かといってそれ以上何かを言うでもなく、無言でやや反り返った片刃の剣を振り上げ、ゲバルトは一段上の少女を目掛けて斬りつけた。
窓が多い魔王城の内部は明るい。だから、サーベルの刃は光を反射し、空中にその軌跡を残した。恐怖のあまり身動きが取れない魔王の左肩口に向けられたその一撃は、美しい弧を描いて狙い通りの場所に吸い込まれる。
そして、止まった。
「……は?」
普段は細められているゲバルトの目が、今にも飛び出しそうなほどに見開かれた。その目が見ているのは、なるほど信じろというのは到底無理なものである。
確かに、よく研ぎ澄まされたサーベルの刃はリーゼロッテの左肩口を捉えていた。しかし、それは彼女の皮膚に少しの切れ込みを入れるにとどまり、それ以上の進入を阻まれていたのだ。
「何が……起こって……」
これを見たゲバルトは、当てが外れたのがよほど衝撃的だったのだろう、サーベルをリーゼロッテの肩にめり込ませたままの姿勢で固まってしまっている。
しかし、どうしてこうなったのかが一番わかっていないのは、他でもない「斬られた側」だった。少女は、軽い衝撃のあった左肩を見て目をぱちくりさせたのち、一度自分の目をこすってみる。それでも目の前の光景に変わりがなかったのか、ほっと一つ息をついた。一段下のところにいるデビルが、肩にめり込んだサーベルをなかなか外さないので、わざとらしく苦笑いをする。
「……とりあえず、サーベル外そう? 悩みがあったら……聴くよ」
しかし「斬った側」は今、頭が状況処理の限界を迎え、思考が完全に停止している。その上「斬られた側」が目の前で笑ったとなれば、口から出る音は一つしか考えられない。
「……は?」
それから数分後、ようやく体をまともに動かせるようになった様子のゲバルトの手を遠慮がちに引いて、リーゼロッテは大螺旋階段を上り始めた。我に返ったゲバルトは、もう彼女に斬りかかることはなく、複雑な表情で従う。
その後、さらに五分ほど上った先にある扉を開いた。白と黒、それ以外の色は存在しない小部屋。いくつかある窓はすべて閉め切られているのに、空気は美しく澄み切っている。
「ここは、もしや……」
「そう」
正面には、巨大な椅子が鎮座している。人間の王のものとは違って、木目がむき出しになっているが、綺麗に磨かれた上に透明の塗料が塗られたそれは、まさしく王座の名に恥じない逸品だ。
その椅子に向かって歩いて行ったリーゼロッテは、椅子に浅く一礼したのち、軽くよじ登るような格好でそこに座った。すると多少は気持ちが据わったのだろうか、椅子から少し身を乗り出すようにしてゲバルトを見下ろし、優しい声で尋ねる。
「何か……困ってることはある?」
その言葉に、うなだれたまま棒立ちになっていたゲバルトの頭が勢いよく跳ね上がった。口には出なかったが、その顔には
「この人は何を言っているんだ」
と分かりやすく書いてある。
「別に、弱みを握ってどうこうする……ってことじゃない。ゲバルトさん、何かもの凄い悩みでも抱えてそうだなあ、って」
「なぜ……そう思うのですか」
「あたしを殺したくなるぐらいの、何か。その何かは、人間の国よりもいろんなものが遅れてること、じゃないと思った」
「しかし――」
その時ゲバルトは、はじめて自嘲的な笑みを浮かべた。
「しかし私はいずれ、このあと死刑を言い渡されますよね? もはや運命が決まったこのデビルに、いまさら何を訊こうというのでしょうか?」
だが、それはリーゼロッテの次の言葉によって一瞬で吹き消されてしまう。
「死刑?」
少女はただひたすら不思議そうに、小鳥のように首をかしげる。ともかく、それでゲバルトは、今度こそ完全に毒気を抜かれてしまった。階段上で度肝を抜かれたあとだったので、今日は彼にとって大変な一日であることだろう。
「私は、日々の生活にストレスを感じています。毎日同じ顔ぶれで、大声を出しながら木剣を振り回し続ける……私は静かに本を読んでいたいのに……。この生活がいつまで続くか考えると、もう虚しくなってしまいます。だから、もうこんな……兵役には、就きたくないのです」
一つ一つ、苦情を紡ぎ出すゲバルト。その様子を見たリーゼロッテは、静かに続きを促した。
「あなたを斬ろうとした罪がもし許されるならば……私はどこか遠いところで暮らしたい」
そして彼は再び俯き、そのまま固まったように動かなくなってしまった。
「……あたしは人間の国の修道女じゃないけれど、それでもこの耳で、ゲバルトさんの悩みをしっかり聴き遂げた」
辺りはいつの間にか、厳粛な静寂に包まれている。
「確か、ゲバルトさん、あなたはこの城の生まれだったよね。そして、一度もここから出たことはない。そういう皆みんなの考えに対して配慮が全くなかったことについては、あたしに責任がある」
そこでいったん言葉を切る。それはゲバルトに、今の言葉の意味を考える時間を与える意味があった。
「ゲバルトさんは、好きなところに行っていい。これまで辛かったなら、思いっきり好きなことをして、自分にご褒美をあげていい。もちろん、別のところで働いてみて、ここにいた時の方がよかったと思ったら、戻ってきてもいい」
リーゼロッテがそう言うと、ゲバルトは息をのんだ。彼が未だかつて経験したことがないもの――すべてにおける自由を突然、目の前に提示されたからである。
「それと、あなたの話を聴いて、このままじゃ駄目なんじゃないかって思った。さっきも言ったけど、城の皆が嫌な思いをしていないか……それを確かめられるようにする。もう、あなたのようになる人が出ないように、あたしが努力してみる……。だから、安心して」
「……はい」
驚いて吸い込んでいた息をやっと吐き出すように、ゲバルトはゆっくりと答えた。リーゼロッテはひとつ頷くと、ちらりと窓の外を見やる。
「ちょっと遠くまで転送することになりそう。いい?」
ゲバルトは一礼するだけで何も言わない。それは、外で何が起こっているのか、もう知っているからだ。
「じゃあ、いくよ」
リーゼロッテが右手を顔の横まで持ち上げる。少し俯いて目を閉じ、口を真一文字に引き結ぶ。彼女の集中に呼応した魔力が蜃気楼のように空間を揺らす。
空間の揺らぎがゲバルトの目の前に集約され、ぼんやりと青白く発光しはじめた。およそ円形を保ったまま不安定に揺れるそれ――転送門に、ゲバルトは踏み込んでいく。
数秒が経過し、ゲバルトの気配が完全に消えたのを確かめたリーゼロッテは、億劫そうに目を開けた。数分前から聞こえていた足音がついにすぐそこまで来て、正面の扉を丁寧に押し開けてくる。
「魔王様」
藍色マントのクレメンスが、やや息を切らして部屋に入った。
「デビル部隊が反乱を起こしましたが、たった今、鎮圧に成功しました。抵抗しようとした者もいましたが、周りが投降するのを見て諦めたようです。死者、故障者はいません。しかし隊長のゲバルトという男の行方が現在分かっておらず、周辺を捜索中です」
そこまでほとんど息継ぎをせずに言い切り、
「それでは、僕はここで」
と慌ただしく出て行こうとする。
「待って。言わなきゃいけないことがある」
「はい、何でしょうか?」
「そのデビルたちは不問にして。あと、隊長の捜索も、やめていいよ」
クレメンスの顔は一瞬、無表情で固まったが、リーゼロッテの意図を彼なりに察したからだろうか、ひとつ頷いて部屋を出て行った。
結局、魔王の「特赦」は実行された。
日が昇る少し前。背中から蝙蝠の翼を生やした男が、木製の簡素なベッドの上に横たわっている。
そして、朝日が地平線から顔を出し、まばゆい光を周囲にまき散らし始めた瞬間、そこでもコカトリスが鳴き、彼の一日が始まる。
しかし、それは彼にとって、ただの一日ではない。あの可憐で優しい魔王がくれた新しい生活が、今日から始まるのだから。
どうか僕のことを「飽きっぽいやつ」と思わないで頂けると助かります……。Byモロトフ爆弾